「道徳」
武士道を私は道徳としてみているとお伝えした。
ではその道徳を今日は考えてみる。
道徳的な考えは人を「正しい」か「間違い」かで判断させるかのようにみえる。
しかしそれが現在、行われている私達の道徳的な行動なのかもしれない。
しかし道徳とは有機的な繋がりの中であらゆる変化をもたらすものだ。
過去、様々な哲学者、アリストテレス、ジョン・ロック、イマヌエル・カント、
ジョン・スチュアート等が人間の真相、道徳を説いてきた。
私も今、「自衛せぬ平和」は不要であり、それを定義することで「平和道」導き出そうとしている。絶対的に理不尽であり絶対的不公平な道徳にならないようにその逆説を考えている。
簡単な言葉で言えば「それは無理だ」と考えられる。
根拠はそれが過去において存在すれば我々が不平や不満、自殺や病気などで悩むことは多くに緩和されていたと思う。
しかしどうだろう?
今、不平や不満、自殺や病気、そして名誉や尊厳、人間的理性までもが資本主義の中に組み込まれているように考えられる。
私達は、「私達がすでに知っている事実」に直面させられると「その事柄を本当の意味で気づいた時は知りえた事実にさえ動揺してしまう」そうなる事で皮肉にも思考を止める傾向に存在する。
「慣れしたしんでいた誰もが知っている事実」の表裏が浮き彫りになった時「その慣れ親しんだ事実」は我々を引き離すし別世界へ連れ出す。
不安を感じずにはいられないがその先に「道徳」があるかもしれないと定義をずらすことなくそこに立ち向かう姿勢こそ「勇気」であると私は感じる。
「勇気の先」にあるのは「正義」、正義が創造するのが「道徳」でありそれは人間が人間である為の公平であり崇高な道徳でなければならず、カントを意識すれば自然の摂理から離れることのない「道徳」でなければならない。
その正義が机上でしか存在しない現在「平和」といえるのか?
そこでその議論をする為に私は毎日、近隣の方と討論をしているがみな疲弊し、自分を失いかけている。
宿命を使命に変えるなどという甘い考えなどなく、「やむにやまれぬ想い」で前進しようとしている。
「自衛せぬ平和」から「自衛せぬ」を引き離し真の正義がもたらす「平和」について話あう為に、「道徳」から目を背けてはならないと考えている。
最後に
「正義は必ず勝つという子供たちの夢」を失わせるわけにはいかないことだけは
地球上に存在する人間の「今の事実」と考えたいところである。