閑になった石狗の遊ぶ園
─湛江市博物館所蔵の175匹ワンちゃん
(広東省湛江市赤坎区湛江市博物館)




   これらの石像は、石狗(せきく)といって、海南島対岸の雷州半島に多い石彫の魔除けの犬の像です。広東省西部と広西チワン族自治区と海南省、とくに雷州半島に分布する石像です。



   雷州半島では石獅より石狗の信仰が盛んです。廟堂の前・巷口・村口・墓所・家宅の門前・川・海・山の坂道、橋の上と、至る所に石狗の居所があります。単体で設置されることが多いですが、日本の狛犬のように、一対とすることもあります。


   石狗は、雷州市以南が海南島とともに、福建南部方言の一系統である雷州方言で、雷州の北隣の湛江市から東西北部は、広東・広西方言(現地では「白話」という)です。石狗の発音は、雷州方言が「チィウガウ」で、福建南部方言と似ていて、広東方言が「セッガウ」となります(中国標準語では「シーゴウ」)。



   雷州方言と海南方言は、じつは福建南部系方言の仲間です。これはこの地方に南宋末期大量の避難民が福建からやってきたことによります。雷州半島と海南島の漢族の文化の古層を伝えるものです。


   雷州半島では、石狗は少なくとも明代からあるようです。廟堂門前のみならず、古城門・村口・古道・巷口(路地の入り口)、門口・水口(村落に河川が流れ込む場所)にあり、古墓の前にもあります。雷紋を彫ったり、石敢当の文字を彫ったりするものもあり、基本的には魔除けの役割があります。しかし、それだけでなく子孫繁栄の意味もあるといい、狗が多産だからでしょう。

   雷州では、天狗(てんぐ=テンノイヌ)が太陽に吼えてくれて、それで雨が降ったという伝説もあり、降雨の呪物でもあります。雷州では犬は神聖な意味があり、殺してはいけないし、打っもいけないのだそうです。


   それなのに雷州の街では犬肉食堂ばかり軒を並べていますから、広東省でも有数の犬食地域です。犬崇拝と犬食が共存している不思議な土地柄です

  
    さて、湛江市赤坎区の湛江市博物館には、雷州半島で収集した石狗が、建物脇の園地に並べられています。ざっと数えて175匹を上回る数でした。まずは、任意に石狗の写真を並べますので、ご覧頂けましたら幸いです。


    いろいろなカタチがありますが、目玉を大きくして魔除けの効果を狙ったもの、口を開けて吼えて魔除けとするもの、身体に雷州らしい雷紋を巻いたものなども目立ちます。



    ギョロ目系は、広東系石獅に似た、頭がつるんとしたものもあります。なんだかタコみたいに、頭だけがヌボーとしたものもあり、真四角キューブのお犬さまもおられます。不思議な造形の世界を垣間見た思いです。


    また、素朴に彫り上げた狗像は、Kazumasa Shimajiriさんがご紹介されているような、飛騨地方の狛犬の数々ととても似ているものがあります。犬のカタチを彫ろうとすると、なにか似たような姿になっていくという感じで、偶然とはいえ、なにか共鳴するものを感じました。

 


    狛犬のご先祖さまである中国の石獅からみると、日本も中国からみて東方の周縁部ともいえますが、雷州半島も、南洋華人の居住地などを除けば、もっとも南方に位置する中国大陸の周縁部です。中国にないライオンである獅子像が、これらの周縁部で、偶然とはいえ、犬に置き換わっていったのは、やはり犬が生活上身近で、魔除けの意味を托しやすかったという理由もあるでしょうか?。 


