目の前の事実は見ようとしないと見えないものである。
物事の本質を捉えた時に決定的に人間が否定出来ない存在は「子供」であろう。
その子供の価値を学校教育に委ねる親は私も含めて「極悪人」なのであろう。
その決定的証拠として我々、日本人は根底を疑う事をしなくなった。
1つ例を上げるが、学校教育の中で根幹に値する「給食」という柱に目を向ける親はどれくらいいるのでしょうか?
学校が提供する給食は安全だなどという勝手な理解の上で成り立っているのではないだろうか?
人間は食べたもので出来ているし、生きている。
その命で生命を築き上げてきた。
その食材の作られる過程も工程も考えずに、学校を単純に必要なものだと捉えているなら実に滑稽なことであろう。
単純だが私が読みあさった書物の中には真っ向から「牛乳不要論」を唱える著者もいる。
ではどうして不要論を唱える事が出来るのであろうか?
それは必要なものを知っている事に直結する。
不要論を唱えるものは本当に必要なものを知っている。
否定論と不要論を同じものに感じる事はあまりにも理解が乏しい。
簡単な事だが不要論はその先に繋がる思考と想像力と未来を唱える論理であり、
否定論は目の前の事実から怯え逃げ出し、見ようとしない抽象的な論理である。
今、自分にとって「確固たる必要なものを手にしたい」のなら「自分を大切に思う」のなら
「愛するべき人を守りたい」のなら不要な事を必要だと感じるのではなく、不要なものを勇気をもって断ち切る事でしょう。
そして本当に必要なものが「何なのか探求」していくことでしょう。
アフガニスタン現地活動30年以上続け、アフガニスタンの大地に大いなる生命の用水路を築き上げ、なお今も戦い続けている中村医師は「医師としての治療は最低限」に「人間として命を治療する方法」を説いています。
「自然と遊離するバベルの塔は崩れる、その自然との信頼関係は一朝にしてならず、裏切られても裏切り返さない大誠実こそが、人と人とを有機的に繋ぎ、未来への生命へ大いなる力を分け与えその力がまた人を築きあげる大きな想像力となるのです。
本日はフッターはつけません。