私選:キンクスで好きな20曲 | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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ロックを中心とした昔話、新しいアフロ・ポップ、クラシックやジャズやアイドルのことなどを書きます。

 キンクスのプレイリストを作ってみたくなったので、その20曲をここに紹介します。
 キンクスは代表曲や重要な曲が多いのですが、どこか「贔屓にさせる」独特の魅力があると思います。すべてを網羅しようとすると、20曲では収まりません。なので、ここでは特に私の贔屓を基準にしました。
 じつは今から30年ほど前にもカセット・テープでマイ・ベストを作ったことがあり、今回もそれと内容がほぼ変わっていません。自分にとってのキンクス像が30年も更新されていないことに呆れました。が、これは彼らの魅力のある程度が把握できたら、その深度でずっと浸れるからではないかと思います(その意味ではT・レックスに似ているかもしれません)。新たな発見や解釈の対象となりにくい、そういう存在があってもいいでしょう。
 選曲には、既発のコンピレーションで聴ける程度の知名度も多少は意識しました。しかしそれでは済まないのも、サムシング・エルスな道を歩んできたキンクスです。本当はもっとアリスタ時代の「元気なキンクス」の曲も入れたかったのですが、他の時期に好きな曲が集中していて、なかなか満遍なくとは行きませんでした。でもこの20曲でキンクスらしさは充分に伝わるはずです。

 Berkeley Mews
 まずはオープニングとして、LolaのシングルB面にカップリングされた、1970年のこの曲を。
 1940年代あたりの場末の酒場を彷彿とさせる、うらぶれた味わいのレトロなタッチの曲で、それがロックンロールのフォーマットへと絶妙に落とし込まれています。
 タイトルはロンドンにある小さな通りの名前。キンクスが音で描くロンドンって、私にはあまり首都という感じがしません。かといって「ロンドンは退屈で燃えている」ふうでもなく、ごく自然に古びた街という印象を受けます。
 この曲は歌詞も「色あせた木の葉が目に映る頃だった 君と出会ったバークレー・ミューズ」と、なんか黄昏れています。この味わいにハマると、キンクスとは長く付き合っていけます。


 Sweet Lady Genevieve
 1973年のロック・オペラ的なアルバム『プリザヴェイション第一幕』に収録されていた曲です。
 レイ・デイヴィスがコンセプト・アルバム作りに執心していた時期の、とりわけ濃厚な二部作の前編が『プリザヴェイション第一幕』です。べつに難解な二部作ではないし、そこそこにキャッチーな曲が収録されています。ところがそこには、まるでアトラクションのないテーマ・パークみたいに、入村したリスナーがほったらかしにされて、楽しみかたが掴めない手持ち無沙汰が待っています。これを心ゆくまで楽しむのは容易ではないかもしれません。けれどここを超えて見えるキンクス像は確実にあります。私がいちばん好きな時期のキンクスです。
 Sweet Lady Genevieveは、そんな中でとびきりキャッチー。村の観光パンフレットみたいなものです。これが入っているんだったら、出かけて行きたい気にさせるアピールが強力です。レイ・デイヴィスのユーモアとセンチメントが、丸っこくも芯のあるソングライティングの筆致で「第一幕」から飛び出してきます。最高です。

 

 Victoria
 1969年のアルバム『アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡』の1曲目を飾った、フットワークの軽やかなロック・ナンバー。
 アルバム・タイトルから、どんな伝奇的な歴史ロマンが繰り広げられるのか?と想像していたら、イギリスの市民生活が綴られた短編集みたいな作品でした。そしてキンクスのディスコグラフィーでも指折りの傑作です。
 Victoriaの歌詞は、一見するとイギリスの王室を讃えているかのようですが、それが皮肉として大げさに表現されています。そのアイロニーを伝えるのがレイ・デイヴィスのヴォーカルで、このアルバムを境に彼の歌の演技が主張しだします。彼はいわゆる「上手い」歌い手ではないと思いますが、自分の声質とスタイルをしっかりと持ち、曲のテーマに反映させる点で優れたシンガーです。
 ややカントリー・ロック風味の演奏も良くて、それが結果的にキンクスの音のイギリス的な資質を浮かび上がらせているのも面白い。アメリカンな要素を演奏やアレンジに多く取り入れたときに、すごく英国的な面が露わになる。キンクスにとどまらず、ブリティッシュ・ロックの魅力ですね。

