4-4.ノーンカーイ旧市街(2)

街並構成

旧街屋はミーチャイ通り(Tanon Mee Chai)一本に集中している。旧街屋は、イサーン(タイ東北地方)式木楼街屋・フレンチ・コロニアル街屋・華人騎楼街屋に分かれる。残存旧街屋は、華人騎楼が多く、メコン川華人様式の騎楼街屋スタイルが確立していたことが窺われる。

 
              メコン川華人騎楼店舗の街並

このような騎楼スタイルは、メコン川流域では珍しく、インドシナ植民地では街屋は英国由来の騎楼様式は採らないので、貴重な街屋群である。ノーンカーイ県ではメコン華人様式の騎楼街屋スタイルが確立していたことがよくわかる。


 
            イサーン式木楼店舗と街並

対岸のヴィエンチャン旧華人街(西北郊外に新華人街もある)は、旧街屋自体が少なく、騎楼も皆無であり、ノンカーイの街並は貴重である。メコン川岸のリムコーン通り(Tanon Rim Khong)にはベトナム・ラオス・中国製品を売る店が並ぶ。その先にイミグレがあり、ラオスとタイを往復する渡し船が出ている(外国人は利用できない)。
 
   
                  イサーン式木楼店舗と街並       

ミーチャイ通りを西南側に進むと、ホー族撃退記念碑と旧市政府庁舎があり、官庁街である。この辺りを川沿いに出ると、外国人用の飲食街がある。

 
 
4-4.ノーンカーイ旧市街
沿革
 ノーンカーイ(NongKhai・華語:廊開)の街はメコン川北岸にあり、25㎞離れた南岸にはラオスの首都ヴィエンチャンがある(ヴィエンチャンの対岸のタイ側の街はシーチェンマイ〈Sri Chiang Mai〉である)。

  

 
イサーンのお茶目なおじさん。五平餅と同じものを食べていますが、卵を塗って焼いています。

  タイ東北部はイサーンと呼ばれ、14世紀後半までカンボジアのクメール王国に支配されていた。14世紀から16世紀にかけて、メコン川東岸から勢力を持っていたランサーン王国からの移民も多く入植したため、現在でもイサーンの方言はラオスのラオ語の方が規範的なタイ語よりも近い言語である。その後、ランサーン王国は分裂して、ルアンパバーン王国・ヴィエンチャン王国に分裂(1707年)、チャンパーサック王国に分裂(1713年)し、1770年代にはすべてタイ王朝(トンブリー朝とチャクリー朝)の朝貢国や属国となる。メコン川の東岸・西岸(あるいは北岸・南岸)が国境線として確定するのは、19世紀末のフランス=シャム条約による。 
                  タイ人食堂の猫


 ノーンカーイの歴史的大事件として、19世紀後半、雲南方面からヴェトナムに越境した華人系武装勢力(ホー族)の侵攻がある。現在のラオス東北部のシェンクゥアーンから南下し、ヴィエンチャンを陥落させ、1875年にノーンカーイまで襲来して撃退された。

 ノーンカーイはその後1893年のフランス=シャム条約によるメコン川東岸地域のフランス植民地化以降、1932年までフランスの支配下に置かれたため、市街を東西に横断するミーチャイ通りには、タイ国内にあって珍しくフレンチ・コロニアル様式の街屋が断続して並んでいる。

 1994年にラオス=タイ友好橋が開通しており、ノーンカーイバス駅からはヴィエンチャン行きの国際バスも頻発しており、ヴィエンチャン市内のタラート・サオバスターミナルに着くので便利である。鉄道も一日二回ノーンカーイ駅からがヴィエンチャン郊外のターナレーン駅まで結んで往復している。なお、タイ人とラオス人は渡し船で対岸に渡ることが出来る。   

追悼 増尾伸一郎先生

増尾伸一郎先生(東京成徳大学人文学部教授・享年57歳)が去る7月25日亡くなられたことを友人の助川幸逸郎さんのフェイス・ブックで知りました。助川さんによると、通勤電車の中で心筋梗塞で倒れられ、そのまま亡くなったそうです。

