雑談:『ザ・ベストテン』第1回 | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

ロックを中心とした昔話、新しいアフロ・ポップ、クラシックやジャズやアイドルのことなどを書きます。

 先週の当ブログで西城秀樹の「ブルースカイ ブルー」について書くにあたって(記事はこちら)、YouTubeで1970年代後半の動画をあれこれ見ました。そうすると、当時の歌番組なんかが思い出されたわけですが、小学生の頃なので幼年期は過ぎていたとはいえ、記憶がおぼろげなものが多いです。
 しかし小学5年生くらいの番組になると、けっこうハッキリとした像として記憶に残っています。私が小学5年になった年、つまり1978年。TBSの『ザ・ベストテン』はその年の1月19日に始まりました。

 テレビの歴史に関して私は詳しくないので断言できませんが、”ベストテン”を銘打った歌番組は先に『TBS歌謡曲ベストテン』(1965年~1967年)などがあったようです。でもそこでは政治的な配慮でカウントダウンの構成を取っておらず、『ザ・トップテン』の前身にあたる日本テレビの『紅白歌のベストテン』(1969年~1981年)も紅白対抗が主軸だったので、本格的なカウントダウン形式で生放送となると、やはり『ザ・ベストテン』が先駆的にして大成功を収めた番組だったのでしょう。最高で41%を超える視聴率を叩きだし、1989年の9月28日まで放送されました。
 ここで興味深いのは、開始が1980年ではなく1978年だった事実です。『ベストテン』は1980年代を代表する歌番組ですが、その手前にスタートから2年間の時期があったのです。では、それが人気爆発にいたる助走だったのかというと、そんなことはありません。その2年間で、『ベストテン』はすでに人気番組の座に就いていました。
 たとえばピンク・レディーの「サウスポー」「モンスター」「透明人間」「カメレオン・アーミー」などがこの時期です。山口百恵は「乙女座宮」「プレイバックPart2」「絶体絶命」「いい日旅立ち」・・・と、ヒット曲群を通って引退に向かう時期で、西城秀樹の「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」も1979年でした。ほかにもたくさんの歌手がランキングを競う形で登場する生番組ですから、あっという間に全国の若者、子供たちのあいだで毎週必見となりました。放送翌日の金曜日の学校では、誰が何位だったとか、ジュリーがどんな格好で歌ったとか、百恵ちゃんの「美・サイレント」の歌詞はとか、朝の挨拶がわりに話していました。これは大げさではなく、本当に日本じゅうで起きていたことです。『ベストテン』を見ていなかった小学生のほうが少なかったと言えます。

 今となっては若い人に説明が難しい区分ですが、ニューミュージックという枠を当時の子供たちにまで伝えたことも、『ベストテン』の役割だったと思います。
 ニューミュージックについては以前の記事でも書いたように、音楽的な要素だけでは定義しにくくて、私は漠然と「1970年代の後半から1980年代の前半にかけて、歌謡曲以外で若者に支持されていた日本のポップ・ミュージック」と書くことにしています。
 フォークのようでフォークではなく、ロック寄りでもロックではなく、だけどフォーク・シンガーやロック・バンドも含まれていて、山下達郎なんかもそこに括られ、ゴダイゴも松山千春も中島みゆきもアリスもツイストも、そしてサザンオールスターズもニューミュージックと呼ばれていたのですから、当時よくニューミュージック的な文脈で使われていた言葉、”フィーリング”による区分だったとしか言うほかありません。シンガー=ソングライターの系統にあるのは間違いではないにせよ、レコード会社がこしらえたニューミュージック風味の曲だって”フィーリング”の点ではニューミュージックとして受け入れられました。
 それまで、そうした分野のアーティストは中高生の若者にアピールしていたのですが、そこから小学生の子供たちへと紹介する橋渡しの役割を『ベストテン』は担っていました。家族にお兄さんやお姉さんのいる子は、ただでさえ早熟というか、クラスメイトがヒデキだジュリーだと騒いでいるときに「やっぱり甲斐バンドだぜ」と(なぜか)得意げに話したがりましたが、そういう背伸びを兄姉のいない子にも誘う番組でもありました。それもまた、思春期の曲がり角に近づいてきた子供たちには重要な、イニシエーションの一部だったのです。