 

 Drivin'
 これも『アーサー、~』の収録曲。また、彼らのネジれたコード進行が楽しめる曲でもあります。
 ♪ドゥ、ドゥ、ドゥ、ドゥ~♪のコーラス部分が焦点を明確にせずウロウロと進んで、これだけでも諧謔味がたっぷり。それを大上段に構えず、茶化すようなセンスで小ぶりにやっているのが心憎いです。
 歌詞は皮肉が満載で、「戦争は他の国にまかせて、ぼくらイギリス人は田舎に遊びに行こうよ」。その底意には、自国の凋落から目を背けて過去の栄光の殻に閉じこもるイギリス人への風刺が感じられます。キンクスの曲は英国的であると同時に、現代の日本人にも共感できる部分が少なくないですね。

 

 Afternoon Tea
 1967年の傑作アルバム『サムシング・エルス』に収められた、おそらく全キンクス・ファンから愛されている曲です。
  サビで転調する作りで、普通に考えると不要なヒネりに思えるのですが、ワン・コーラスが終わって2番に繋がるとき、キーとキーの段差が夢から覚めたような気分をもたらします。そこがホントに秀逸。この曲の歌詞は、好きな子がいなくなって、一緒に午後の紅茶を飲めなくなったという欠落感を歌っていますから。
 まあ、こういう事柄は後付けで解釈できるのだけど、レイ・デイヴィスは転調とか脚韻を意図的に曲のテーマへと結びつけているソングライターでしょう。
 そうした技が盛り込まれていてもなお、この曲は聴く人を愛おしくさせるキュートさに満ちています。ほんのりと哀しくて、でも過ぎ去った恋を夢で再生しているうちは幸せ、みたいな淡い喜び。やっぱり日本人の琴線に触れるものがありますね。

 

 You Really Got Me
 出ました。大有名曲。キンクスの看板曲です。
 もちろん、これだけがキンクスではない。しかし何十年キンクスを聴いても、私はこの曲に飽きたことがありません。リフ・ロックの興奮を巻き起こすこの曲も、しっとりとしたCelluloid Heroesのような曲も、あるいはミュージック・ホール的なDedicated Follower Of Fashionも、根っこにあるのは同じ視点・感性です。
 この曲なんか、ハード・ロックの元祖とされていますが、アグレッシヴなありようの根本がネジれています。ハードな型にあわせて作られたんじゃなくて、ややこしい物の捉え方をする人が、ややこしさをエッジに変換したら出来ちゃった、そんな偶然の恵みを覚えます。これは性格ワルのハードネスなのです。
 ただし、その偶然は偶然に終わりませんでした。キンクスはこれの第二弾、第三弾をも成功させます。で、You Really Got Meのガガガガッに慣れると、後発曲のほうが優れているように聞こえたりするのですが、そういう物差しで測れない圧倒的な本家本元感があるのはYou Really Got Meです。

 

