[地方志(1885年以前)

(光緒)・蔡振豊()『苑裡志』光緒二十三年(1897)修清稿本影印本、成文書局1984

(同治)・陳培桂(纂修)『淡水庁志』同治十年(1871)刊本・台湾銀行経済研究室編印

[地方志(1945年以降)

陳金田(編纂)『竹南鎮志』竹南鎮公所

陳金田1995『金色中港』金色中港懐念会

陳運棟文化基金会(編纂)2009『南庄志-前瞻・領航・南庄起飛』苗栗県南庄郷公所

林柏燕(主編) 1997新埔鎮志』新竹県新埔鎮公所

林于(主撰)2005『竹東鎮志・地理篇』竹東:新竹県竹東鎮公所

王良行(主撰)2005『竹東鎮志・篇』竹東:新竹県竹東鎮公所           黄国憲(編) 2000『関西鎮誌(稿本)』関西:関西鎮公所

黄承令()2006『三坑子聚落調桃園県伝統聚落第一期調計画』桃園県文化局

湖口郷志編輯委員会1996『湖口郷志』湖口郷公所

黄厚源 2000『話我家郷楊梅鎮・富岡篇』桃園県楊梅鎮─桃園県楊梅鎮青年志工服務協会

黄厚源 2003『話我家郷楊梅鎮・楊梅篇』桃園県楊梅鎮─桃園県楊梅鎮青年志工服務協会

参考文献

邦文文献(アイウエオ順)

[研究著作]

伊能嘉矩()1905『台湾巡撫としての劉銘傳』新高堂書店

伊能嘉矩()1928『台湾文化史』(上・中・下)刀江書院

伊藤庸一2000「台湾・大渓老街の街並み空間と生活」『民俗建築』118

藤森照信()1993『日本の近代建築()─幕末・明治篇』岩波書店

吉田鋼市()2005『アール・デコの建築合理性と官能性の造形』中央公論新社

吉田鋼市()2010『アール・デコ建築グローバル・モダンの力と誇り』河出書房新社


[日本統治期地方志](アイウエオ表記順)

竹南庄役場()1931『竹南庄概況』昭和六年

竹南庄役場()1936『竹南庄要覽』昭和十一年

HSU(著者) HPHsu的部落格』「城里雑記─88. 卓蘭的老樹 () 老榕樹 & 街区閑http://tw.myblog.yahoo.com/hsu-042/article?mid=10896


卓蘭鎮公所(HP)

http://www.miaoli.gov.tw/jhuolan_township/normalSingle.php?forewordTypeID=0&frontTitleMenuID=2050

『苗栗県県志』「人文語言篇」(1967)

漢語文献(表記順)

[研究著作]

陳柏年()2005『苗栗県歴史建築-南庄旧郵局修復工程工作報告書』苗栗県文化局

載震宇()2005『台湾老火車站』遠足文化事業有限公司

東海大学建築研究中心()2004『中国伝統民居建築事典』台隆書店

古武南()2008『北埔民居』新竹県文化局

黄沼元 2010『台灣的老街』(2)遠足文化事業有限公司

沈文台()2006『台湾老街地図』(2)猫頭鷹出版

曾文吉()2006『苗栗県九二一地震災区歴史建築-房裡蔡泉盛編』曽文吉建築師事務所

         

北台湾老街通覧 結語・参考文献


結語.

漢人による台湾西北部山地地域の入植・開墾史を踏まえて同地域の老街を列挙したが、次回発表予定の「中台湾老街通覧」と、島嶼部を含めた「南台湾老街通覧」の執筆に繋げていくのに際し、中台湾では山地地域の老街が台湾中部大地震(1999921日・M7.6・震源地:南投県集集鎮附近)の震災被害で、老街街屋の倒壊・損壊が生じたため、南投県の竹山老街や一部に騎楼街が倒壊を免れた南投県の草屯鎮を除いて、集集鎮や国姓郷など、かつて老街屋の街並を見せていた老街は失われている。従って、台湾西北部と台湾中部の老街を連続性から見た場合、むしろ沿海部に連続性が認められる。しかしこれもまた皮肉なことに、台湾に頻発する地震が要因となっている事情がある。昭和十年(1935)421日の新竹・台中大地震(M7.1・震源地:新竹州大安渓中流域)での被害と震災復興による市街復興から再建した街並が多く、その街並が、すでに70年前後の歳月が経ち、老街化したのである。今回取り上げた苗栗県の竹南中港老街や苑裡鎮の老街と、台中市大甲区や清水区の老街は、震災後再建の老街として連続性をもち、差し当たりこの点から考察することが適切であろう。

 



[歴史建築]

〈蔡泉盛商号〉(房裡里1640)(苗栗県県定古蹟)

蔡家は日本統治終結後に油屋を経営していた。昭和元年(1926)の建造で、奥の正庁は昭和十年(1935)に建てたものである。この頃は編み帽子を生業としていた。昭和十年(1935)の大地震でも大きな被害を受けていない。

アジアの街並/中国古鎮・日本昔町─川野明正の研究室

現在は二進院式の民居で、内院と外院との間に庁堂を設けず、近代式の左右の短柱に玉珠を載せた大門に漆喰壁で仕切っている。門庁はモルタルで屋号を記し、門庁と正庁を側屋で囲った広い四合院となっている。内院と外院は内院を家人が使い、外院を外来客用とし、明確な区分けをしている。1947年以降、外院は油絞りの生産空間と、商業店舗であった。門庁内部の左右紅磚門の下部に小さな湿気避けの空気窓を開口しており、これを猫洞と呼ぶ。台湾中部地震で大被害を受けた霧峰林家と同様の設備である。


アジアの街並/中国古鎮・日本昔町─川野明正の研究室

正庁は昭和の建築とはいえ、大門上には「清陽世澤」の四字を額枠に記し、12枚の陶製花弁で囲っていて、華麗である。両側に対聯、軒下に前後左右四柱の紅磚柱を立てる。左右角窓上の書巻形装飾板など、伝統様式をよく踏襲している。内院左廂房(側屋)大門上に「積善家」、左廂房大門上に「芝蘭室」と記す。

アジアの街並/中国古鎮・日本昔町─川野明正の研究室


[街並構成]

房裡渓にあった義渡近くの順天宮(媽祖宮)と南城門記念碑のある南城門跡と、房裡街を北上して北城門と福徳祠(土地祠)の近辺までが古城街の範囲である。順天宮は城内の媽祖廟で、城外の慈和宮の媽祖廟と相対していた。周囲の路地は入り組んでおり、いずれも日干し煉瓦の伝統住居の壁面が露出している。日干し煉瓦には稲籾を藁ごと混入させている。老街は古建築として蔡泉盛号を整備し、路幅6m程度の街道も整備しており、観光化も狙っている。かつては石畳の上に商業店舗が軒を連ね。軒先は雨避け日除けの張り出しで覆い、「不見天街」と呼ばれた。これは廓坊化された彰化県の鹿港の不見天街や新竹の最古の暗街とは違って、より簡素化した形式らしく、台湾北部の山上市鎮の九老街(新北市瑞芳鎮)の昭和前期の街道様式と似ている。台湾古市街の重要な形式の1つである遮蔽型街道であり、台湾に相当に分布した街道形式ではなかったかと思われる。
アジアの街並/中国古鎮・日本昔町─川野明正の研究室 アジアの街並/中国古鎮・日本昔町─川野明正の研究室

順天宮