どんなスポーツ、エンタメでも主役だけではなく脇を固める名バイプレイヤーがいることで成り立つ側面がある。
競馬を見ていると特にそう思う。
G1に勝てない、主役になれない、まるで自分の境遇そしてもんもんとする感情にシンパシーを感じる、そういった馬達をずっと応援していた自分がいる。
今日は私が競馬をしているなかで、また競馬情報誌”優駿”で紹介され印象に残っている名バイプレイヤーを紹介したい。
昭和時代ではドウカンヤシマをあげたい。
ドウカンヤシマは1980年生まれのタケシバオー産駒で、3冠馬ミスターシービー世代で43戦8勝の戦績だが、特筆すべきは2歳時から7歳時まで6年連続重賞制覇をしたことだ。
その勝ち鞍のほとんどが人気薄での勝利で穴党ファンを喜ばせた。また史上初めて東西の金杯を制するという珍記録も持っている。G1では安田記念の4着が最高だが、重賞競走の常連で「年に一度のドウカンヤシマ」と評された。
同時期には全10場重賞レースに出走した名牝ヤマノシラギクもおり、重賞レースを彩った。
私が競馬を始めた1980年代後半はなんといってもランニングフリーだろう。
ランニングフリーはタマモクロスの勝った1988年の天皇賞(春)で13番人気ながら2着に入り脚光を浴びるようになった。
以降、オグリキャップの活躍等で大いに盛り上がった第二次競馬ブームのなかで名脇役として存在感を放った。
重賞勝ちは1989年AJC杯など3勝だが、天皇賞は6度挑戦して2、5、5、8、4、4着、有馬記念は3回挑戦して4,4,6着と、掲示板に載り続けた。
1990年代に入り、馬券を買える環境になると実力を度外視し、自分が応援する馬から馬券を買うようになり特にこの2頭を応援した。
1頭は1988年生まれのナイスネイチャである。
1991年の菊花賞戦線で上り馬と目されて注目を集め引退するまで、古馬中長距離戦線の脇役として活躍した。
有馬記念には3年連続の3着を含め計5度挑戦、G1戦では計9回掲示板に載った。
馬券は外れるほうが多かったが、6歳時の高松宮杯で2年7ヶ月ぶりの勝利をあげた時はとても感激した。
もう1頭は1990年生まれのステージチャンプである。
ステージチャンプは私が大好きだった名牝ダイナアクトレスの初仔で、1993年の弥生賞を最低人気でウイニングチケット、ナリタタイシンの3着に入り注目されるようになった。
ステージチャンプは9番人気の菊花賞、5歳時には6番人気の天皇賞(春)で2着に入り、好配当を私にプレゼントしてくれた。
晩年は骨折等の脚部不安に悩まされたが、結果引退レースとなった8歳時の天皇賞(春)でも4着に入るなど長距離戦線で存在感をは放った。
2000年代になると、サンデーサイレンスとその仔達の産駒が席巻しG1タイトルを独占するようになり、脇を固める個性派が少なくなった。
そのなかでは1999年生まれのバランスオブゲームをあげてみる。
バランスオブゲームはダービー馬フサイチコンコルドの産駒で29戦8勝、内6勝がG2戦だった。トライアルの弥生賞とセントライト記念を勝つなどトライアルホースと呼ばれたが、古馬になっても長く活躍を続けた。
G1では7歳時の宝塚記念など3着が最高だったが、重賞では計19回も掲示板にのり常に安定した成績を残した。
2008年生まれのウインバリアシオンもよく覚えている。23戦4勝の戦績だが、G1で4度の2着、そのうち3回は3冠馬オルフェーブルの後塵を拝した。
引退後は青森で種牡馬入りしたが、昨年産駒のハヤテノフクノスケが菊花賞に参戦したのは記憶に新しい。
令和に入ってからは、昨年引退したディープボンドだろう。
昨年リーディングサイヤーを獲ったキズナの初年度産駒で、天皇賞(春)で3年連続2着に入るなどG1タイトルにもう一歩だった。
G1戦で9回掲示板に載るなど直近の長距離界で存在感を放った。
現役では短距離界で活躍しているナムラクレアとウインマーベルか?どちらもあと一歩のところまできているがどうだろう?
競馬も主役だけではない。脇を固める馬達も応援してレースを楽しみたいものだ。