 Till The End Of The Day
 ということで、その後発曲のひとつであるTill The End Of The Day。これも20曲に入れました。
 いや、お察しいただけるでしょうけど、迷ったのです。All Day And All Of The Nightも捨てがたい。よくまあYou Really Got Meからアップデートして作れたなと感心します。Till The End Of The Dayを選んだのは、ほとんどコイン・トスの結果みたいなもんです。
 私はこの曲の、You Really Got Meの従弟っぽい佇まいに惹かれます。兄弟よりも絆は薄まってる。でも親戚じゃん、子供の頃に草野球して遊んだよね、と通じ合う関係。
 さらに、ここが重要かどうかわかりませんが、You Really Got Meと比べると、リフがヴォーカルとコール・アンド・レスポンスに近い形で付いています。♪ベビー、アイフィールグッ♪、ジャッジャッジャジャンジャン。私はこれが好きなのです。メロディーがリフに沿っているタイプもいいですが、Till The End Of The Dayのリフのほうがリズム&ブルースのホーンズっぽい気がして、そこが贔屓のポイントとなりました。

 

 Acute Schizophrenia Paranoia Blues
 個人的にキンクスのアルバムで最高傑作は1971年の『マスウェル・ヒルビリーズ』だと思います(シングルのコンピレーションでもいいんですけどね)。が、収録曲はどれもアルバムの色を背負っていて、こういうセレクションに加えたくない気持ちがあります。
 しかし自分のお気に入りから外せない曲が収められているのも確かで、たとえばこの「急性分裂症妄想症ブルース」はそのひとつ。
 ジョン・ゴズリングのピアノに導かれ、トロンボーンやチューバも緩く絡んで場末の空気が醸し出されるなか、あらゆる人々が自分の生活を侵そうとしている妄想に取り憑かれた男のブルースが歌われます。『マスウェル・ヒルビリーズ』全編に言えることですが、ここでのレイの演唱は絶品です。フィクションを固めて、それを演じて歌うことで、パーソナルにして普遍的な悲喜劇を成り立たせます。
 楽器のどのフレーズも良いし、それらがきわめて自然発生的に聞こえるのも素晴らしい。ルーズに崩した輪郭をしていますが、実は引き締まっています。

 

 Apeman
 1970年のアルバム『ローラ対パワーマン、マネーゴーラウンド組第一回戦』に収録された大名曲です。
 アルバム・タイトルから、どんなアメコミの世界が飛び出すのかと想像していたら、音楽出版社やらマネージャーやら会計士やらを皮肉ったミュージック・ビジネスの内幕話の短編集みたいな作品でした。この『ローラ~』と『アーサー、~』は1970年前後のキンクスの傑作ですが、二つともタイトルと内容の膝カックン度の高いアルバムでもあります。
 レイ・デイヴィスはミュージック・ビジネスに疲れていたらしく、アルバム『ローラ~』には自由を求める出発の歌が収められています。Apemanにも「汚れきった現代社会を離れて自然の中で暮らしたい」という願望が込められているけれど、いくぶん屈折した様相を呈し、なおかつそこがユーモアに昇華された見事なソングライティングです。大らかでもあり、神経質でもある。その両側を屈折しながら行き来するところにユーモアが生じています。
 カリプソふうの曲調で、このアイデアも歌詞が呼び寄せたのでしょう。「ぼくは洗練された人類の見本みたいな人間です。だからこの濁りきった世の中がイヤでイヤでなりません。いっそ服を脱いで猿人に戻りたいです。さあ、ジャングルで木の上に住みましょう。ぼくターザン、きみはジェーン。ぼくの猿人ガールになってよ。ふたりで猿人ワールドで暮らしましょう」。・・・私がふざけて訳しているのではありません。実際にこう歌っているのです。
 全体に、間の抜けた作文という感じがするのも面白いし笑えるけど、このメンタルが進むといっそうヤバくなるだろう語り手と、なにかを共有している自分に気がつきます。工夫を利かせながら、曲の雰囲気は大らか。レイ・デイヴィスの真骨頂です。

 