気さくな先生だったので、親しみを込めてやはり「さん」でお呼びするのが適切な方のような気がしますので、敢えて増尾さんと呼びますが、増尾さんは道教学会や研究会でもたいへん御世話になり、中国民話の会でもお話を頂いたこともあります。出講先でもお会いすることが多く、どんな話題でもいつも明るい調子で、的確なお話が帰ってくる方で,お付き合いしてとても楽しく、いろいろ教えて頂ける有り難い方でした。

帰宅の電車でお会いすることもありました。熱心に座席で文献を読んでおられて、車内がそこだけ無我夢中な読書空間となり、勉強オーラが出ているので、増尾さんだなと分かったりするところが凄かったです。

それで私は黙って立ったまま増尾さんが文献を読むのをみているのですが、ふと気づかれて談義がはじまるのでした。増尾さんが激務であったことは想像に難くないのですが、時間を惜しむように電車を書斎とされていたのが、一番印象に残っています。これからもたくさんの仕事をされる方であるはずなのに、残念です。動揺しています。

一晩明けてやはり、増尾さんはご自身も残念だっただろうと思います。増尾さんは日本・朝鮮半島・中国を古代から植民地まで、ぜんぶやって、自在に往還していた人だったから、碩学という評価も簡単過ぎで、今後増尾さんに替わる人は出てこないだろうと思いますから、増尾さんが亡くなって失われたものの大きさを改めて思います。

私の昨夜からの動揺は、失われたものの大きさにも多分に関わります。増尾さんの論考を著作集にまとめることは今後もちろん必要な作業と思いますし、増尾さんの視点から東アジアをみつめるとどのような東アジアがみえるはずだったのかということは、今後提示されないといけないと思いました。あのような形で仕事をされる方は、みたい世界があってこそ、あのような仕事の形になるのだということは、自明の理です。増尾さんの望見した世界が提示される必要があると思いました。

謹んでご冥福を祈ります。

(上記助川幸逸郎さんのFBに書いた私のコメントを編集・加筆しております)

以下笠間書院HPより増尾先生の御業績を簡単ですが列挙させて頂きます。http://kasamashoin.jp/2014/07/73019007311100.html

増尾伸一郎(ますお・しんいちろう)1956年生まれ。

東京成徳大学人文学部教授。東アジアの思想と文化。主な著書に、『万葉歌人と中国思想』(吉川弘文館)、『道教の経典を読む』(共編、大修館書店)、『環境と心性の文化史』(共編、勉誠出版)、『ケガレの文化史』(共編、森話社)、『朝鮮民譚集』(解題、勉誠出版)『藤氏家伝を読む』(共編、吉川弘文館)、『植民地朝鮮と帝国日本』(共編、勉誠出版)、『新羅殊異伝』(共編、平凡社東洋文庫)、『知のユーラシア5 交響する東方の知: 漢文文化圏の輪郭』(共編、明治書院)などがある。

裏庭の妖怪─大理盆地の姑奶(グーナイ)の話

 
 我が家の裏庭に妖怪がいたのです。この妖怪は「姑奶」(大理漢語・ペー族語ともに発音はグーナイ)といって、ペー族の言葉で「貴婦人」を意味します。


 背が低くて人間の腰くらいしかないのですが、高貴なお婆さんの恰好をしています。古井戸の脇に住んで居て、石を三つ組み合わせた小さな祠に住んで居たのです。

 
 いつも夜中の三時頃になると太鼓を叩くようなトントンした足音がして、我が家の中庭まできてぐるぐる歩き回るのですが、怒らせては祟るから、放っておくのです。そっとしてあげれば、祟りもないし,石の祠に月はじめと月半ばに線香でも捧げれば大丈夫です。しかし怒らすと皮膚病になるとされています。


姑奶のお札です。燃やした灰を小麦粉とともに団子にして、患者の全身に転がしてから、火に投じて音を立てて割れると病気が祓われたことになります。姑奶の祠の内側壁にも貼ります。

 裏庭はしばらく前まで空き地でしたから、草が生え放題で、近所の子供たちがの恰好の遊び場です。


 ある日、遊んでいた子供が小便が我慢できずに、古井戸のところに小便を掛けてしまいました。すると、まあ、なんということでしょう。子供の全身に瘡が出来て、大騒ぎになってしまいました。

