夜泣きのお札(貴州省安順市・雲南省石屏県)



   夜泣きを止める貼り紙で、「天黄地禄・小孩夜哭・君子念過・睡到日出」と書いてあります。


貴州省安順市のもの

 
   白い一枚は、貴州省安順市の石頭寨というプイ族(漢字:布依族・トン・タイ語群チワン・タイ語系)黄色い一枚は雲南省南部石屏県でみたものです。ともに同じ文句でした。「天黄地禄・うちのこ夜泣き・君子さま読めば・ひのでまでもぐっすりこ」の意味です。実物の写真は珍しいですから掲載しました。


雲南省石屏県のもの

  「天皇皇地皇皇・我家有个哭夜郎・君子路過念三遍・一覚睡到大天亮」
ともいいます。「てんじんさまちんじゅさま、うちのぼうやは夜泣きっこ、みちゆくおかたは三べん読んで・夜明けまでもぐっすりこ」の意味です。



  
  中国のこの種のまじないは、星野孝司さんが詳しいです。上記の訳文は、ロビンギル著・星野孝司訳『中国のマザーグース』北澤書店、1991年:48頁を参考にしてあって、前半は星野さんの訳そのままです。解説もついています。後半は、この本では「一家睡到大天亮」とあり、「いえじゅうみんなぐっすりこ」となっています(ぶくぶくといって浮上してこないかしらん。これもおまじないの一種・笑)(大学生の時、星野さんの下宿で頭をつきあわせて訳して遊んでいました)。



  夜泣きの言葉がいる家の近くの壁か電信柱に貼っておいて、通行人に読んでもらうと夜泣きが治るというまじないです。



  風邪を売るお札、「出賣重傷風、一見就成功」(風邪大売り出し、読んだら成功)は読んだ途端に風邪が転嫁される呪術で、迷惑千万ですが、夜泣きのお札は大丈夫。見かけたら読んであげましょう。



  日本の夜泣きのまじないに、森正史氏の報告では、「千里奥山の古狸、昼は泣くとも夜は泣くな」と言うとよいというのがあり、呪文もあります。「橋の板を削ってたたいたらなおる」「太夫さん(祈祷師)の烏帽子をかぶせるとなおる」「鳥の絵を描いて、逆にはっておくと良い」(愛媛県越智郡魚島村)(森正史「人の一生 産育」『あゆみ―郷土研究会報』1号愛媛大学農学部付属農業高等学校郷土研究部、1960年)




  また夜泣きする子の草履を「夜泣き虫、ウミ行け」と言いながら家の前から裏の方へ3回ほうるというまじない、あるいは、呪文としては、「猿沢の池のほとりでなく狐、昼はなくなよ」と書いた紙を、夜泣きする子の枕の下にいれておく(滋賀県伊香郡西浅井町)(「成城大学民俗調査報告書」9号、1986年」)となどのまじないがあります。この呪文は前述の愛媛県魚島のものと似ていますね。東北地方ではおしらさまのある家で祈願すると治るともいいます。




  日本は夜泣きの原因が身体の中の「疳の虫」であるとされたり、原因の除去を考えるようです。枕の下に入れるというまじないもよくあります。




   中国のそれは人の力を借りるというもので、読んで泣いている子供が聞き取れば、泣き止むかもしれません。コミュニュケーションを前提としたまじないで、母親があやしてもどうしようもない気持ちが滲み出ているようで面白いです。中国は別に泣き神さまもおられますが、それはまた別の機会に。





 雲南大理、剣川県金華鎮の門画と字貼─地域社会の伝統的教養のありかた




   雲南大理州北部の剣川県の政府所在地の金華鎮は、細長くて東西に狭い剣川盆地の小さな街で、じつは明代初期の城壁都市の範囲を超えないこじんまりした街です。



   最近観光開発も進められていますが、街中で外国のお金を替える銀行はないし、旅行社もないのです。




   明・清代の邸宅が多く、古い邸宅には、その家のモットーを記す伝家聯という形式の中国対句の「対聯」(トゥイリィエン・ついれん)を貼ったり,家の主人が対聯を自作して春節に貼るので、字がうまくないといけない、対句が作れないといけないという、中国の伝統的教養が重視される街です。


図1.文照街の門画(以下すべて個人宅の主人の作品・向かって左)

図2.文照街の字貼(向かって右)