 Autumn Almanac
 1968年のシングル曲です。アルバム・ディスコグラフィー上では、『サムシング・エルス』と『ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサエティ』の間に位置します。『ヴィレッジ・グリーン・~』は素敵なアルバムですが、私見ではAutumn Almanacが凄すぎて、ちょっと弱いかなと思ったりします。私はとにかくこの曲が好きで好きで、イギリス盤の7インチをメイル・オーダー(郵便)で海外から取り寄せたほどです。
 才気煥発。歌詞もメロディーもコード進行も創意工夫の塊です。そしてこの曲でのエキセントリックな工夫もまた、大らかな曲調の中に縫いこまれてあります。まあ、これを作れたら天才と呼ばれて然るべきでしょう。
 イギリスの市民生活が鼻唄の軽さで歌われています。ドラマティックな出来事は何も起きない。毎日の習慣と年中行事をこなして、一生を過ごす人たちに視線が注がれています。それは皮肉なのですが、レイ・デイヴィスはロックのメッセージに縁のない彼らのことを、意地悪くも、ユーモアをもって描く価値のある事柄として重視してもいるんです。「この街から出て行こう」と立ち上がる若者ではなく、生まれた土地から動かない人たちの生活風景に入って、一緒にお茶を飲んだりロースト・ビーフを食べたりする。これはキンクス版『サザエさん』です。何度も繰り返される「イエス、イエス」の言葉が、エンディングでは呪いとなって響くのも、この視線があればこそ。
 そんな視線が奇妙なコード進行と変拍子で増幅されます。コードはキーが何なのかを曖昧にしたまま、歌舞伎の衣装の引き抜きみたいに次々と変わっていきます。メロディーは牧歌的で親しみやすいけれど、土台のコード進行はキテレツで、素人が適当にアルファべットを連ねたんじゃないか?と言いたくなる箇所もあります。そうして作られた曲が牧歌的で唱和性が抜群に高いという、まったくもって恐ろしい鼻唄です。

 

 Strangers
 『ローラ~』に収録されたデイヴ・デイヴィスの曲です。
 デイヴの書く曲と彼の歌は好きだし、ソロ・アルバムも佳いのだけど、あまり感心できない曲もあります。それはなぜかというと、いい曲がとてもいいからなんです。
 このStrangersはキンクスにおける彼の最高作でしょう。こんな素晴らしい曲を書けるデイヴが、あれとかあれとか、なんであんなに大味なの?と不思議です。ま、それもキンクスなんですが。
 「この道を旅する俺たちは他人どうし でも別々じゃないんだ 俺たちはひとつなんだ」という歌詞が胸を打ちます。ドラッグのオーヴァードーズで死んだ友人に捧げた曲とのことですが、どうしたってデイヴィス兄弟の仲を連想させます(デイヴにとっては迷惑なコジツケでしょうが)。また、シンプルなコード進行に沿った実直なメロディーが、聴き手にとっての誰かを思い浮かべさせる力を持っています。
 ヴォーカルもいい。(声変わり前の)キース・リチャーズにも通じる、ぶっきらぼうな高い歌声で、彼の中にある大切なものや譲れないものがジンと伝わるヴォーカルです。それでいいんだし、ロックはそれが輝く宝になり得る表現です。ウェス・アンダーソン監督が『ダージリン急行』のサントラで使用したのも理解できます。
 ギタリストのリード・ヴォーカル曲をアルバムで聴く嬉しさって、こういうものです。

 

 Picture Book
 『ヴィレッジ・グリーン・~』ほもちろん傑作なのですが、まどろみを誘う感じが私には今ひとつ馴染めなかったりもします。ロック・シーンが革新勢力で盛り上がる流れに背を向けて、あえて守旧の旗を掲げた姿勢はキンクスらしくて痛快だけど、そっちに偏りすぎて自分たちを見つめる視点が足りないのではないか。
 ですが個々の曲はチャーミングで麗しいと思います。そうでないと、ここにPicture Bookを選んでません。曲単位では好きなものばかりです。
 タイトルのPicture Bookは絵本ではなくフォト・アルバムのことですね。昔の写真を眺めて、両親や親戚の姿を見返そうよと歌っています。子供が絵本を広げている無邪気な光景じゃなくて、イノセンスを懐かしむ大人の歌です。甘めに仕上がっているのは、これを書いた時点でのレイ・デイヴィスがまだ若年寄りだったからだと思います。だから本物の老人のノスタルジーほど切々とはしていません。
 しかしこの甘さが楽しい。20代の若者だって、昔の写真に和むことがあるじゃないですか。そんな隙のあるノスタルジー。ほぼ全音ずつ上がってゆくリフも無邪気だし、良い意味で青い。曲のキーはEで、コード進行は4度ずつ上がっていき、さらに4度上がったサビ(♪ピ~クチャ~ブ~ック♪)でCへ転調。この遊び心も微笑ましく愉快です。

