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「史的イエス」と「宣教のキリスト」という言葉があります。
新約聖書は弟子たちの手になるものですから、そこには彼等の信仰が投影されているという話です。
新約聖書に表現されたイエスは、「宣教のキリスト」であり、
歴史において実際生きて死んだイエスとは違うのではないかという話です。
真実のイエスを知ろうという試みでしょう。
新約聖書に記されたイエスの言動の中で、イエスが神に対して祈るときに「アッバ」と呼びかけますが、
その呼びかけとしての「アッバ」と言う言葉は、後代の創作ではなく、確かにイエスの言葉に違いないと判断されるとヨアヒム・エレミアスという人は指摘しました。
自分は1970年代終わりごろに彼の著作を通して、そのことを知りました。
「アッバ」はアラム語で、「おとうちゃん」という感じの言葉だというのです。
今まで、神に対してそのような言葉を用いて祈った人はいないのです。
イエスがはじめてだというのです。
だから、この言葉は、イエス自身の言葉であるというのです。
この弟子たちの創作ではない、確かにイエスの言葉と判断できる、この言葉、これこそ、
実に「原理」の本質に通じる言葉であると気付きました。
復帰摂理歴史は、神との人間との関係の変遷の歴史です。
人間が引き上げられていく歴史です。
無関係の段階から、間接的関係を結ぶ段階へ。これが「僕の僕」です。
そして、次には直接的関係へ。その直接的関係においても、僕、養子、実子と引き上げられてきたということが、
人類歴史の本質であったのでしょう。
そのことを「原理」は指摘しています。驚くべき指摘です。
「僕」の段階の信仰しか持ち得ていないユダヤ人の前にイエスは現われました。
そして、イエスは神に対して「おとうちゃん」と呼びかけ、祈祷されたのです。
この「アッバ」という神に対する呼びかけの言葉こそ、イエスご自身が神の実子である
ことの表明であったのです。
「神は人類の真の父母である」という宣言こそ、「原理」の一番の確信です。
そのことを、「アッバ」は現しているのです。
今まで、2000年間、クリスチャンは神に対して「天の父よ」と呼びかけ、祈祷してきました。
しかし、神が、真実に、自分の実の父であるとは考えて来なかったのでした。
もし、神が自分の父、更には、人類の父であるなら、神は悲しみの神であることが
自動的に理解されると思いますが、そうではなかったからです。
そして、この「アッバ」との呼びかけこそ、十誡の第三誡の
「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう」
に抵触したのでしょう。
少なくとも、宋前総会長も昨年であったでしょうか、イエスが神を「父」と呼んだことが問題とされたのであり、
それが十字架の原因であるとされておられました。
以下、参照聖句を記しておきます。
マコ14:36
「アバ、父よ、あなたには、できないことがありません。どうか、この杯をわたしから取りのけて下さい。
しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください。」
ロマ8:15
「奴隷の霊…子たる身分を授ける霊…その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。」
ガラ4:6
「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である。」
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「三大父母」とは
〔1〕物質世界(宇宙、自然)
〔2〕私の体を生んでくれた父母
〔3〕神様
み言より
「私は三大父母を通して生まれました。最初の父母は物質世界です。物質の世界からすべて要素を受け継いで、物質の中心として、物質の複合的な存在として、私を造られました。このような観点から、その物質元素自体が私を生んでくれた先祖でもあり、また私の延長が物質世界でもあります。この物質は愛の理想の立場においてのみ安着するように宇宙はできています。愛の理想の立場ですべての細胞が平安に生きられるようになっています。もし腹を立てれば、すべて、こじれていってしまいます。次に、私の体を生んでくれた父母が、二番目の父母です。私を生んでくれた父母が、私をして、一つの形態を備えて生まれてくることができるようにしました。しかし、この父母はどんなに頑張っても愛の主人になることはできません。私の生命の主人にはなれますが、愛の主人にはなれないのです。愛の主人は神様です。愛を宇宙化させて、愛を永遠化させるために神様がいらっしゃるのです。神様は愛の主体であられので、愛を中心として父母になっています。ですから、神様が私たちの第三の父母です。このように私たちは三大父母を持っているのです。」[韓日対訳み言シリーズV、人間の行くべき生涯路程p19]
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原理講論和訳研究31