    ただ一つ問題を指摘しますと、湛江博物館収蔵品は収集地点の記録も表示もないということで、加えて並べ方も、もともと一対になっている石狗もばらばらになっています。



    各地で人々の信仰の対象になっていた石狗は、強制的にお役目御免となって並べられていますので、気の毒ではあります。



    中国では、民間信仰関係の物品は、ともすれば「封建迷信用品」などと呼ばれる時代が長く続きました。したがって、民間信仰の文物も、収集の対象になったのではないかと思います。雷州市博物館・雷州半島南端の徐聞県博物館でも同様の問題があります。とくに徐聞県では、博物館収蔵品以外に、村内で魔除けとなっている石狗は2カ所しか遺っていません。

    もともとどのような場所に置かれ、どのような役割を果たしていたのか?。信仰と切り離された石狗は、困惑したまま、今日も仲間たちと遊んでいます。

民家の屋上に居る唐獅子たち
─騎楼街の魔除け陶獅
(広東省信宜市鎮隆鎮)


   広東省西部の山間部にある信宜市に来ております。

   




     私は10年くらい前から、アジア旧市街の記録と調査というテーマで旅をしていますが、今回は、シンガポール発祥のアーケード街である騎楼街(きろうがい・1階の門前のスペースを歩行路として提供しているショップハウスの街)の、中国での展開を見て回る目的で広東省を旅しています。

図1.前進路の街屋上の陶獅(向かって左)


図2.前進路の街屋上の陶獅(向かって右)






   信宜市と高州市の境にある鎮隆鎮(ちんりゅうちん)は、著名な華人の故郷(僑郷)ですが、西欧コロニアルスタイル建築を受けた民国時代の古めかしい騎楼街が、ここにも遺っています。


図3.巷道からみた街屋の位置



   このような騎楼街は、広東省でも、100カ所くらいあります(まだ集計していないのですが、おそらくはそれくらいあります)。

図4.躍進路の街屋上の陶獅(向かって左)・くわえているのはなに?


図5.躍進路の街屋上の陶獅(向かって右)・くわえているのはなに?





   ところで、この街は、魔除けの陶製獅子が、騎楼の最上部両端に置かれていることが多いです。私設の陶獅たちです。

 

図6.躍進路の街屋上の陶製麒麟(真ん中)




   よくあるパターンは、街道につながる巷道がある入り口の向かいの建物に、陶獅を置いています。このような条件の場所は、2カ所ほどありました。

  

図7.躍進路街屋(鎮隆旅店)

図8.解放路の街並




   巷道から直進してくる悪い気(衝煞・しょうさつ)を鎮圧するものですから、その用途は石敢當(漢語:シーガンタン・いしがんとう)と同様で、悪い気を制圧する(「制煞」(漢語:チーシャー・せいさつ)ことです。

  

図9.老街を外から見る

図10.獅子舞がやってきた!


   ちょっと残念なのは、民間のものだから、唐三彩系の陶獅がいなかったことでした。


   湛江市呉川県の梅菉鎮(ばいりょく)というところで、屋上に置く陶獅売ってました。仏像とか、香炉とか、対聯(門扉などに貼る中国対句)などを売っている宗教用具店でした。それで値段を訊きましたら、1尊が壊れているので、一対180元(1元=17日本円程度)とのことです。壊れていないとしたら、250元程度とのことです。雲南の屋根上に設置する瓦猫は、1体180元程度ですから、安いですね。

図11.店頭の陶獅。1尊が壊れています。

図12.店表です。やはり古めかしい騎楼街屋です。


ビンロウ島のビンロウ色の石獅たち(前篇)
─ペナン福建系水上居民と漁民の彩色石獅
(マレーシア、ペナン州ジョージタウン、テロック・バハン)






   南洋の華人世界の石獅は、彩色しているものが多く、とりわけマレーシアではクアラルンプールに黄・赤・緑・茶の大きなでんでろ石獅さまがいたり、ペナンでは、鮮やかな緑の石獅たちがたくさんいたり、派手で目を驚かせてくれます。




   ペナンはマレー語のプラウ・ペナン(Pulau Pinan)から来ています。意味はビンロウ(檳榔)の島の意味です。ですから華語では漢字でも、檳城と書きます。そこに、私の大好きな嗜好品、石灰が入っていて、紅汁じわりの、青々としたビンロウの色をした獅子たちがたくさんいるのです!!。


