これは中国では印刷術発明以前の伝統的なメディアが、「題的行為」(かきしるす行為)によるもので、公的な空間に掲示することが伝達方式であったことにもよります。
文芸作品や美術作品の発表の場が、公的空間での掲示ということで、これらも「見せしめ」とか、表に出て行う夫婦げんか、盲人の胡弓弾きのように、ストリートカルチャーの一種だといえます。中国の物乞いは、地面にチョークで延々と長句を書いて物乞いをすることもあり、これも文芸作品がストリートカルチャーであることを示す一例です。
つまりは、自信作は、おおっぴらに貼りだして、自慢したっていいのです。科挙に合格すれば、「科甲第」(科挙合格の家)と代々に渉り匾額を堂々と門前に掛けますから、「自慢」は、中国伝統文化の大事な要素で、それ自体がおおっぴらでおおらかなコミュニケーションのありかたをつくっているように思います。日本人がしばしばそうであるように、いつも謙遜していると、むしろわざとらしくなりますから、ある意味健全さをも感じます。
また、剣川ペー族は歌垣で三味線を弾けたり、粋な歌を即興で返せないと、伴侶をみつけることが難しいですから、昔の日本の平安歌人のような歌の技術は、基本的な教養です。
これは歴史の記録を薩摩に焼き捨てられたために、歌での口承で知識と歴史や教訓を伝えてきた、奄美諸島の知識のありかたでの歌の位置づけとか、文字によらない教養のありかたを考える上でも通じています。
東アジアで各地域社会での伝統的な教養のありかたを考える教養人類学を、知識人類学の一部門としてやってみると、いろいろ近代的な学校制度にしばられない教養のありかたがみえてきます。
日本では当たり前だけど・阿吽(あうん)唐獅子のいま
-麗江古城の鎮宅石獅(雲南省麗江市大研鎮・束河鎮)
日本の狛犬の特徴である「阿形」(あぎょう)「吽形」(うんぎよう)の「あ・うん」の区別は、中国の石獅にもかつては原則上の区別がみられました。阿吽の区別は当たり前ですが、中国ではかならずしもそうではないのです。この区別は梵字の最初の口を開く音「阿」と、最後の口を閉じる音「吽」から来て、宇宙の始まりと終わりをあらわすといわれています。
唐代の皇帝の陵墓の唐十八陵では、それまでの魏晋南北朝期の陵墓の石獅とは違い、阿吽の区別が一般的になっています(順陵・橋陵・崇陵・永熙陵など)。
たとえば崇陵南門の石獅(805年)は、阿吽の違いのほかに毛並みの違いがあり、吽形の石獅が巻き毛で、阿形の石獅がひらたいつるつるに近い撫で毛ですので、石獅の吽形が雄獅、阿形が雌獅であるようで、雄雌の区別があることが一般的な現代までの石獅のなかでも、唐代は際だった区別をつけるものがあります。唐代の石獅の阿吽の区別は、日本の狛犬にも伝わります。
図1.唐代崇陵南門石獅(雌・阿形)
図2.唐代崇陵南門石獅(雄・吽形)
宋代の皇帝陵の石獅にも阿吽の区別は遺りますが、区別をつけないものも出てきます。
中国では明・清代の石獅では、口の大きさは左右変わないものが増えます。口に玉を含むのが雄獅であったり、仔獅を足元に置くのが雌獅で、鞠をもつのが雄獅とするなどの形で区別をするようになります。阿吽の区別がない石獅の方が、数では阿吽のある石獅を圧倒しています。阿吽の区別のある石獅も現代に生き残ってはいますが、口の大きさ違う獅子があるのを知っている人は少ないです。
中国の石獅は明・清代では阿吽の区別が、一般的な原則とはいえなくなるのですが、ただし、日本でいう仁王像(金剛力士像)の系譜では、中国でも阿吽の区別が原則を保っています。