   貧しい土地柄で、科挙の合格で立身出世を目指す気風があることも、対聯が盛んな理由だと思います。字が綺麗で、短詩が作れるという能力が求められるのは、私の田舎の愛媛県の俳句などが近いですが、地方文化人に必須の教養アイテムのありかたが興味をそそられます。

   門画(メンホゥア・もんが)というのは、対聯の内側、門扉の左右に貼る中国画で、これは「字貼」(ツーティエ・じちょう)と呼ばれる書法(中国書道)とともに組にして貼ります。この字貼は、古今の有名な詩句などが多いですが、自作の文や詩句でもいいです。門右(向かって左)が門画、門左(向かって右)が字貼という体裁で、門左の字貼が門画より優先されているようです。

  門画と字貼は春節前三日前くらいに考えて描くものです。かつては隣まちの麗江盆地の麗江市でもよく見かけましてが、観光化の急速な進展のために、地元の人が郊外に引っ越したりして、15年くらい前からまったくみられなくなってしまったのが残念です。

   門画は、金華鎮では自分で描く人もたくさんいます。書道と中国画は一体のもので、両方とも上手であるのが高い評価につながります。門画の多くは街で有名な腕前のある知識人が、友達のために描いて、毎年分けてあげます。お代は不要です。

図3.西門外街東側角の張さん(警察官)の自作門画(向かって左)

図4.西門外街東側角の張さん(警察官)の自作門画(向かって右)仏手柑のある絵を「積善人家、慶びて余りあり」という題という(張旭東さん談) 。仙果なので、友人に贈ると吉祥・幸運を贈ることに通じる。

   ただし、ご不幸のあった家で悲しみをあらわすために掲げる門画と字貼は、自分で描く人もいますが、多くは店で複写したものを購入して貼ります。

図5.張勝英さん(70大)の自作の字貼(向かって左)

図6.張勝英さん(70大)の自作の門画(向かって右)

   春節の期間、街の人は対聯と門画を互いに鑑賞して街を歩く「看対聯」(カントゥイリィエン)の習俗があります。街中が作品ギャラリーとなって、腕を競うのです。

図7.剣陽楼裏手の門画(向かって左)

図8.剣陽楼裏手の字貼(向かって右)



   これは中国では印刷術発明以前の伝統的なメディアが、「題的行為」(かきしるす行為)によるもので、公的な空間に掲示することが伝達方式であったことにもよります。





  文芸作品や美術作品の発表の場が、公的空間での掲示ということで、これらも「見せしめ」とか、表に出て行う夫婦げんか、盲人の胡弓弾きのように、ストリートカルチャーの一種だといえます。中国の物乞いは、地面にチョークで延々と長句を書いて物乞いをすることもあり、これも文芸作品がストリートカルチャーであることを示す一例です。

図9.服喪タイプの門画


図10.服喪タイプの字貼

  つまりは、自信作は、おおっぴらに貼りだして、自慢したっていいのです。科挙に合格すれば、「科甲第」(科挙合格の家)と代々に渉り匾額を堂々と門前に掛けますから、「自慢」は、中国伝統文化の大事な要素で、それ自体がおおっぴらでおおらかなコミュニケーションのありかたをつくっているように思います。日本人がしばしばそうであるように、いつも謙遜していると、むしろわざとらしくなりますから、ある意味健全さをも感じます。




   また、つまるところは、伝統的な教養を自家薬籠中のものにしていないと尊敬されないので、そういう教養は、学歴とはまったく関係ないというのが、中国文化の教養のありかたとして面白いところです。字がうまくないために人気も影響した李鵬元首相なども記憶に遺るところです。


図11.段家巷18号の戯劇門画(向かって左)



図12.段家巷18号の戯劇門画(向かって右)




   また、剣川ペー族は歌垣で三味線を弾けたり、粋な歌を即興で返せないと、伴侶をみつけることが難しいですから、昔の日本の平安歌人のような歌の技術は、基本的な教養です。




   これは歴史の記録を薩摩に焼き捨てられたために、歌での口承で知識と歴史や教訓を伝えてきた、奄美諸島の知識のありかたでの歌の位置づけとか、文字によらない教養のありかたを考える上でも通じています。




   東アジアで各地域社会での伝統的な教養のありかたを考える教養人類学を、知識人類学の一部門としてやってみると、いろいろ近代的な学校制度にしばられない教養のありかたがみえてきます。