 

 Waterloo Sunset
 出た。You Really Got Meと双璧にして、キンクスのサムシング・エルスなほうの看板曲です。アルバムも1967年の『サムシング・エルス』に収録。
 1990年代半ばのブリット・ポップのブームでは、キンクスがゴッドファーザー的な注目を集めました。そこで当時の若いロック・ファンに再評価されたのが、キンクスのこっちのテイストだったと記憶しています。レイ・デイヴィスとデーモン・アルバーンがこの曲をデュエットしたこともありますね。
 その頃、相対的に人気がなかったのはアリスタ時代の派手で「元気なキンクス」でした。もっと小動物っぽいキンクスが好まれたのだから、それはしょうがない。でも『ロウ・バジェット』のようにギターがギンギンのダイナソー・ロック仕様にだって、Waterloo Sunsetと同じものが流れてはいるんです。
 ただ、Waterloo Sunsetは特別ですよね。この曲に対する私の感想は『サムシング・エルス』についての記事(こちら)をお読みください。
 そこでもちょっと触れたことですが、初期の作風とは異なるWaterloo Sunsetにも、じつはギター・リフが控えめな程度で聞けます。キンクスは器用なバンドではないけれど、そういうセンスは優れています。この曲でギターが奏でる下降フレーズがどれほど効果をあげているか。それはSunny Afternoonの時よりも巧みだし、曲の醸し出す哀感を調節しつつ盛り上げてもいます。

 

 Only A Dream
 1993年のアルバム『フォビア』に収録されていた曲です。
 「元気になったキンクス」が少し地味な路線に戻って、先行きは大丈夫なのかなと心配していた頃にコロムビアと契約してリリースされたのが『フォビア』。オルタナ時代に寄せた音像ではありますが、その試みが成功しきったとは言えません。オルタナはブリット・ポップおよびそのルーツであるキンクスと相性が良くなかったし。
 とはいえ、『フォビア』は佳曲を楽しめるアルバムでして、このOnly A Dreamもレイ・デイヴィスお得意の掌編小説ロックです。
 ある男がエレベーターで出会った美女に笑顔で挨拶されて、ご機嫌になって次に会えるのを楽しみにして、また会ってみたら彼女は彼に気づかなかった、という話。で、「人生はエレベーターだ。アップしたりダウンしたり」と自分に言い聞かせます。その喩えの絶妙な陳腐さと、「ぼくは一人分の床を踏みしめるしかなかった」という所在のなさ。トホホな嘆息のバランス。私はレイ・デイヴィスに弟子入りしたい。
 レイ・デイヴィスは小市民のチマチマした妄想の滑稽さと溜息をロックの題材にとると、右に出る者がいません(そこにどれだけのニーズがあるかは別として)。

 