雲南省西北部剣川県沙渓鎮(けんせんけんさけいちん)のペー族(チベット・ビルマ語群ペー語支)の密教寺院である興教寺(こうきょうじ)の山門には、向かって左に阿形の藍身の金剛力士と、向かって右に吽形の紅身金剛力士が立ちます。
図3.剣川県沙渓鎮興教寺金剛力士像と石獅(ともに阿形・吽形)
中国では口の形から、阿形を哈将(ハージャン)、吽形を哼将(ヘンジャン)といいます。タイやラオスでは、南伝系の上座部仏教圏でも寺院門前を守るヤック(夜叉=サンスクリットのヤクシャ)は阿吽の区別をすることがあります(すべてではない)。
面白いことに興教寺の金剛力士は向かって右が吽形なのに、手前の力士の前の古い石獅は、向かって右が少し口を開けて阿形で、反対の位置になっています。向かって右が阿形は、日本の狛犬も同様です。
さて、雲南西北部麗江市大研鎮(だいけんちん・束河鎮〈そくがちん〉と白沙鎮〈はくさちん〉とともに世界文化遺産「麗江古城」を構成)では、邸宅の石獅に阿吽の区別があり、現代中国で、庶民の石獅にこのような区別がはっきりと遺る事例として面白い場所です。
阿吽の区別がある石獅がそうでない石獅の数と拮抗するかのような勢いがある街は、中国広しといえどもじつは稀少です。中国最高レベルに達することは間違いないです。
麗江市のもともとの住民は、ナシ族(チベット・ビルマ語群イ語支)です。ナシ族は民族宗教のトンバ教ももちますが、チベット仏教の最南限の宗教文化圏に位置します。
大研鎮新義街積善巷24号の石獅型門墩(メントゥン・もんとん)は、扉の軸受けの石台の外部に獅子を彫刻したもので、左獅(向かって右)が阿形です。かなり口が大きくて、ちょっと蛙似の、庶民の石獅らしいものです。ユーモラスな愛らしい笑い顔のような表情と、カボチャのような後ろ足が好きです。
図4.大研鎮石獅阿形(新義街積善巷24号)
図5.大研鎮石獅吽形(新義街積善巷24号)
麗江の石獅は、北京の貴族邸宅にある家門の権勢を誇るような大げさな座獅抱鼓型門墩は少ないです。積善巷の石獅はどれも新しいですが、カタチがまったく違って、個性があります。
新義街積善巷26号の石獅も左獅が阿形です。古代礼制の昭穆(しょうぼく)の秩序の左優先思想が生きているとみることもできます。鼻が大きく、それだけで威圧するような雰囲気の石獅で、座り型はおとなしそうです。
図6.大研鎮石獅阿形(新義街積善巷26号)
図7.大研鎮石獅吽形(新義街積善巷26号)
新義街積善巷33号の石獅も、左獅が阿形です。大きな鼻に、離れ気味の小さな目が可愛いです。鞠をもちます。鞠の紋様が弧を描く珍しい鞠です。楽しそうで威圧感はあんまりありません。台座は、正面が麒麟、側面が牡丹紋様のような鹿です。
図8.大研鎮石獅阿形(新義街積善巷33号)
図9.大研鎮石獅吽形(新義街積善巷33号)
麗江市古城区の郊外の束河鎮の清代くらいの古い石獅には、阿吽の区別があるものがありますが、蹲踞形で、比較的大きく、口の形状は口角がともに丸くカーブしているけれども、阿吽があるというものです。ナシ族らしい素朴でなかなか好ましい石獅です。やはり郊外の街の石獅は、文革の破壊を免れて生き残っていました。
図10. 束河鎮石獅(阿形・吽形)
雲南省の西部の大理白族自治州と麗江市では、阿吽の区別は、比較的多く見られ、とくに麗江市大研鎮では、阿吽獅子とそうでない獅子の数はほぼ拮抗し、殊に鎮内の積善巷は、4組のうち4組にすべてに阿吽の区別があるので、割合が圧倒的に高いのはどうしたことかと思いました。
雲南が中国の西南辺疆だから、比較的残存率が高いのか、それともチベット仏教圏に属し、仏教的なこだわりが強いからなのか、はっきりさせるのは難しいですが、興味深い結果です。

