日本では当たり前だけど・阿吽(あうん)唐獅子のいま
-麗江古城の鎮宅石獅(雲南省麗江市大研鎮・束河鎮)



  日本の狛犬の特徴である「阿形」(あぎょう)「吽形」(うんぎよう)の「あ・うん」の区別は、中国の石獅にもかつては原則上の区別がみられました。阿吽の区別は当たり前ですが、中国ではかならずしもそうではないのです。この区別は梵字の最初の口を開く音「阿」と、最後の口を閉じる音「吽」から来て、宇宙の始まりと終わりをあらわすといわれています。




 
    唐代の皇帝の陵墓の唐十八陵では、それまでの魏晋南北朝期の陵墓の石獅とは違い、阿吽の区別が一般的になっています(順陵・橋陵・崇陵・永熙陵など)。






   たとえば崇陵南門の石獅(805年)は、阿吽の違いのほかに毛並みの違いがあり、吽形の石獅が巻き毛で、阿形の石獅がひらたいつるつるに近い撫で毛ですので、石獅の吽形が雄獅、阿形が雌獅であるようで、雄雌の区別があることが一般的な現代までの石獅のなかでも、唐代は際だった区別をつけるものがあります。唐代の石獅の阿吽の区別は、日本の狛犬にも伝わります。

図1.唐代崇陵南門石獅(雌・阿形)

図2.唐代崇陵南門石獅(雄・吽形




    宋代の皇帝陵の石獅にも阿吽の区別は遺りますが、区別をつけないものも出てきます。






 
    中国では明・清代の石獅では、口の大きさは左右変わないものが増えます。口に玉を含むのが雄獅であったり、仔獅を足元に置くのが雌獅で、鞠をもつのが雄獅とするなどの形で区別をするようになります。阿吽の区別がない石獅の方が、数では阿吽のある石獅を圧倒しています。阿吽の区別のある石獅も現代に生き残ってはいますが、口の大きさ違う獅子があるのを知っている人は少ないです。




    中国の石獅は明・清代では阿吽の区別が、一般的な原則とはいえなくなるのですが、ただし、日本でいう仁王像(金剛力士像)の系譜では、中国でも阿吽の区別が原則を保っています。




    雲南省西北部剣川県沙渓鎮(けんせんけんさけいちん)のペー族(チベット・ビルマ語群ペー語支)の密教寺院である興教寺(こうきょうじ)の山門には、向かって左に阿形の藍身の金剛力士と、向かって右に吽形の紅身金剛力士が立ちます。

図3.剣川県沙渓鎮興教寺金剛力士像と石獅(ともに阿形・吽形)    



  中国では口の形から、阿形を哈将(ハージャン)、吽形を哼将(ヘンジャン)といいます。タイやラオスでは、南伝系の上座部仏教圏でも寺院門前を守るヤック(夜叉=サンスクリットのヤクシャ)は阿吽の区別をすることがあります(すべてではない)。





    面白いことに興教寺の金剛力士は向かって右が吽形なのに、手前の力士の前の古い石獅は、向かって右が少し口を開けて阿形で、反対の位置になっています。向かって右が阿形は、日本の狛犬も同様です。






    さて、雲南西北部麗江市大研鎮(だいけんちん・束河鎮〈そくがちん〉と白沙鎮〈はくさちん〉とともに世界文化遺産「麗江古城」を構成)では、邸宅の石獅に阿吽の区別があり、現代中国で、庶民の石獅にこのような区別がはっきりと遺る事例として面白い場所です。





    阿吽の区別がある石獅がそうでない石獅の数と拮抗するかのような勢いがある街は、中国広しといえどもじつは稀少です。中国最高レベルに達することは間違いないです。






   麗江市のもともとの住民は、ナシ族(チベット・ビルマ語群イ語支)です。ナシ族は民族宗教のトンバ教ももちますが、チベット仏教の最南限の宗教文化圏に位置します。





    大研鎮新義街積善巷24号の石獅型門墩(メントゥン・もんとん)は、扉の軸受けの石台の外部に獅子を彫刻したもので、左獅(向かって右)が阿形です。かなり口が大きくて、ちょっと蛙似の、庶民の石獅らしいものです。ユーモラスな愛らしい笑い顔のような表情と、カボチャのような後ろ足が好きです。



図4.大研鎮石獅阿形(新義街積善巷24号)




