雑談:デオドラント1986 | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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 「クドカンの新しいドラマ、時代考証が変なんやけど、どう思う?」と同い年の友人に訊かれたのが先週末。私はその宮藤官九郎=脚本のドラマ『不適切にもほどがある!』のことを知らなかったので、TVerで第1話と第2話を追っかけ、今日も昨夜オンエアされた第3話を見ました。
 1986年(昭和61年)のガサツな中年男、小川(阿部サダヲ)がタイム・トラベルで当時と2024年を往き来し、令和のシークエンスでは昭和的な古い価値観と言動で周囲の人たちを引っかき回します。さらにもうひと組、令和から昭和へタイム・トラベルしてきた母子(吉田羊、坂元愛登)も加えて、物語は両者を交錯させて展開していくようです。

 ファンタジック・コメディーとして楽しいし、途中で挿まれるミュージカル場面がしつこかったりするけれど、その工夫は押しが強くて面白いです。
 このドラマがファンタジックに見えるのはタイム・トラベルを扱っているからだけではなく、過去(昭和)と現在(令和)の描写がそれぞれの時代性をことさらコミカルに強調しているからです。
 昨今よく槍玉にあげられる昭和のデリカシーの欠如やマナーの悪さは、当時はボ~ッと鈍感に共有されて蔓延していたものでした。同じようなことは令和のコンプライアンスにも言えて、実生活ではSNS上の議論よりも控えめに意識されていると思います。
 そこをコミカルに強調している、という意味での「ファンタジー」です。昭和のリアリティと令和のリアリティを正確に求めると当てがはずれるけれど、細部のチグハグさを超えた物語の推進力があります。「昭和はよかった」「令和のほうがいい」というレベルに留まらず、過去と現在それぞれへの疑問や反省が目線に含まれているのも、今のところ好ましい。その目線の軸が昭和側に偏っていて、令和の社会が滑稽に風刺されすぎている気はしますが、同時にそれが今後どういうバランスで展開されるのか興味深いところでもあります。

 でも私の友人が「時代考証が変」と困惑する理由もわかるのです。たしかに1986年の描写には違和感をおぼえる箇所をいくつか指摘できます。当時を体験しているクドカンがなぜこのような脚本を書いたのか、第3回までを見たかぎりでは腑に落ちません。
 今回の記事では、このドラマの面白さを認めたうえで、現時点での私の違和感を詳らかにしたいと思います。と言っても、それを基に批判する気はありません。楽しんで見ているけど、私の体験から来る解像度がディテールのおかしな点を視界に入れてしまうんです。もしかしたら全話終了すると納得がいく作りなのかもしれないし、違和感も含めて「興味深い」作品だということです。

 1986年に私は大学に入ったばかりの18歳でした。宮藤官九郎よりも2歳上ですが同世代です。ほとんど大差はなかったのだろうけど、たとえば1986年の高校生たちがBOOWYに騒いでいた熱狂を私はまったく経験していません。ですが、このドラマで河合優美が大好演している17歳の純子が、仮に氷室京介のファンという設定であれば、この年の2月1日に「わがままジュリエット」のシングルがリリースされているので、それもアリだなと割り切れるでしょう。
 ところが純子の部屋に貼ってあるのは近藤真彦のポスターであり、彼女が憧れる年上の不良男子はマッチならぬムッチ先輩と呼ばれています。純子や仲間の女の子たちは1980年から1982年くらいのツッパリ女子を彷彿とさせます。いったい何年の話なのか?と私は軽い混乱に見舞われました。
 阿部サダヲ演じる小川は純子の父親で、中学の体育教師です。顧問を受け持つ野球部員には練習中に水を飲ませないし、女性の同僚にセクハラ発言をかまし、校内のみならず路線バスの後部シートでタバコをプカプカとふかします。このうち、運動部での鬼のシゴキと職員室での喫煙は普通のことだったし、教師の性的な冗談は多少の抑制を利かせつつも実際にありました。けれど路線バス内で喫煙する人なんて、私は1986年に見かけませんでした。それでやっぱり、何年の話なのか?と言いたくなるわけです。

 繰り返しますが、これらの事をもって本作を批判したいのではありません。ひょっとすると現代の視聴者に、まずは雑な図式を提示することで安心させながら本題に導く方法かもしれない。
 また、本作には令和の監視社会的で他罰的な空気に物申したい意図が見受けられ、現代をカリカチュアする描写(前述したように、そこはかなり滑稽ですが)と釣り合いを取るために、過去の描写にも同等の重りを載せたと考えられます。その昭和のガサツで厄介な重り(主人公)が寅さん的な活躍を見せつつも、タイム・トラベルを繰り返すうちに、彼の内面が少しずつ令和の感覚に通ずる自問自答を垣間見せるグラデーションも秀逸だと思います。
 彼が昭和61年(1986年)の中年男だというプロフィールも、なかなか巧妙です。これが当時の若者だったら、ここまで傍若無人なキャラクターにはならないと思います。

 彼は1936年生まれで、1986年には50歳。彼のように戦中戦後をサヴァイヴしてきた人たちは、2024年どころか、1980年代の若者にとっても鬱陶しいまでに逞しく、ちょっとやそっとでは組み伏せられない相手でした。現在、昭和40年代生まれの私が老害視されて戸惑うのは、もっと強力な旧弊の体現者たちと学校や社会や家庭で対面してきたからでもあります。彼らに比べると私たちは緩いし弱い。もし本作の主人公が1986年の若者ならば、そうした脆弱さの芽がキャラクター造形にも反映されるはずです。

