台湾の虎爺(その1)
─新港「奉天宮」の奉納虎爺
(台湾嘉義県新港郷)
中国や台湾・東南アジア華人社会で石獅などを見て回っている私は、虎もネコ科という理由で、雲南の魔除けの瓦猫などと同様、魔除けのネコ科動物像として、見るべきアイテムとしています。虎爺は、単体の魔除けの虎像です。
図版説明:
図1.新港奉天宮虎爺A(顔のUPです)
台湾の神廟の神卓の下には(上の場合もある)、虎爺がおられます。木彫が多いです。
これは東南アジアでも福建系の華人の廟にもみられ、『三国志演義』の蜀軍にならって「五虎将軍」など呼ばれることもあります。
台湾では、各地の廟堂におられることが多いですが、南部雲林県の北港と、附近の嘉義県の新港のものが有名です。
北港は、泉州系の街で、有名な媽祖廟「朝天宮」(ちょうてんぐう)があります。清代の雍正八年(1730)に「笨港〈北港の旧名〉朝天宮」と称した)しています。
新港はそこから漳州系が離れて造った街で、媽祖さまを祭祀する奉天宮(嘉慶六年〈1801〉創建)する奉天宮で知られます。虎爺は、陸続と信徒さんが奉納するので、数が揃って壮観です。
観音さまの祭卓上にたくさんおられます。北港朝天宮の虎爺さまも、新港奉天宮の虎爺さまも、「喫炮」(漢語:チーパオ)といって旧暦三月十九・二十日に媽祖さまが街の境内をお巡りになる際、虎爺さまを載せた御輿に大量の爆竹を放つ習俗で知られます。両鎮にはともに虎爺会という専属の信徒組織もあるくらいです。
図3.新港奉天宮虎爺B(黒ずんでいるようです。縞はあります)
なお、北港朝天宮では、虎爺は、大爺・二爺・三爺とおられます。
図4.新港奉天宮虎爺C(黒虎タイプ)
図5.新港奉天宮虎爺D(黒虎タイプ)
媽祖さまのお祭りで、虎爺は爆竹に包まれてたいへんなお役目だと思います。しかし、近くの民雄郷(嘉義県)では、昔の地名が「打猫」(ダーマオ)というくらいですから、まあ、仕方ないです(ホアンヤ族〈漢字表記:保安雅族〉ロツァ支族の集落タアニャウ社に由来)。
図6.北港朝天宮虎爺A(黒ずんでいます)
そういえば高雄ももともと「打狗」(ダーガオ)という地名で、現地民の言語に由来します。
図7.北港朝天宮虎爺B(黒ずんでいます)
しかし、もちろんのこと、ほんとうに「猫殴り」や「狗叩き」という虐待をしているわけではないので、どうぞご安心ください(打狗の地名は、平地原住民のマカット族の言葉で「takao」を漢字で当てたもので、「竹林」の意味です。竹を生やして防備とした習慣です)。
(その2につづく)
附記.北港と新港
北港は泉州人系の街で、媽祖廟の祭祀で同じく知られる近く新港は、漳州人の街である。もとは「笨港」の名で知られ、オランダ人の地図には「Ponkan」と表記されている。近くの新港と媽祖参拝の賑わいを競う街として知られる。
本来の市街は笨港溪の南北岸ともに港を設けて市街を形成した。明末天啓元年(1621)、海賊顏思齊らが笨港に入植して十の村寨を建て、顏思齊の没後は鄭芝龍が後継となり、明朝に帰順しながら開発を進めた地域である。このような由来から、台南・鹿港・北港は、台湾の3大古街と並び称される。崇禎十七年(1644)台南に依っていたオランダ人の進出を受けて支配下に入る。
清代になり、康熙年間は漢人の入植が進み、朝廷も一貫して北港を重視した。たとえば、康熙二十二年(1683)には公館を設けて租税を徴収し、雍正九年(1731)には、笨港鎮丞を設置し入港船舶を管理した。
乾隆十五年(1750)年、笨港渓の洪水で、街が笨南港・笨北港に河を夾んで二分された。笨北港が泉州人、笨南港が漳州人に居住が分かれたが、乾隆四十七年(1782)、地盤争いが泉州人と漳州人との間に発生した。
直後の乾隆五十二年(1787)には、他の台湾中部南部の街同様、林爽文の役で大打撃を受け(戦死108名)、その後連年の洪水に悩まされた結果、嘉慶初年(1796)、漳州人が、近くの新港(嘉義市・当時は新南港)に移住した。
本来の市街は笨港溪の南北岸ともに港を設けて市街を形成した。天啓元年(1621)、海賊顏思齊らが笨港に入植して十の村寨を建て、顏思齊の没後は鄭芝龍が後継となり、明朝に帰順しながら開発を進めた地域である。
このような由来から、台南・鹿港・北港は、台湾の3大古街と並び称される。崇禎十七年(1644)台南に依っていたオランダ人の進出を受けて支配下に入る。
清代になり、康熙年間は漢人の入植が進み、朝廷も一貫して北港を重視した。たとえば、康熙二十二年(1683)には公館を設けて租税を徴収し、雍正九年(1731)には、笨港鎮丞を設置し入港船舶を管理した。乾隆十五年(1750)年、笨港渓の洪水で、街が笨南港・笨北港に河を夾んで二分された。
笨北港が泉州人、笨南港が漳州人に居住が分かれたが、乾隆四十七年(1782)、地盤争いが泉州人と漳州人との間に発生した。直後の乾隆五十二年(1787)には、他の台湾中部南部の街同様、林爽文の役で大打撃を受け(戦死108名)、その後連年の洪水に悩まされた結果、嘉慶初年(1796)、漳州人が、近くの新港(嘉義市・当時は新南港)に移住した。



























