40-1.房裡老街 (苗栗県苑裡鎮房裡街)

      (旧行政区画:新竹州苗栗郡苑裡街大字房裡)

房裡街は房裡渓の河畔にある街で、もとタオカス族の房裡社の所在地であった。苑裡街の真南に街道で結ばれた隣街である。かつて渡船の渡し場、義渡がある。咸豊三年(1853)に広東系住民との抗争でこの2つの街は大きな被害にあい、房裡街は、経済的に余裕もあり、咸豊五年(1855)、郷紳の陳植東と蔡錫疇の提唱で、全長3里の土壁城壁に4城門を設け、築城して防御する(現在城門はないが北城門の跡地は遺る)。城壁外に刺竹の生垣を繞らし、外周に城壕を設けた。泉州人が塩館を経営し、年間2000石の生産量を挙げていた。当初は苑裡よりも繁栄したが、光緒二年(1876)に泉州人と広東系住民との抗争で火災などによる甚大な被害が出て没落し、苑裡街が次第に繁栄を見せた。ただし、この時期苑裡街も戦災で大被害を受けている。
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[歴史建築]

〈振発帽蓆公司〉

街の産業は日本統治時代から今まで、帽子や敷物などの草編みが主産業で、これは大安渓を越えた隣街大甲鎮(台中市)が台湾で最も有名ある。大甲鎮の街屋とも似る・

今日では数軒しか草編み製品の工場はなく、老舗の振発帽蓆公司を見学した。1922年の創業で、現在の店主張水連さんの父親が創業した。1930年代の全盛時は200名の工員を抱え、後に蒋経国総統もこの店を訪れた。宋美齡ご愛用の帽子を献上した御用達である。一進目の建物はショーウィンドゥを設けた店舗で、奧が応接間兼事務所で、その奧は居住空間・工場と続く。事務所の天井は明かり取りの角窓がある。5連棟が1連となった長大な紅磚建家屋である。

草編みは三角藺(サンカクイ)という草を使い、麦藁ではない。「藺」という名で、形態も用途も似るが、イグサ科ではない。三角藺はカヤツリグサ科の多年草で、茎が三角柱であることがその名の由来である。沖縄では在来種で、琉球藺とも呼ばれ、畳に使う。非常に精緻で丈夫な編み目を持つ。清雍正五年(1727) 原住民出身の漢人家の婦人であった蒲氏魯禮と斯茂という2人の婦女が創始者とされる。秋に収穫されるものが丈夫でよい。

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[街並構成]

地元の人たちが老街と呼ぶのは、今の苑北里一帯、天下路の辺りである。日本統治下でここに警察署・役場が置かれた。苑裡駅を出てロータリーを出ると、天下路が東北や西南にかけて走り、成功路を越えて世界路に出て左折すると保安宮・慈和宮がある。慈和宮の門前で苑裡渓に出合う。店舗は間口が規格化され、ほぼ4.5m程度に二階建て騎楼で、煉瓦積みの角柱である。しかし一階間口は引き戸が並ぶ形態で、木造が多く、二階部分も下見板を見せた日本風の簡素な店舗が多い。奥行は店によりまちまちで、長い奥行は台湾でも屈指で、三進・四進で数10mになんなんとする長大な店舗も多い。長大な店舗家屋が多いのは藁帽子屋、藁編み屋で、後部を居住空間のみならず、工場にも当てた場合が多いからある。



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天下路の店舗は木板造りもあれば、モルタル造りも煉瓦造りもあり、まちまちであるが、騎楼に装飾壁の女児牆をもつものが意外に少なく、和式下見張りの街屋と相俟って、非常に簡素な騎楼街の印象がある。総じて平地の水田地帯に立ち並ぶ田舎街の街筋といった趣で、素朴さがこの街の味である。他の街の豪華さを競う騎楼街とは異なる。倣バロック式などという言葉とは、縁がない。比較的小型な店舗群と、紅磚の角柱という点のみは統一され、紅磚柱は防火壁としての防災効果を狙ったのだろう。

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39苑裡老街 (苗栗県苑裡鎮天下路)

(旧行政区画:新竹州苗栗郡苑裡街)

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[沿革]

清末・光緒年間の蔡振豊『苑裡志』「志余」「紀地」は、一体の各市街の盛衰についての記述がある。元来清朝の苑裡堡管内では、泉州人の開墾した猫孟荘が最も早期に出来た市街で、苑裡街が次いで設けられ、州人が多いとする。そして泉州人と州人は関係が緊張し、住み分かれる。乾隆五十一年(1712)戦災で猫孟荘が廃され、泉州人は房裡街北方に居住区を形成して移り住み、猫孟荘と区別して「新街」と称した。

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 苑裡街の形成年代については康熙年間説と乾隆年間説があり、乾隆二十九年(1764)に苑裡堡を設立した際に管内の街として苑裡街と房裡街が行政単位として正式に設けられる。

 苑裡街は苑裡港に近く、苗栗県と南北を結ぶ街道の要衝でもあり、清代後半にかけて繁栄し、日本統治時代になり、大正十一年(1922)苑裡街に鉄道駅が出来、苑裡街の優位が決定的になり、房裡街が没落する。大正十二年(1923)には国道も通り、苑裡から山脚(区役場と国民小学校・公設市場があった)まで軽便鉄道も敷設され、近代的な市街への変貌が進む。

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 但し、現在の苑裡老街の面貌を決定づけたのは、昭和十年(1935)の台中・新竹大地震の影響である。死傷者15千人、損壊家屋54千棟を出したこの大震災で被害を受けた苑裡街は、震災復興の際に市区改正に着手した。昭和十二年(1937)に公布された「苑裡市区計画」(新竹州告示第38)に基づき、市街の復興が進められる。街道を拡充し、家屋の耐震性強化が、主な目的に掲げられ、また、水道工事に実施した。ただし、苑裡街は、震災復興重点街庄の指定外の市街で、昭和十年(1935)の新竹州告示第9号「台湾家屋建築規則施行之規定」の規範指定外の市街であることも影響し(新竹州では大湖・北埔・後龍・苗栗・竹東・南庄・公館・三義・卓蘭・竹南・銅鑼が指定される)、旧来の紅磚建の街屋があり、震災後の拡充にも、撤去していない。苑裡街の市区改正の実態は今後の詳細な実地調査に俟つ。



[歴史建築]

黄利盛商号は、街道に対して両側に店舗を構えている。その詳細は不明であるが、典型的な台湾伝統店舗である。
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