 1980年代の中盤ごろから使われ出した言葉に「新人類」があります。それが年間の流行語大賞を受賞したのは、まさに1986年度でした。いつの時代にも新しい感性を持っていると見なされる層はいます。「新人類」は1990年代に入ると聞かなくなっていったので、1980年代後半に限定された呼称です。
 音楽や映画や演劇、漫画やアニメ、文学や美術の分野での、新しい担い手を括る言葉でしたが、やがてある種の若者の行動や物の感じ方を半ば嘆いたり揶揄するニュアンスで使われるようになりました。たとえば「会社の付き合いよりも私生活を優先する」「義理人情に流されず、個人主義的な判断を好む」「政治への関心が薄い」「熱血でもシラケでもなくドライ」と、すべての若者を形容する呼称ではなかったとはいえ、大人たちには扱いにくい存在だったようです。今あげた傾向はZ世代にも当てはまりますが、大きな違いは新人類がバブル景気に向かう社会に安心しきっていたことです。

 『不適切にもほどがある!』の第3話までを見ていて、1986年の描写にバブル色が見当たらないのは流石です。あの異常な好景気を庶民が実感できたのは、もう2年ほど後でした。
 しかし1986年の中年男──当時の50歳は初老でしたが──ならば、2024年にタイム・トラベルするまでもなく、景気より先に若者の気質や世の中が変わっていくのを肌で感じていたのではないでしょうか。学校の教師なら尚更です。その変化はデオドラント化でもありました。
 1990年4月に『別冊宝島』の一冊として発行された『80年代の正体!』に、呉智英が「わたせせいぞう化社会の爽やかな頽廃」という文を寄稿しています。『モーニング』誌で1983年に連載が開始された『ハートカクテル』を筆頭に、朝シャン(1987年の流行語大賞となった言葉です)や便座除菌クリーナーといったデオドラント市場の盛り上がりなど、”80年代の正体”のひとつに体臭や生活感の排除があった、と論を進める文です。今読み返して注目できるのは、消費社会の繁栄が大衆にスターと同じファッションを手に入れさせ、体臭や生活感を匂わせない存在という幻想に近づける気にさせたこと、そしてそれが新興宗教的な思想や超能力への傾倒を呼び込みやすくするのではないか、という論点です。

 そこまでスケールを大きく取らなくとも言えるのは、1986年はガサツな昭和のサンプルになりにくいということです。
 たしかに地上波の深夜のバラエティ番組ではアダルト・ビデオの映像がオンエアされていたし、先生は職員室でタバコをくゆらせながらテストを採点し、大学のキャンパスでは教室の前の廊下に灰皿が置かれていました(生徒がタバコを吸って次の授業を待つ)。現在それらがガサツで非常識だと言われても仕方ありません。
 が、1986年は新人類とデオドラント化の時期でもあったのです。この年の5月に『MEN'S NON-NO』が創刊されたのも、男子の外見のアピールに爽やかさと清潔感が定着した例と言えそうです。半期に一度のバーゲンでDCブランドの服を求める男の子の行列がニュースで特集されだしたのも、この頃から。
 ガサツさへの免疫がついている一方で、いわゆる「昭和」のオトコ象よりも軟弱で甘くユルユルになっていったのでした。プラス、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』みたいな退屈感。もちろんツッパリというかヤンキーは相変わらずいたけど、全体としてはクラゲのように浮遊する若者にも未来が漠然と明るかった印象を持っています。もう一回書きますと、ガサツな昭和のサンプルにはなり得ないんです。

 なぜそんな時代をクドカンが「昭和」に設定したのか、私にはわかりません。1984年にすれば2024年と40年の前後でキリがいいし、それならまだムッチ先輩も近藤真彦のポスターも説得力があります。ついでに言うと、劇中で小川先生が頻繁に発する「チョメチョメ!」も1986年だったら「ニャンニャン!」でしょう。
 こうした時代考証の誤差に何か意図するものがあるんじゃないかと気になります。だって、やけに1980年代の前半を指す矢印だらけです。なにかを企んでいるのか。それともなにも考えていないのか(その可能性がなきにしもあらず・・・)。
 もうひとつ、私が気になるのは仲里依紗が演じるシングル・マザーの犬島渚です。彼女はたぶん平成の初めに生まれた設定で、働きながら赤ちゃんを育てるうえで、ルールと内実が合っていない令和の職場環境に手こずらされます。平成生まれとはいえ、昭和の社会のメンタリティーに一部でも染まってきたであろう彼女が、昭和から来たガサツな男と令和を神経過敏に生きる人たちの間でどう変わっていくのか。私が期待しているのはそこでして、このドラマは平成生まれの視聴者のジレンマに訴えかけるメッセージを内包しているはずです。だったら、この記事で書いたような事柄は深く考慮されないかなと思います。いずれにせよ、興味深いという意味で面白いドラマですが。
 あと、遺影や昔のビデオで登場する蛙亭イワクラの笑顔がいいですね。一瞬映るだけでドラマの温度を心地よい目盛りに調整してくれて、じつは個人的に毎回の見どころです。