 
 みんなは姑奶の祟りを恐れて慌てるやら、驚くやら、不思議がるやらでしたが、隣に住む家内の二番目の叔父は怒ってしまって、


 「とんでもないアマだ。退治してやる」といって、なんとその石祠に火を掛けて燃やしてしまいました。みんなはひたすら恐れ戦(おのの)いたものであります。諺に「誰が敢えて太歳(凶神)の上に犂を当てるだろうか」という言葉がありますが、その通りのふるまいです。この事件は「火焼姑奶宮」と呼ばれて、語りぐさになっています。

姑奶の居た古井戸です。いまは三番の叔父が平和に暮らし居てます。

    ところが、その日の夜、姑奶は出てきませんでした。太鼓を叩くような足音がしません。その夜も、次の夜も、その次の夜も、それから今日まで、足音はびったりなくなってしまったのです。



    妖怪が1人、消え去ってしまったことは残念です。近年生物多様性が叫ばれていますから、妖怪多様性もあって当然です。大理盆地の洱海の東側のペー族の村には、「一つの村に、姑奶は七人」という言い方があり、茨のあるところ、井戸のあるところ、ガジュマルの大木のあるところ、かならず合計七人の姑奶がいなければならないことになっています。ときおり村神である本主(大理漢語:ペンツー・ペー族語:ウズ)の廟の脇にも祠があります。

   
   村という人間の共同体も、人文的な条件のみでは成立せず、自然的条件を基盤にして成立していますから、ところどころ自然の凝集力が吹き出す場所があるのは理解できます。茨とか、井戸とか、大木とかは、そうした自然の汪溢した力が噴出する場所なのでしょう。

 
  してみると、姑奶は典型的な自然の精、中国語でいう「精怪」(チンクゥワイ)という自然の変化なのだと思います。精怪は、人間の魂の変化である「鬼怪」(クゥイクゥアイ)とともに対になって、「妖怪」(ヤオクゥアイ)の下位概念に置いて良さそうです。自然の力が汪溢するとき、それが時には人間に害を与えることもありうる話で、当然の道理でなくてはなりませぬ。姑奶はそうした象徴として、人間にも祟るのではないかと思います。


4-3.ランパーン旧市街・カド・コン・ター(4)─歴史建築(2)

4-3-4.イエン・シー・ティー・タイ・リー・キー(Yan Seeh Tai Lee Kee)(Thanon Tarad Kad)
1913年竣工。ペディメントの地球に狗のような動物が乗っている。木造技術を駆使した二階建ベランダ様式である。コロニアル風建築の風格がよく出ている。柱上部の補強材は中国式である。kiは華人店舗の商号末尾の「記」であると思われる。二階窓上壁面に「YAN SEEH TAI LEE KEE」と書いてあり、「Yean si ti ki」ともいうが、華人商店であろう。


4-3-5.ヤイ・ダンの店(Yai Dang’s Shophouse)(Thanon Tarad Kad)
瀟洒な漆喰外装の商業用店舗で、ペディメントはタイ数字表記で、仏暦2474年と記すから、1931年の竣工である。地球儀を双馬で支える意匠は当時としては斬新だったろう。ヤイ・ダンはタイ人で商売の女将さんであったようだ。


4-3-6.ヤイ・ダン邸(Yai Dang’s former wooden house)(Thanon Tarad Kad) 
北タイ高床式住居の典型的スタイルである。窓上に鎧窓を設けるなど、風通しに配慮してある。日除けを兼ねた逆さ卒塔婆形の木板装飾も素朴でよい。部屋を欲張らず、テラスのスペースを広く採るのは、北タイから雲南にかけての高床式住居の共通点を感じ、作業スペースとして有効活用される。竹編みなどを製作しているのをみかける。


4--3-7.華人薬材店舗(Thanon Tarad Kad)
ダンの店という。漢字表記は不明。薬箪笥が並ぶ典型的な華人薬材店である。連屋形式の商業店舗で、チェンマイのそれと共通している。