チェンマイ華人街・ターペー通り洋館街(3)
歴史建築
華人街屋(Tha Phae Rd)
ペディメントが中国の吉祥物である蝙蝠の羽根をあしらっている。「中華民国弐拾参年」と標誌があるから、1934年の竣工である。騎楼ではないが、一階は併柱でアーチを描き、二階の窓上部は仏教的なチャクラ(車輪)を象る。

北タイ式街屋(Tha Phae Rd)
ラーンナー・コロニアルスタイルとでもいうべき完成された造形をもつ街屋である。大小三角屋根を頭でっかちに突出させてそのまま軒を構成したチーク材の二階木楼である。突出した三角屋根はそのままペディメントになるから、そこに細かい木彫を貼り付けている。三角屋根部分は側面に開閉可能な通風口を設けている。アーチを多用した洋風壁面をもつ折衷様式である。

木造騎楼(Wichayanon Rd)
ウィッチャノン通りの代表的な街屋、ラーンナー・コロニアルスタイルの木造騎楼タイプである。板瓦屋根の軒下・二階窓上・窓下・騎楼柱上部など、装飾板を幾重にも列ねて美しい。一階は改装されているが、恐らく従来からアーチ構成ではなく、チャルンラート通りの木造騎楼と比較して簡潔である。


ラーンナー建築センター
チェンマイ大学建築学部の管理する建築博物館である。ラーンナー・コロニアルスタイルの代表的な建物である。この建物は旧城壁内部中央にある。旧王家の建物でタイ北部のチーク材木造邸宅を代表する。一階は漆喰アーチで囲んだ洋風コロニアル建築の趣きで、二階のタイ北部風様式とを折衷している。室内は天井近くに通風用の格子窓で一貫しており、寛い外廊を深い屋根を延ばして清涼な空間としている。木彫を施した欄干と柱上部を繋ぐ装飾板が呼応して連続する。その様式は、中国の門扉上左右の装飾板である門覃とも一脈通じたものがある。

ペナン邱公司(クーコンシー)の「狛天竺」(こまてんじく)

(前回ペナン邱公司の石獅から続きます)

祠堂の台上左右を守るのは、インド人で、「狛天竺」(こまてんじく・私の造語です)の衛兵です。
ターバンを巻いているので、これはシク教徒で、「狛錫克」(こまシーク)ともいうべきで、ムガール帝国以来勇猛果敢で知られます。


英国植民地でも兵隊となっているので、実績を買われて邱公司の私兵に採用されました。

お二人ともパンジャーブ地方が先祖の出身地ですが、現地で誕生しているので、二世と三世です。左手の衛兵はひげを生やしてサーベルを持ち、ほくろまであります。右手の衛兵はひげがない若い兵士で、左右違う像です。

シク教は他宗派を改宗させて布教するので、じつは邱一族を儒教から改宗させようと心の中ではいつも考えているのです。

ペナン邱公司の石獅

 狛犬の大本筋の中国系石獅(せきし)です。

 
                                                          写真1.雄獅

                        写真2.雌獅

 ペナンの邱公司(きゅうこうし・福建南部方言:クーコンシー)は、「会社」ではなくて、福建南部(漳州府海澄県・しょうしゅうふかいちょうけん)を祖籍(そせき)にもつ邱一族の宗祠(そうし)です。
 

                       写真3.獅座の彫刻です

 ペナンのジョージタウンの街中なのに、村落のように宗祠を囲んで密集して邱姓の同族集団が住んで居ます。壮麗な福建南部式建材彫刻で知られていて、石彫(せきちょう)と木彫(もくちょう)に傑作が多いです。
 
 軒下の宙空柱(ちゅうくうちゅう)も、蓮花状の柱頭をこれでもかというくらい並べ立てて装飾板に繋げています。根状の陶片細工のこれでもかというデコレーションも圧倒的なこだわりようです。19世紀中葉ちょうど1850年に建てられ、現在の建物は焼失後1906年再建完成したものです。
 

                       写真4.邱公司宗祠

 その祠堂の前に石獅(せきし)があり、雄獅・雌獅ともにまん丸の目玉に、同様まんまるの鼻で、バランスがいいです。向かって右手の雄獅(左獅)は手に双銭(そうせん)を列ねた手拭い(手巾)を環状にもち、向かって左手の雌獅(右獅)は銭なしの手拭いを環状に持っています。
 
 口の開き方は雄獅・雌獅同程度で、「阿」でも「吽」でもなくて、「噢」(オー)くらいです。しかし口に玉は含んでいないようです。少しあばらを浮かせていますね。首輪に花柄の留め具と、鈴の彫刻があって、すっかり邱一族に飼い慣らされています。
 
 鈴はベル型で、雄獅の方は、頚からではなく、手拭いの方から繋げています。獅座(ししざ)は四角く四隅を竹節で枠どり、牡丹・鵲(かささぎ)・虎を彫った細かいものです。


 
チェンマイ華人街・ターペー通り洋館街(2)
街並構成 

 チェンマイの城壁内部は、古寺院や古塔は遺るけれども古い街屋が街並として連続していません。これは「歴史的街並」という概念の限界を示しています。たとえば、中国雲南省の西双版納タイ族自治州のタイ・ルー族は、三十年に一度は家を建て替える習俗があり、それは村の大切な共同労働で賄われています。それ自体が歴史的伝統で今日まで生き続けて、古い街並は成立しません。伊勢神宮の社殿を更新する日本人にとっても、この習俗はわかると思います。