 Set Me Free
 1965年のシングル曲です。20選に入れたかったのに外すことになった曲には、Tired Of Waiting For YouとSunny Afternoonがあります。Set Me Freeはその二つを繋ぐというか、前者の「待ちくたびれたよ」と後者の「税金払えねえよ」を重ね合わせると、いい塩梅で腑に落ちる曲です。これならキンクス・プレイリストの選抜メンバーを任せられる!
 パワー・コードをレイジーな陰影に用いており、そのリフ自体はYou Really Got Me系ほど光ってはいないと思います。わりと適当に思いついた感じ。
 だけどそこに乗っかるメロディーと展開が本当に美しい。こんなふうに何かを諦める歌もレイ・デイヴィスの真骨頂のひとつですが、この曲の美しさは彼の秀でた観察眼がまだ盛り込まれていないところです。
 つまり、ややこしいレイ・デイヴィスのややこしさが発揮されていなくて、だからこそ諦めのラヴソングとしてストレートに美しいと感じるのです。そこに諦めきれない想いが散見されます。これが出来る下地があっての、ややこしさや観察眼への進化だったのですね。めちゃくちゃ好きな曲です。

 

 Ducks On The Wall
 1975年のコンセプト・アルバム『ソープ・オペラ』に収録されたコミカルなロックです。
 『ソープ・オペラ』も私のフェイヴァリットで、これもやはり小市民の妄想がテーマ。「小市民」って、なんべん書かせんだよ。卑屈な気分になるじゃないか。
 レイ・デイヴィス、どうしてこのネタを好むのでしょうか。それによって離れていったファンもいただろうに。なのにあなたは小市民に向き合うの?小市民はそんなにいいの?ゴールド・ディスクやグラミーよりも。
 いや、彼はその類いの人たちを揶揄したいだけでなく、自分の内側に同じ匂いを嗅ぎ取っているのです。だからキンクスはいつも三番手か四番手なんだ。だからファンは優勝できないキンクスが愛おしくてならんのです。
 Ducks On The Wallは、自分の妻が安っぽいアヒルの壁掛けを飾るのにウンザリしている男の歌です。妻がテレビで昼メロ(ソープ・オペラ)に夢中になってるほうがマシだ、とまで嘆いています。その嘆きが躁状態のハードなロックで鳴らされ、レイ・デイヴィスも「アヒルの壁掛けを捨ててくれ!」と熱っぽくシャウトします。
 たまらん。至極どうでもいいトピックなのに、胸が苦しくなるほど愛おしく感じる私はどうかしてます。ジョナサン・リッチマンにカヴァーしてほしい。

 

 Come Dancing
 1982年末にシングルでリリースされた曲で、翌年のアルバム『ステイト・オヴ・コンフュージョン』に収録されました。
 今回の20選で残念なのは、アリスタ期の「元気なキンクス」を除外する格好になったこと。全然嫌ってないし、むしろ好きな曲がたくさんあるのだけど、他が強すぎるんです。しかしこのCome Dancingは絶対に外せません。
 もっとも、これは「元気なキンクス」の意味するアリーナ・ロック・スタイルとは味付けが異なっています。柔らかい音色のキーボードをフィーチャーして、メロディーは1960年代後半に立ち返ったようだし、感触がノスタルジックで優しい。
 レイとデイヴの亡くなったお姉さんが元気だった子供時代が歌われています。センチメントが陽気なオブラートに包まれているのですが、歳月がたっても拭い去れない悲しみが小さな翳を落としているというか、あえて消さずに残してあるようです。それが今はもうない場所や建物を懐かしむ気持ちと相まって、聴く人のパーソナルなセンチメントを軽快な調子でくすぐります。
 「あのダンスホールが取り壊されたとき、ぼくの子供時代の一部が終わった」の箇所は、演奏も歌も激しさを帯びていて、でもそれは時の流れなんだ、仕方ないんだ、というニュアンスも運ばれてきます。文句なしの名曲です。

 

