2-1.日本人倶楽部
2-1.日本人倶楽部
蟹と茄子=毒(治療はレンコン)
蟹とカボチャ=毒(治療は地漿水・ちしょうすい=地面に染みこませた水を沈殿濾過した水)
蟹と柿=毒(治療はレンコン)=『さるかに合戦』の祟りに違いない?。
蟹とメロン=毒(治療は陳皮)=『さるかに合戦』の別バージョンか?。「早く芽を出せメロン種!」。
蟹と生落花生=毒(治療は地漿水)=『さるかに合戦』・・・(もうやめます・笑)
蛸と柿=毒(治療は地漿水)=『さるたこ合戦』・・・(ありません・笑)
うなぎと梅干し=毒(治療は地漿水)=やりかねない。
うなぎとお酢=毒(治療は黒豆甘草)=うなだれを自作する際には注意!。
田うなぎとナツメ=脱毛(治療は蟹をひたすら食べる)=お坊さんにいいかも。
田うなぎとかぼちゃ=鼻が凹む(治療は蟹をひたすらたべる)
ヤモリの糞尿とごはん=毒(治療は地漿水)=いったい誰の好物?。
田螺と豚肉=眉毛が脱ける(治療は緑豆)=上座部仏教の小僧さんに向いている。
田螺と麺=腹痛と嘔吐(治療は鶏の糞)=広西名物の田螺米粉は米で出来ているからいいら しい。日本と同様食べ過ぎ防止か?。
鶏と李=下痢=普通はやらない。
李と鶏卵=毒=アプリコットケーキはダメらしい。
李と鯖の煮込=ダメ(治療は冬瓜汁)=普通はやらない。
フナと蜂蜜の煮付け=毒(治療は黒豆甘草)=普通はやらない。
田螺のかき氷=毒(治療は地漿水)=普通はやらない。
生魚と牛乳=毒(治療は緑豆)=普通はやらない。
スッポンとセロリ=毒(治療はオリーブ水)
タケノコの麦芽糖煮込み=毒(治療は緑豆)=タケノコと緑豆の麦芽糖アイスキャンディーはい いのか?
マレーシア・ムアー観音古廟の犬・虎・鶏・馬
─神前の対偶原則を逸脱する動物たち─
マレーシアの西海岸のムアー(Muar・河口の意味・華語:蔴坡・ジョホール州の街)という街があり、この街は華人が19世紀後期の街の成立から関わります。華人は福建系・広東系・客家系華人などが住みます。マラッカの近くです。この街に観音古廟という南海観音を祭祀する寺廟があります。「南海飛来」と書いてあって、「飛んで来た寺」のような意味です。広東人の祭祀する寺です。ムア-の土地の神様を祀る「本坡社稷神」(ほんはしゃしょくしん)の神位を本殿前の敷地脇に洞窟状の空間を設けて祭祀します。
写真1.観音古寺の本坡社稷神洞
しかしそれを守るのは、向かって左側が犬で、向かって右側が虎です。これで対となっているならいざ知らず、ふだん生贄(いけにえ)に捧げられるはずの鶏が、中央に守ります。犬と虎は神の使いでしょうが、鶏はそれとは意味が違うと思います。鶏は吉祥の意味もあって太陽を呼ぶから、そうなっているのかも知れませんが、中国の伝統的観念に従って、ここは鶏=魔除けとしたいところです(鳴き声や血の力で魔除け)。生贄として捧げられる場合は、殺して捧げますから、どうもこの鶏像にはそぐわない気がします。
犬・鶏・虎で神様を守る事例は、中国でも台湾でも東南アジアの華人社会でも見たことがありません。三つ一組だから、対にならないので、これは困ります。この土地ならでは祭り方です。
中国文化は左右一対の文化が主流で、対偶の原則がある廟堂を守る石獅も同様ですが、三体一組はかなり規範から逸脱しており、事例として稀少なので掲載します。非狛犬=非石獅的発想である三体一組の発想が珍しいです。