「イエス路程」の「第二次世界的カナン復帰路程」の「四十日断食と三大試練とをもってサタンを分立した結果」で、
「創造原理によれば、人間は正分合の三段階の過程を経て、四位基台をつくって初めて、神の創造目的を成就するようになっているのである。ところが、人間はその四位基台をつくっていく過程において、サタンの侵入を受け、創造目的を成就することができなかったために、神は、今までの復帰摂理路程を、これまた、三段階まで延長しながら、「四十日サタン分立基台」をつくることによって、失ったすべてのものを蕩減復帰しようとされたのである。ところで、イエスはメシヤであられると同時に、洗礼ヨハネの立場で三段階の試練に勝利され、…」
「イエスはメシヤであられると同時に」とあるが、原文を直訳すれば「イエスはメシヤであられながらも」である。
和訳の「メシヤであられると同時に」はこれでいいだろうかと疑問に思う。
メシヤは本来「洗礼ヨハネの立場」に立つべきではない。
そのことを意味するために、原文直訳の「メシヤであられながらも」がよいのではないだろうか。
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「統一思想」は、本然の世界には「秩序」があるとする。
この堕落世界でも、「夫婦」と言うのであって、「婦夫」とは言わない。
同様に、「兄弟」と言うのであって、「弟兄」とは言わない。
「夫婦」「兄弟」と表現することによって、秩序をあらわしている。
「原理」は、兄が弟を主管するという「長子権」があると主張する。
この堕落世界ではサタンが兄を主管し、兄を通して弟を主管している。
だから、「サタン分立」から始まる復帰摂理は、
弟に生まれついた者をして、「神側に立つ条件」を立てるようにさせる。
そのことを通して初めて、「アベルの位置を確立」することができる。
また、これによって、「カインの位置を確立」できる。
アベルは父アダムに代わって信仰をもって供え物を捧げて「神側に立つ条件」を立てた。
ヤコブはハラン二十一年路程を通して、「神側に立つ条件」を立てた。
彼らは、「アベルの位置を確立」できた。
ではその次のステップは何か。
「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てることによって「サタン分立」をなすことである。
それは、「カインの位置を確立した者」が「アベルの位置を確立した者」に対して、
「愛し、仲保とし、屈伏し、善を繁殖する」ことによってなされる。
これはいったい何を指しているかと言えば、
神のみ旨を中心として
「アベルの位置を確立した者」と「カインの位置を確立した者」が
一つになることである。
これを成就するかどうかは、ひとえに「人間の責任分担」に委ねられているのであるが、
その主役は、「アベルの位置を確立した者」である。
彼は、「カインの位置を確立した者」を愛し、仲保となろうとし、主管を試み、善のみ言を伝えようとしなければならない。
その道を勝利的に歩んだ者がヤコブであった。
「ヤコブ路程」こそ、重要視されるのである。
また、民族的カナン復帰路程を進めるにおいて、「モーセ一人」がどれほど大切であったか。
「原理講論」は、はじめから、「アベルの位置を確立した者」の責任の大きさを主張している。
そして、彼は「カインの位置を確立した者」と一つになってはじめて、
「アベルの立場に立つ」のである。
「アベルの立場に立つように願われている者」は、
自らの努力によって、「神側に立つという条件」を立てなければならないし、
その後、「カインの位置を確立するようになった者」に対して、
愛し、仲保となろうとし、主管を試み、善のみ言を伝えようとしなければならない。
そのとき、真の愛と天の知恵をもって相手に相対することが願われるのであろう。
彼こそ、より主体的な責任を負っているのであろう。
「原理」は、アベルがとった言動、ヤコブの路程、モーセの路程などを通して、
そのことをはじめから主張していると思う。
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み言からです。
■目…二つの目が焦点を結んでこそ見ることができる
「目も三点を結びます。焦点が三点を連結しているのです。」[二世の道p83]
「目の構造はいくつからなっていますか? 白目、黒目、瞳からなっています。
蘇生・長成・完成でピタリと当てはまるようになっているのです。」[二世の道p84、85]
■鼻…二つの穴が中で1つに合わさって完成になる
「鼻も中に入って1つになります。」[二世の道p83]
「鼻を見ても、穴が二つあって、中のほうで一つに合わさります。完成になるわけです。」[二世の道p85]
■耳…三つの部分が総合して聞くことができる
「耳を見ても、一、二、三、このように三つの部分からなり、これが総合して聞くことができるようになっています。」[二世の道p85]
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