 Shangri-La
 『アーサー、~』に収録されていた曲で、トラッド・フォークふうに始まりクラシカルな展開を経て、ファンキーに弾むパートを挿みつつ、堂々たる体格のロックに帰結します。
 この曲も前述したAutumn Almanacと同様に、レイ・デイヴィスの才気がほとばしる好例です。転調がAutumn Almanacよりも折り目正しく、そのぶんコード進行のユニークな大胆さは目減りしていますが、これは全体の構成を整合感で統一するためでもあるのでしょう。この曲に関しては、その整合感が吉と出ています。
 歌詞は皮肉が山盛りです。マイホームを手に入れてローン地獄や新しい近所に悩まされることになった男の歌。そんな人物に対して、「それがあなたの欲しかった宮殿(シャングリ・ラ)なんでしょう?」とイヤミを言ってます。
 すごいのは、ファンキー・パートで浴びせる「どの家も同じ煙突、同じ車、同じ窓枠だ!」「ガス代、水道代、車のローン、あなたにはもう不安しかない!」の歌詞。それらを畳みかけるように投げつけてくるから笑っちゃいます。レイ・デイヴィスが聖人君子だったら、こんな性格ワルのロックは作れません。
 歌詞の背景にはイギリスの階級社会があるわけですが、日本人も身につまされるテーマです。

 

 Days
 1968年のシングル曲で、これが収録された版の『ヴィレッジ・グリーン・~』も当初はリリースされたようです。
 Waterloo Sunsetと同等かそれ以上に人気の高い曲で、恋愛や友情などの人間関係が破綻したあとに覚える別れた相手への感謝と心残りが歌われています。
 「君が去っていって落ち込むだろうけど、心配しないで。ぼくはこの世界を恐れたりしない。君がくれた日々に感謝しているよ」という感情は、別れてすぐの時点では持ちにくいです。が、時間がたつにつれて相手への気遣いが芽生えたりするものだし、それは淀みを含んでいても真心に近い気持ちだと思います。
 この歌詞が綺麗事に聞こえないのは、人間が相手を恨みながらも思いやったりする生き物だという視点があるからです。この曲にも恨みごとは混じっていて、晴れやかさにのぞく一点の曇りが真実味を支えています。
 音楽的には、二回の転調が主人公の未だ解決しない心の揺らぎを当然の苦みとして伝えます。歌われる思いやりが複雑な感情の層を通っていることが、それらの転調にも表れているのです。メインの「君との日々をありがとう」のパートだけでも美しいのですが、それだけでは割りきれない感情の襞が含まれているからこそ、このDaysは珠玉のキンクス・ソングなのです。

 

 Muswell Hillbilly
 最後に選ぶのは、アルバム『マスウェル・ヒルビリーズ』を代表する曲、Muswell Hillbillyです。
 このアルバム、私は先にAcute Schizophrenia Paranoia Bluesを挙げて、それ以外はアルバムの中で聴きたいといったことを書きました。HolidayもAlcholもそうです。けれども、この曲を20曲から外したくありません。
 キンクスの音楽が私に魅力的なのは、彼らの母国に向ける愛情と批判が矛盾することなく内包されているからです。そしてこのMuswell Hillbillyは、まさにそのイギリスへの愛情と批判を内包した曲であります。
 歌の主人公は、幽閉も同然にロンドンの住宅街へと転居させられた男です。そこがレイとデイヴの生まれ育った街、マスウェル・ヒル。男はアメリカ文化への憧れを抱き、画一化を押しつけてくる体制に抵抗の意を強くします。アメリカのロックンロールやブルースやカントリーは、イギリス人の彼にとって自由の象徴なのでしょう。
 男はこう呟きます。「やつらが俺のコックニー訛りを矯正できても、コックニーのプライドだけは変えられない」「俺はマスウェル・ヒルのヒルビリーになってやる。俺の心は遠いアメリカのサウス・ダコタにあるんだ・・・行ったことないけどな」。
 ないんかい。このオチに笑いながら涙ぐんでしまうのは、そこで演奏される英国流に変形したカントリー・ロック・サウンドが、コックニーとサウス・ダコタを橋渡ししているからです。それは日本にいてキンクスに夢中になっている私をもイギリスへと橋渡ししてくれます。
 キンクスの音楽は性格ワルで優しい。それが彼らのロックです。ちなみに、私はイギリスに一度も行ったことがありません。