福建省安渓県系華人の祭祀する大二爺廟(斗母宮内にある)でも、寿命が尽きた人の魂をとりにくる冥界の小役人である大伯爺(だいはくや)(白無常・しろむじょう)と二伯爺(にはくや)(黒無常・くろむじょう)の飼い犬に一匹犬がかしずいていましたから、この街の風習で、犬が神様を守ることになっているのかも知れません。こちらの犬は、神様よりも大きくて、中央にでんと鎮座しているのに、お顔がじつに弱気、もとい、慈悲に溢れてはにかんでおられます。
写真2.大二爺廟の石犬。表情が面白いです。
写真4.二伯爺は、大伯爺より背が低く、溺死者の出自です。藍衣(らんい)の上に麻の喪服を着て、「天下太平」の札をもっています。やっぱりたばこが大好きです。
観音古廟では、祭祀の際、参拝者の加護を与える「禄馬」(広東語:ロッバー・ろくば)の切り絵と、貴人(広東語:クゥアイヤン・きじん)の切り絵を社稷神の隣の壁に貼るのですが、「馬」としか書いていないで、しかも目を自分で書き入れるという珍しい祭祀方法でした。
さて、馬(ロバ)・犬・虎(ネコ)・鶏と揃えばなんでしょう。そうムアー(ブレーメン)の音楽隊です(笑)。
街並構成
「軒廊をいったり、来たり、露店をひやかしあるいたり、夜がふけ、足が疲れるまで、おなじところをぐるぐるまわって、あてどもなく時を費やすのであった。紅い壜を棚にならべたヒンヅーの氷店(アエ・バトー)。パイナップルの切売り、香茶(香料の入った冷茶=これは涼茶という甘草とかを入れた暑気払いの冷茶のことだろうか。よく街角で華人が売っている〈筆者注〉)、麺などのたべもの屋。曲本(流行歌の本)や、うすっぺらな黄表紙、中国輿図などを並べている露天の古本屋。鹿のふくろ角をかざり、えたいのしれない干しかためたものを小刀で削って売っている薬種商人。うすぐらい路地ぐちに、黒子(ほくろ)だらけな顔を画いた掛軸をかけ、そのしたに踞っていめ老人の観相(にんそうみ)。この一列の繁華をゆきすごすと、バトパハはくらい町だった」(金子光晴『マレー蘭印紀行』「バトパハ」)。
シンガポールからバスに乗って1時間でマレーシアのジョホール州の州都ジョホール・バルにつく、バルは「新しい」の意味で、華語は「新山」である。そこからバスを乗り継いでわずか1時間半西北に上がってパトゥ・パハッに着くが、道中開けた紅毛丹(ランプータン)の果樹園やら、華人の赤い土地祠を庭とする住宅や、マレー人の高床式木造住居やら、玉葱形のイスラームのマスジットやらのパノラマである。
東南アジアから台湾まで、パナナは吊して売ることが多い
マレー半島西海岸と東海間を横断すると鬱蒼としたアブラヤシの森林に覆われた山地であるが、こちらの道路は明るい人文風景が連なる。川面のニッバヤシなど、生命を謳歌する植物の繁茂のなかに、やっとの範囲で人間が生活するような、「密林から放たれたこころの明るさ」と金子光晴が描いたバトゥ・パハッと印象が全然違う。
腐ってもライカ・錆びてもベンツ。マレーシアのタクシーは中古ベンツが多い。
金子光晴が住んだ頃のバトゥ・パハッは、1932年の最盛期で、人口4万人、8割が華人で、日本人4、50人であった。騎楼街も斬新で一通りの整然とした街並が揃った頃だ。それが21世紀の初頭となると、もううらぶれている。石原の鉄鉱石採掘はこの街のゴム不況からの衰退を救っているが、それも10年で掘り尽くす見込みで、鉱山町の運命は厳しい。


















