39.苑裡老街 (苗栗県苑裡鎮天下路)
(旧行政区画:新竹州苗栗郡苑裡街)
[沿革]
清末・光緒年間の蔡振豊『苑裡志』「志余」「紀地」は、一体の各市街の盛衰についての記述がある。元来清朝の苑裡堡管内では、泉州人の開墾した猫孟荘が最も早期に出来た市街で、苑裡街が次いで設けられ、漳州人が多いとする。そして泉州人と漳州人は関係が緊張し、住み分かれる。乾隆五十一年(1712)戦災で猫孟荘が廃され、泉州人は房裡街北方に居住区を形成して移り住み、猫孟荘と区別して「新街」と称した。
苑裡街の形成年代については康熙年間説と乾隆年間説があり、乾隆二十九年(1764)に苑裡堡を設立した際に管内の街として苑裡街と房裡街が行政単位として正式に設けられる。
苑裡街は苑裡港に近く、苗栗県と南北を結ぶ街道の要衝でもあり、清代後半にかけて繁栄し、日本統治時代になり、大正十一年(1922)苑裡街に鉄道駅が出来、苑裡街の優位が決定的になり、房裡街が没落する。大正十二年(1923)には国道も通り、苑裡から山脚(区役場と国民小学校・公設市場があった)まで軽便鉄道も敷設され、近代的な市街への変貌が進む。
但し、現在の苑裡老街の面貌を決定づけたのは、昭和十年(1935)の台中・新竹大地震の影響である。死傷者1万5千人、損壊家屋5万4千棟を出したこの大震災で被害を受けた苑裡街は、震災復興の際に市区改正に着手した。昭和十二年(1937)に公布された「苑裡市区計画」(新竹州告示第38号)に基づき、市街の復興が進められる。街道を拡充し、家屋の耐震性強化が、主な目的に掲げられ、また、水道工事に実施した。ただし、苑裡街は、震災復興重点街庄の指定外の市街で、昭和十年(1935)の新竹州告示第9号「台湾家屋建築規則施行之規定」の規範指定外の市街であることも影響し(新竹州では大湖・北埔・後龍・苗栗・竹東・南庄・公館・三義・卓蘭・竹南・銅鑼が指定される)、旧来の紅磚建の街屋があり、震災後の拡充にも、撤去していない。苑裡街の市区改正の実態は今後の詳細な実地調査に俟つ。