図1.周姓橋清岩宮石獅(雌獅・向かって左)

図2.周姓橋清岩宮石獅(雄獅・向かって右)



  ペナン島ジョージタウンでは、対岸とのフェリーが発着する港近くのジェティ(Jetty・桟橋)に福建系水上居民が、宗族(そうぞく・男系血縁集団)ごとに、桟橋に水上家屋が展開しています。北から林・周・陳・李・楊と一族ごとの桟橋が並びます。嵐と高波さえなければ、涼しくて、過ごしやすい集落です。水上集落は、東南アジア海域世界では各地にあります。

   19世紀中葉にに移民した周姓の宗族が住む周姓橋では、表通りのPengkalan Weld(海墘街)に、孫悟空神の斉天大聖を祭祀する清巌宮が表通りに面しています。

図3.周姓橋清岩宮の踏まれ仔獅。やっぱり可哀そう。

図4.周姓橋清岩宮と石獅子の配置 



   北方王宮型の石獅で、福建南部系でない石獅ですが、彩色は蛍光色に近い石獅は黄色と黄緑です。この種の石獅は、頭髪の巻き毛の黄緑が若々しいですが、反対に眉と目玉は白で、目玉がよく目立ちます。しかし母獅はどうでしょう、北方王宮型獅子によるあるように、、仔獅を仰向けに失神寸前に踏みつけています。ほとんど虐待というような造形で。仔獅の白目が剥いているのがよく目立ちます。




   その奥の桟橋入り口の広場には、朝元宮があります。快癒祈願の神様保生大帝を祭祀しています。こちらの石獅は、石の地の上に、巻き毛や背中の分かれ毛のところをミント・グリーンで着色していて、控えめで好ましいです。あご下のひげ巻き毛など、まるでケーキのクリームをみるようです。独特の感性ですね。仔獅は上を向いてお母さんの前足に抱き留められて、のけぞって甘えています。福建系の石獅は、北方の王宮型石獅のように踏んだりすることはたりすることは少なくて、母性愛のある表現が多くて嬉しいところです。

図5.周姓橋朝元宮石獅(雌獅・向かって左)

図6.周姓橋朝元宮石獅(雄獅・向かって右)



図7.周姓橋朝元宮と石獅 


   やはり19世紀中葉に移民してきた林姓の林姓橋の陰陽殿は、大士といって、冥界の神様の面燃鬼王を祭祀しています。その廟前左右には緑獅がいます。金髪が西洋人ぽいのですが、北方王宮型石獅なので、巻き毛は英国植民地の裁判官みたいな印象になっています。やはり仔獅を仰向けに踏みつけていいます。

図8.林姓橋陰陽宮石獅(雌獅・向かって左) 

図9.林姓橋陰陽宮石獅(雄獅・向かって右) 




  陰陽殿と隣接する日月壇の金銀紙(冥界に燃やし送る冥銭)を燃やす金炉 の屋根上部に獅子がいます。こんなところに獅子を置くことはあまりないでしょう。


図10.林姓橋陰陽殿石獅 



図11.林姓橋日月壇金炉上の石獅



    ペナン島北部のテロッ・バハン(Teluk Bahang)は、やはり福建南部系の集落ですが、峰渓大伯公廟では、土地神さまである大伯公(福建南部方言:トゥアベッコン・だいはくこう)を祭祀します。住民は、歴史的には漁業を生業としてきました。


    そのほか、天后さまと、関帝さま、虎爺・財神である白無常さまがお祀されています。敷地内には、やはりマレーシア華人特有の土地神拿督公(華語:ナートゥーコン・だとくこう・王から与えられる名誉称号ダトゥ〈Datuk・Dato〉から来ています。)もお祀されています。

図12.峰渓大伯公廟石獅(雄獅・向かって右)

図13.峰渓大伯公廟石獅(雄獅・向かって左)