 では、そんな『ベストテン』の第1回目はどんなランキングだったのか。次のとおりです。
1位 ピンク・レディー「UFO」
2位 キャンディーズ「わな」
3位 桜田淳子「しあわせ芝居」
4位 中島みゆき「わかれうた」
5位 郷ひろみ「禁漁区」
6位 沢田研二「憎みきれないろくでなし」
7位 西城秀樹「ブーツをぬいで朝食を」
8位 狩人「若き旅人」
9位 清水健太郎「泣き虫」
10位 野口五郎「風の駅」


 『ベストテン』の初回が1月だったので、1977年と1978年が入り交じっている感があります。ジュリーの「憎みきれないろくでなし」は前年9月のシングルで、ヒデキの「ブーツをぬいで朝食を」は1978年元日の発売。

 ピンク・レディーの「UFO」は前年12月にリリースされて絶賛ヒット中の頃です。この次のシングルが「サウスポー」で、「UFO」の奇想天外な路線を野球のシチュエーション(女性投手が王貞治に魔球で挑む)で展開したものですが、そこから先のアメリカ進出まではピンク・レディー全盛期の第二幕です。

 キャンディーズがピンク・レディーと1位、2位を争っている図も懐かしい。「わな」(2位)はミキちゃん=センターの危うい恋の歌で、『みごろ!食べごろ!笑いごろ!』で毎週耳にしていなければ子供には今ひとつ馴染みきらない曲調でした。ただし、スーちゃんのファンだった私も、ミキちゃんの木之内みどり系の綺麗な顔立ちには好感を持ってたので、彼女がセンターで歌っているのを見ると「ミキちゃん頑張れ」と声援を送りたくなりました。

 「しあわせ芝居」(3位)と「わかれうた」(4位)。前者は中島みゆきが桜田淳子に書いた、タンゴっぽいメロディーの曲です。小学生男子だった私は、この歌の”意中の男性が自分に気があると思い込んでたけど、そうではないことを悟って落ち込む”女心の機微を知って、そんなことを歌詞にするのかと驚きました。

 後者は言うまでもなく中島みゆき自身のヒット曲で、これも「途に倒れて誰かの名を呼び続けたことがありますか?」の「ありますか?」に、ありうるという前提なのか!と戦慄しました。あれは当時の私には呪い歌みたいなもので(ま、呪い歌なんですけど!)、聴くと怨念を浴びそうで怖かったんです。それはともかく、中島みゆきの名が小学生にまで広まったのは、この「わかれうた」からです。そういう意味でも1970年代末は分岐点でした。

 5位は郷ひろみの「禁漁区」。これは作詞=阿木燿子で作曲=宇崎竜童。このコンビはこの年の5月に「プレイバックPart2」を手がけることになりますが、そう考えると「禁漁区」のドライヴする符割りは「プレイバックPart2」の前哨だったように捉えられます。

 しかし郷ひろみは同年6月の「林檎殺人事件」のインパクトが大きくて、「アダムとイヴが~」のコード感をメジャー・セヴンスだと知らずに胸ときめかせたので、それに比べると印象は薄いです。

 6位。ジュリーは「勝手にしやがれ」でレコード大賞を獲った半月後だったんですけど、シングルは(「MEMORIES」を間に挿んで)9月に出た「憎みきれないろくでなし」が直近だったことになります。大賞効果もあったか、「勝手にしやがれ」もこの回の19位に入っていたようですが、もっと上に来てもおかしくはなかった。

 が、9月に発売された「憎みきれないろくでなし」がこうして翌年1月のチャートで6位というのは王者の証です。曲も歌も演奏も文句なしに最高。スケコマシの男を女の視点で描くあたりは「私を愛したスパイ」ならぬ「私が愛したジュリー」。

 7位のヒデキの「ブーツをぬいで朝食を」は、イントロでライターを灯すアクションがあった頃でしょう。その後、子供がマネをするというクレームがついてライターを鏡に持ち替えました。どっちにしても、長身のヒデキの長い腕で行われると絵になります。
 ジュリーが翌年の「カサブランカ・ダンディ」で洋酒を口に溜めて吹いてみせたのも、あれこそ子供がヒデキのライター以上に学校の水道でマネしまくったんですけど、ヒデキのキャラクターはジュリーより健全な部分が大きかったような気がします。でありながら、「ブーツをぬいで朝食を」は情事の匂いの漂う大人の曲でした。