図5.大研鎮石獅吽形(新義街積善巷24号)





    麗江の石獅は、北京の貴族邸宅にある家門の権勢を誇るような大げさな座獅抱鼓型門墩は少ないです。積善巷の石獅はどれも新しいですが、カタチがまったく違って、個性があります。






    新義街積善巷26号の石獅も左獅が阿形です。古代礼制の昭穆(しょうぼく)の秩序の左優先思想が生きているとみることもできます。鼻が大きく、それだけで威圧するような雰囲気の石獅で、座り型はおとなしそうです。



図6.大研鎮石獅阿形(新義街積善巷26号)



図7.大研鎮石獅吽形(新義街積善巷26号)


    新義街積善巷33号の石獅も、左獅が阿形です。大きな鼻に、離れ気味の小さな目が可愛いです。鞠をもちます。鞠の紋様が弧を描く珍しい鞠です。楽しそうで威圧感はあんまりありません。台座は、正面が麒麟、側面が牡丹紋様のような鹿です。

図8.大研鎮石獅阿形(新義街積善巷33号)

図9.大研鎮石獅吽形(新義街積善巷33号)


    麗江市古城区の郊外の束河鎮の清代くらいの古い石獅には、阿吽の区別があるものがありますが、蹲踞形で、比較的大きく、口の形状は口角がともに丸くカーブしているけれども、阿吽があるというものです。ナシ族らしい素朴でなかなか好ましい石獅です。やはり郊外の街の石獅は、文革の破壊を免れて生き残っていました。

図10. 束河鎮石獅(阿形・吽形)


    雲南省の西部の大理白族自治州と麗江市では、阿吽の区別は、比較的多く見られ、とくに麗江市大研鎮では、阿吽獅子とそうでない獅子の数はほぼ拮抗し、殊に鎮内の積善巷は、4組のうち4組にすべてに阿吽の区別があるので、割合が圧倒的に高いのはどうしたことかと思いました。





    雲南が中国の西南辺疆だから、比較的残存率が高いのか、それともチベット仏教圏に属し、仏教的なこだわりが強いからなのか、はっきりさせるのは難しいですが、興味深い結果です。






雲南大理の清真(イスラーム)月餅

  大理盆地は、ペー族と漢族とイスラーム教徒であるホイ族(漢字:回族・イスラーム系民族を回回と呼んだから)、そして山地のイ族(漢字:彝族・チベット・ビルマ語群イ語支)が暮らしています。もうすぐお月見の中秋節ですが、大理盆地では、自宅で焼いた月餅を知り合い贈り合う贈答習俗があるのです。そして、回族もまた月餅(ユエピン・げっぺい)を贈ることがあります。

  イスラームを清真(チンチェン・せいしん)というので、イスラーム月餅は「清真月餅」(チンチェンユエピン・せいしんげっぺい)といいます。もちろん一般の月餅のように、豚油を使わない、イスラーム流のハラルをして清めた食材を使います。

  以前ホイ族の親戚から貰った清真月餅は、茴香(ういきょう)の餡で、匂いが強くて砂糖もたっぷりで、油も多くて驚きの味でした。

  美味しいとは思いませんでしたが、餡の鮮やかな茴香の緑色が、いかにもイスラームの色ですから、そこで取り上げられた食材のように思えました。

  それで今日、月餅市で、大理で焼いたイスラーム月餅を買い求めました。一個10元(160日本円)です。緑色の袋に入っていますが、マークは漢族の中秋伝説に登場する月宮の女神嫦娥(じょうが)さまが飛んでいました。

  中身は雲南イスラーム食品の代表であるビーフジャーキー「干巴」(カンバー)が、砂糖づけになって入っていて、豚肉のハム(火腿)の砂糖が入った、他民族の月餅とそこだけが違います。皮は、型を押していない、素朴なもので、焼き目が香ばしい雲南流の皮でした。甘いし,ハム月餅よりも脂身が多い感じがしました。それもそのはず1200キロカロリーもあるのです。味はけっして美味からずというところでしょうか。

  清真月餅の食べ方は、まず満月を一方から食べていって、細身の新月状になるまで、ひたすら囓るのがお薦めです。

  なぜならばイスラームは、漢族が一家団欒の象徴として信仰される満月ではなく、新月を象徴とするからです。新月だけ遺すのが粋というものでありましょう。ということで最後は冗談で締めます。
門を守るエトランゼと唐獅子─「胡人騎獅型石獅」(山西省平遙古城)