    こちらの石獅もビンロウ色が美しい、福建南部系石獅で、ひねりを利かせて頭が互いを見ていて、動きかあります。雌獅の首の鈴に、仔獅が乳離れしないようすで、しゃぶりついているのが可愛らしいです。何故か青色の仔獅、DNAが違うみたいです。


図14.峰渓大伯公廟石獅後部(雄獅・正面から向かって左)

図15.峰渓大伯公廟石獅後部(雌獅・正面から向かって右)





    お腹はミント・グリーンで、頭髪と尻尾が金髪と紅髪(雄獅)・青髪(雌獅)の塗り分け、背中の分かれ毛の塗り分けは、その反対です。これはとても派手ですが、コーラル・ブルーの海辺にはとても佳く合います。

図16.峰渓大伯公廟石獅

図17.峰渓大伯公廟と石獅





   あごひげは分かれ毛同様、金色と青色(雄獅)・紅色の(雌獅)塗り分けですが、これが額にかぶった金を頂いた紅リボン玉と佳く合います。このリボンの掛け方は、ペナンの福建系住民の石獅の一つの特徴でもあります。





   こちらの廟内には、虎爺がいるのですが、驚いたことに、一対の石獅のお腹の下には、やはり玉石の虎爺が置かれていました。どちらさまか、住民の方が奉納されたのでしょう。

図18.雌獅の下にいる玉虎爺

図19.雄獅の下にいる玉虎爺



   獅子の腹下の虎爺、とても不思議だったので、廟守りのお爺さんに訊こうとしたのですが、大きないびきをかいてお昼寝の最中、海水浴から帰っても、まだいびきは高らかでした。ついに聞き出せずとぼとぼと帰りました。

図20.廟内の虎爺

図21.財神(白無常さま)


図22.祭品の海亀餅の頭

   海洋と関わって暮らしてきた福建系華人の色彩感覚で染められた石獅たちは、コーラルブルーのペナンの海にとても似合う、海風にさわやかなビンロウ唐獅子たちでした。



続・広東老街行(その1)
羅鏡老街(羅定市羅鏡鎮鎮西路)

図1.バイクでご案内頂いた區敏生さん

図2.バイクでご案内頂いた區乾さん



   広東省の騎楼(1階店表をアーケードとしたシンガポール由来のコロニアル式ショップハウス)の街並探索を本日から再開しました。





   今日行った羅鏡鎮は、訪問すると、旅行者が珍しいこともあるのか、最初に訪問した陳福初邸では、農業技術推広站にお勤めの初老の男性、區敏生(おうびんしょう)さんという方が、解説をして頂いたばかりでなく、もう1軒の歴史である區寿年(おうじゅねん)邸にもバイクでご案内頂きました。

図3.夕食を売ってくれたアヒル焼き屋のおばさん


また、その直後に、また声を掛けてきた區乾さん(34・市場で魚の浮き袋揚げを売っている)も、バイクで山の上の祖廟(真武大帝を祭祀する)までご案内頂いたり、たいへん厚い人情で歓待頂きました。有り難いことです。他所者に通じない広東語ばかり話す人が多いですが、素朴な人情が溢れる街です。


[沿革]
羅鏡鎮は、広東省西部の羅定市の山間部にある水田地帯の古い街です。18世紀の乾隆四年(公元1739年)羅定州州判署が羅鏡の地に移ってから、分州の行政府所在地となり、地域経済の中心地になっています。周辺の信宜・高州・化州を結ぶ交通路上の要衝でもあります。


図4.鎮西路西南側入り口


20世紀初頭の光緒三十一年(1905年)、順徳から養蚕家頼鳳韶が来て、養蚕技術を導入して、現地の名産としました。今の佛山市南海・順徳の商人は絹糸を買いつけに足繁く通っていました。

陳姓・黄姓・張姓・區姓・蔡姓が鎮内の大きな宗族(そうぞく・男系血縁集団)です。

[街並構成]