 8位は狩人の「若き旅人」。これは当時まったく知りませんでした。もろに演歌でして、私の幼いアンテナに引っかからなかったんですね。
 まあ、デビュー・ヒットの「あずさ2号」にしても、ポップスふうの演歌というか演歌ふうのポップスというか、微妙な色合いではありました。そのへんの感覚が明確に分離していなかったのが、昭和50年代前半なんですよね。

 9位は清水健太郎の「泣き虫」。ヤンチャな目つきをした、骨のある甘いマスクの不良、ってな感じでしたでしょうか。
 曲調もニューミュージック色を湛えた歌謡曲だったと思います。「アローン・アゲイン」をポップス歌謡の流儀で解釈した一例ですね。

 彼の初期の曲では、つのだひろ、宇崎竜童、吉田拓郎、ふとがね金太といった面々が作曲を手がけています。なんか方向性が見えてくるじゃないですか。つのだひろ=作詞作曲(「失恋レストラン」も)の「泣き虫」はバラードで、その泣かせには”フィーリング”があって、ニューミュージックを向いている気がします。

 そして10位は新御三家の残る一人、野口五郎の「風の駅」。「甘い生活」「私鉄沿線」などの系統にある”同棲が終わったあと”の追憶の歌です。名曲「グッド・ラック」はこの年の9月で、コロッケがデフォルメしてマネする「真夏の夜の夢」は翌年。
 五郎の音楽スタイルが変わる前ということもあるけれど、同棲というトピックが1978年にはそろそろ古い流行になってきたのかもしれません。いや、実際にはもっと普通のことになっていったんですけど、カジュアル化したので、わざわざ同棲後の別れの悲しみを歌に求めるニーズが減っていったと言いますか。1980年代の到来とともに、日本は明るく軽薄になっていきましたからね。ワン・ルーム・マンションでは「神田川」も「私鉄沿線」も「積木の部屋」も歌の風景として似合いません。

 

 こうして『ベストテン』初回のランキングを見ただけでも、ジュリーや新御三家が新しい局面を迎えていたことが伝わってきます。ピンク・レディーが破竹の勢いで伸びてきて、キャンディーズが解散を目前にして、百恵・淳子が宇崎竜童や中島みゆきに接近していました。
 圏外に目をやると、原田真二の「てぃーんずぶるーす」(13位)、「キャンディ」(14位)、「シャドー・ボクサー」(25位)の健闘が目立ちます。アリスの「冬の稲妻」(21位)、Charの「逆光線」(29位)もしかり。彼らニューミュージック勢(Charも、本人の意識はともかく、そこに括られていました)は、テレビに出る人もいれば出ない人もいましたが、この順位にまで上がっているレベルの人たちは出ないことが興味をそそる場合が多く、ラジオで聴くと、それぞれに魅力を感じたものでした。かと言って、私が積極的に松山千春のファンだったわけではないのだけど、『ベストテン』の初出演時、長い長い独り語りの後に「季節の中で」を歌い出した時には、歌の力というものに押し負かされました。

 今回の記事で書いた内容をまとめるならば、1978年には1970年代の歌謡界が徐々に変化してきて、新たな段階に差し掛かっていた賑わいがあったということです。
 と同時に、ここに並んだ歌手やソングライターたちの感性は、次の時代の風を予感させるとしても、軸足は1970年代的な湿り気を帯びています。それはアリスや松山千春がヒット・チャートの常連となっても、しばらくは変わりませんでした。また、レコード会社専属のオーケストラが務めるバッキングやそのためのアレンジも、私の耳にはその音の広がりが懐かしくて頬を緩ませるのですが、今の若い人には古めかしく聞こえるでしょう。
 けれど、その時点が端境期だったことを知るよしもなかった1978年当時、少なくとも小学生には、このくらいがちょうど良い加減で楽しめる音だったのです。上にあげた初回の10曲中、狩人の「若き旅人」を除く9曲は、今でも鼻唄で口ずさめます。いかにこれらの曲のリスナーへの”もてなし”方が最大公約数のツボをついていたか、ということです。

 最後に、黒柳徹子も久米宏もホントに若かった。とくに黒柳徹子は、両親にとっては昔から有名なタレントだったけれど、私がその名前をおぼえたのは『ベストテン』が最初でした。日本のテレビ放送の開始日から現在にいたるまで、第一線で活躍している驚くべき人。90歳の今でも平日の昼帯に冠番組で喋っているなんて、空前絶後です。ただひたすら敬服します。