                      写真1.ターペー通り洋館街の街並


                      地図. 拡大してご覧ください。

 これに対して旧城壁西側外部のチェンマイ華人街は、タイ北部の華人の入植状況と、中国=タイ間の交通路上の物流という意味でも、大事な街だと思います。華人街は城壁西側からピン川西岸までの広汎な範囲を占めます。水運からチェンマイ城内を結ぶ大事な土地に展開しています。

                  写真2.本頭公廟本殿内部

 中国式街屋はありますが、中国本土の建築様式の要素が稀少で、タイ南部のソンクラーやバッターニの濃厚な福建式街屋群とは異なります。華人の好む合院式囲み屋があまりみられません。

                 写真3.ウィッチャノン通りの木楼店舗街

 メインストリートの一つ、ターペー通り(Tha Phae Rd)と、ウィッチャノン通り(Wichayanon Rd)周辺には、ネオ・バロック式の華人街屋が、集中しています。この辺りは1930年代の立派な建物が多く、繁華な通りであったことが充分に窺えます。

        写真4.チェンマイ華人街の金店、いちばん繁華な辺りです。

 じつはチェンマイ華人街の木造街屋は、ビルマ人建築業者の手によるものが多く、木彫などにその様式が窺われ、加えてビルマ方面から進出した英国商人も、ターペー通りの洋館に主人として関わり、タイ北部木造洋館様式の確立に貢献しています。これは南にあるランパーン盆地のワン川沿いの旧市街も同様の展開となっています。


写真5.ワット・ブッパラムの童男

 ピン川東岸には巨大な中国廟の本頭公廟(ほんとうこうびょう)もあり、華人街中心部には関羽を祭祀する武廟もあります。 近くのワット・ブッパラムにも華人の童男・童女が寺院の左右を守ります。これは日本の唐子(からこ)ですね。いい雰囲気です。


写真6.ワット・ブッパラムの童女。髪の毛が2瘤となっていて、中国語の「Y環」(ヤーホアン)と呼ばれる女の子イメージ


チェンマイ華人街(1)

沿革

 チェンマイはかつてタイ・ユワン族のラーンナー王国(ラーンナー=百万の田)の都です。雲南のタイ族盆地連合国家であるシプソンパンナー王国(12の収税田地地域の意味)とも婚姻関係があり、この系統のラーンナー・タム(経典)文字は雲南のタイ族経典にも記されます。名前は「新しい街」の意味ですから、これから沿革を申し上げましょう。

 ラーンナー王国の名君メンラーイ王(1238-1311・この王も母方がシプソンパンナー王国のタイ・ルー族出身)によって1292年にチェンライから遷都された都で、旧城壁内に多数の古寺院が遺ります。じつはマンラーイ王がこの地を都としたのは、当時雲南が元軍の大理国攻略などの遠征を受けていた時代であり、それに備える目的があったとされます(参照:川野明正『雲南の歴史─アジア十字路に交錯する多民族世界』白帝社、2013年)。 

写真1.チェンマイの写真の最初は、名物のカオ・ソーイ。カレースープに中国小麦緬と揚げ麺、鶏の腿肉を載せて、レモンを絞りハーブと漬け物をたっぷり入れます。カレーはビルマから、麺は中国から、チェンマイの立ち位置を表した料理のような気がします。

 もう一つ重要なのはピン川水運の必要性で、チャオプラヤ川と合流するピン川は、タイランド湾に来る中国船の運ぶ物資を交易で入手できる理由もあるでしょう。メンラーイ王は、ピン川沿いに南隣するモン族(モン・クメール系・ミャオ・ヤオ系のモン=ミャオ族ではない)のハリプンチャイ王国を攻略しています。当時のハリプンチャイ王国は最盛期で、先進的な法制度をもつなど、その文化は新興タイ族の盆地連合国家であるラーンナー王国に大きな影響を与えます。


写真2.ラーンナー王国のメンラーイ王・パヤオ王国のガムムアン王・スコータイ王国のラムカムヘーン王で、タイ族の三王国の同盟を結んでいたことを記念しています。

 
   また文化的にはビルマの影響も大きいです。これは今でも料理とか、木彫の細かい建築の装飾様式に窺うことができます。

 タイの華人は約850万人(2008年の統計)で、主として潮州系華人が多いですが、海路でタイに来た海路華人も、北上してチェンマイとかランパーンなどの街は華人が定住も多いです。


 写真3.ラーンナー様式の緩やかなカープを描いた寺院、ワット・ロークモーリー(北城壁外にあります)です。ビルマの建築業者も関わっていたりします。

  ゴールデン・トライアングルのミャンマー・ラオス・タイ国境のチェンセンにも
華人特有の廟である本頭公廟があり、これも海路華人の北上の結果です。本頭公廟は、1876年(仏暦2414)創建ですから、この時期を華人街確立の画期とみなせるでしょう。
 





写真4.旧市街城内のワット・チェディー・ルアンの仏塔。1411年のもの。1545年の地震で壊れています。黄金の涅槃仏像も素晴らしいです
 
  雲南から陸路で入った陸路華人については、チェンマイからバスで3時間ほど北上したチェンライもメコン川から西側に入った中泰交易の途上で、中華民国期には茶の輸出ルートとしても重要でした。ミャンマーのサルウィン川上流でも、16世紀の明末の時代からすでに大明街の名で華人街があり、福建・広東・湖南・湖北系の人たちの入植を記します(ただし記述はやや具体性に欠ける)。

 チェンライでは、あまり華人街らしい雰囲気はないですが、雲南清真寺(マスジット)があり、現在雲南ムスリム(イスラーム教徒)の人口6千人が居住しています。国共内戦で雲南から国民党軍が国外に出たため、タイ北部は華人村もあります(チェンライ郊外のメーサローンが有名です)。

参照:川野明正『雲南の歴史─アジア十字路に交錯する多民族世界』白帝社、2013年