昔の街並は、今の鎮政府がある鎮西路に東北方から西南方にかけて、2㎞半ほどの道のりで展開していますが、木造騎楼が各所まとめて数軒ごとに遺ります。しかし、新しい建物が多く、それほど連続していません。居住危険となった建物も多く、残念ながら、取り壊しをしている騎楼群もあり、音を立てて街にホコリをまき散らしていました。

図5.鎮西路の街並



洋式騎楼も数軒遺り、ステンドグラスの三連窓や、絹織物の売り文句を書いた旧店舗などが各所点々とありました。

図6.老街を外からみる



[歴史建築]
1.陳福初邸
  わけても一際目立つのが、陳福初邸(ちんふくしょ)邸です。いまは1階が農業技術推広站となっています。竣工年代は、1930年代前後と思われます。陳福初は軍人で後方支援担当の軍人だったそうです。四階建てでノッポですが、幅が4mしかありません。英国人の設計とのことです。

図7.陳福初邸宅(裏側立面)


  しかし構造は中国・台湾によく見られるRC強化構造の青磚(せいせん・黒レンガ)壁です。正面立面は、モルタルで、レリーフも施しています。これは隣の家が幅をもたせる建物の設計に反対したとのことでした。騎楼の歩道幅は2.2mでした。

図8.陳福初邸宅(表側側面)



  建物は前後二つに分かれていて、裏側の建物も山頭(ペディメント)があるところが珍しいです。また、屋上にドームをもつあずまやがあります。この地の洋式騎楼の特徴のようで、現代騎楼にもありました。





2.區寿年邸
  區寿年(おうじゅねん)邸は六角形ドーム付き円筒を組合わせた、スペイン・イタリア風のラテン系の近代邸宅で、1940年代式の邸宅です。これと似た建築物は、天津の旧イタリア租界でみたことがありますが、スペイン風の城塞のような邸宅です。厳めしくて、ちょっと当時の西欧のファシズム時代の気風も感じます。

図9.區寿年邸


  門楼はアール・デコ様式となっていて、時代の息吹を感じます。孫の區楚良(おうそりょう)がサッカー選手とのことですが、現在は無人の廃屋です。

図10.區寿年邸門楼



中華民国中央銀行旧址のライオン像
(中国広東省広州市沿江中路193号)


    今日はペナンからクアラ・ルンプール経由で、無事に先ほど中国広州のホテルに到着しました。繁華街北京路南端の珠江沿岸に宿をとっています。中華民国期の建築物が建ち並ぶ街並が気に入っています。

    そのなかに、中華民国期の旧中央銀行の建物があります(沿江中路193号)。

    旧中央銀行のライオン像は、今日も珠江の風を受けて、銀行を護っています。二重円レリーフの近代的な台座に、少しだけ口を開けて、驚いたような目をしてカメラを構えた私をみていて、全然怖くないです。



    銀行のライオン像は、どこかで近代史のなかの獅子像の範疇で役立つかも知れないと思って記録しておきました。香港・上海などと合わせて銀行のライオン像など、集めてもいいかなと思います。中国の銀行はいまでもライオン像を門口に鎮座させる場合が多いです。



    あとは、金運を呼ぶ羽根付き麒麟のような貔貅(ひきゅう)像も多いです。中国では銀行のライオン像には格別のこだわりがあるようで、銀行のプライドの象徴であるかのようにみえます。


    中央銀行は、中華民国初期の国立銀行で、貨幣の発行機関でした。この建物は1914年(民国三)の竣工です。鉄筋コンクリート構造で、正面外壁が花崗岩で、多数の楕円レリーフを並べています。初期は1924年(民国十三)の広東省銀行の建物で、1927年(民国十六)、南京に国民政府が設立されると、その2年後以降は、広東中央銀行となり、後に1932年(民国二十一)ふたたび広東省銀行の名にもどっています。



   現在は中国工商銀行広東支店です。1993年に広東省政府より、文物保護単位に認定されています。