  中国の北方に多いカタチの石獅(せきし)像で、よくみられるのが獅子の上に西域系の胡人(こじん)が騎る「胡人騎獅」(こじんきし)タイプです。






   明代以降に中国北方で流行し、陝西省では家門の左右に立てる馬を繋ぎ止める拴馬桩(せんばしょう)に、胡人騎獅像タイプがよくみられます。
   胡人像は漢代にはあり、彩色陶器の唐三彩(とうさんざい)の胡人騎馬像などもあり、とくにシルクロードの往来が盛んだった唐代に流行する胡人像の流れを汲むものといえそうです。




   山西省中部の平遙古城(へいようこじょう・世界文化遺産)の大商人の家、元宝大院(げんぽうだいいん)の博物館には、清代あたりの胡人と石獅の門石があって、向かって右は胡帽をかぶった胡人が獅子に座し、中央あわせの胡服に革長靴です。向かって左は無帽の胡人が獅子に跨(また)がっています。いずれも目つきは鋭いです。この方たちも胡人に多いイラン系なのではないかと思います。

図1.胡人座獅型門石(向かって左・清代・山西省平遙古城元宝大院所蔵)


図2.胡人騎獅型門石(向かって右・清代・山西省平遙古城元宝大院所蔵)

図3. 胡人騎獅型門石スケッチ(向かって右・山西省平遙古城元宝大院所
   蔵・解像が悪いので手描き図をつけました)


   神像が獅子に載る場合はありますが、獅子の上には漢人が載るデザインは中国ではあまりなくでは何故獅子に胡人が騎るのかといいますと、いろいろ理由は考えられると思います。

   1.中国の獅子のイメージ自体が、仏教伝来とともに、シルクロード経由で西域を介して伝えられたので、獅子と胡人はともに外来で、相性がいいこと。ましてや石獅は鈴をつけているように、家人や神さまにとって、飼い慣らされた動物でなくてはならないから、獅子を飼い慣らす役割として、胡人が跨(また)がることは、たしかに適任であるともいえましょう。

   2.中国北方は戦国時代に趙国が「胡服騎射」を取り入れたように、西域の胡人の影響が強いこと。南方ではあまり胡人のイメージが浸透しておらず、北方に胡人像が多いのはむべなるかなといえましょう。

   3.胡人は、イラン系のソグド商人などが、中国に珍しい宝石や瑠璃をもたらしていて、漢人が知らない宝石を中国内地から持ち去り、泉を湧かせたり、宝石に秘められた力を発揮させるという、「胡人識宝譚」(こじんしきほうたん・南蛮子伝説ともいう)など、胡人は、漢人と異なる特異な能力を具える異人であるとイメージされていること。魔除けにも、特殊能力がありそうです。

   4.胡人は漢人とは表情が異なり、目つきが鋭いから、魔除けの門番にも適している。印象も斬新でしょう。




   などなどと思いつくままに列挙してみましたが、まだまだ理由はあるでしょう。
   雲南省西北部の麗江古城(大研鎮)の某旅館の前の石獅は、現代作品ですが、異人が騎っています。異人のもつ宝器として、手に宝塔をもつのが不思議な意匠です。胡人と宝塔のイメージが合うとも思えないので、麗江に隣接するチベットのチベット族を意識したのかなと思います。

図4.藏人騎獅型門石(向かって左・現代作品・雲南省麗江市大研鎮)


図5.藏人騎獅型門石(向かって右・現代作品・雲南省麗江市大研鎮)


   宝塔を持つのは毘沙門天(インドのヴァイシュラヴァナ・中国では後に托塔李天王・たくとうりてんのう)(唐朝の開国の将軍李靖を人物に托し、『西遊記』『封神演義』で活躍)の姿の影響はあると思います。ただし、左右一対だし、神像にみえず、毘沙門天そのものではないと思います。帽子や表情はやはり異人系で、たぶんチベット族のイメージだと思います。


   現代にみる門を守る胡人系のものは、マレーシアはペナンの邱公司の狛シーク(インドのシク教徒の番兵)とか、タイのバンコクはトンブリー地区ワット・アルンの狛洋兵とがありますが、アジアで門番としてときどき彫られる異人兵士像も、門を守る「狛胡人」(こまえびす)の系譜に連なるエトランゼとしてみることもできると思います。