1988年の年度代表馬タマモクロスの話です。
タマモクロスのエピソードは良く知られていることですが、改めて書いてみます。
タマモクロスは新冠の錦野牧場で生を受けましたが、当時錦野牧場は苦しい経営を続けていました。
タマモクロスがデビューし本格化する前に、とうとう錦野牧場は倒産し、その際様々なトラブルも重なり家族は離れ離れとなり、タマモクロスの母グリーンシャトーは売られていった牧場で環境が変わったこともあり、体調不良を起こし死んでしまいます。
その後タマモクロスはいよいよ本格化し、重賞3連勝を含む5連勝で天皇賞(春)に挑みます。
結果、天皇賞(春)は2着ランニングフリーに3馬身差をつける快勝で初G1勝ちを収め、その後宝塚記念、天皇賞(秋)とG1を連勝し年度代表馬にまで登りつめます。生産者の錦野さんは、倒産後の諸事情もあり表彰式に出ることはなかったのですが、天皇賞(春)はこっそり京都競馬場に見に行ったそうです。
錦野さんは当時の事をこのように述懐しています。
「グリーンシャトーを手離したときは断腸の思いでした。私が彼女を殺したようなものです。環境の変化に繊細なグリーンシャトーは耐えられなかったのでしょう。でもタマモクロスが天皇賞(春)を勝ったとき、家族は私を許してくれました。タマモクロスには感謝しかありません。」
牧場を倒産させてしまったことは残念だったけど、生産したタマモクロスが大活躍したことは結果、錦野さんのやり方は間違っていなかったということなんですね。天皇賞(秋)の2週間後、タマモクロスの妹ミヤマポピーがエリザベス女王杯を勝ち、兄妹でのG1制覇も成し遂げています。
タマモクロスのエピソードは、当時少年誌にも掲載され、鞍上南井克巳の初G1勝ちとともに紹介されました。
私にとって、タマモクロスのエピソードは後日知ったことですが、初めてみた天皇賞(春)の思い出と、芦毛の馬体とともにいつまでも忘れることはないでしょう。