The Smiths/ The World Won't Listen (1987) | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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 これは前にも書いたことのあるエピソードです。
 私が自分の老眼を悟ったのは、43歳だった2011年の秋でした。ザ・スミスのアルバムが8枚入ったボックス(輸入盤)を買って、収められていた紙ジャケを眺めている時だったんです。目を細めないと文字が読めないことに気がつきました。43歳で老いを自覚するとは思っていなかったので愕然とし、スミスというバンドは私の人生にまだこんな事をしやがるのか、と苦笑しました。
 そのボックスのパッケージを飾っていたのが『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』の裏ジャケットでした。1987年の2月にリリースされた、シングル・コレクションのコンピレーション盤です。イギリスのフェアグラウンドで生意気そうに腕を組んでいる女の子と、その友達グループが写っています。
 他のスミスのアルバム・ジャケットに用いられた写真より再使用料が安かったのか。詳しい事情は知りませんが、『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』がスミスのボックスの顔となっているのは、ちょっとした驚きでした。

 「どうせ世間のやつらは聴かないだろう」というそのタイトルを1987年に目にしたとき、「動物の肉を食うのは殺人と変わらん」「女王なんか死んでるよ」などの過去のタイトルと比べて、強引で無茶な態度が後退した印象を受けました。スミスはウジウジした心情を歌うバンドではあっても、アルバムの題名には無茶を通した言葉を名づける流儀だったからです。
 そのスネかたに、スミスらしいようでスミスらしからぬ切れ味の鈍さを感じました。「世間のやつらは聴かない」と言っても、前作にあたる『ザ・クイーン・イズ・デッド』はイギリスのチャートで2位。当時から批評家の評価が高く、今でもスミスの最高傑作と呼ばれています。
 空回りにも似た空気がスミスの周りに漂うのを覚えた、1987年の序盤でした。

 私にとってスミスのアルバムは、若き日についた傷のカサブタみたいなところがあります。いろいろと青春時代を思い出して、心が痛痒くなったりするのです。
 その点、この『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』はまだ気軽に向き合えるアルバムです。1985年以降に発表されたシングルを集めた内容は、構成の推進力に程よい緩さがあって、コンピレーションでは前作にあたる『ハットフル・オヴ・ホロウ』のヒリヒリした切迫感は薄め。PanicからAskと続くオープニング2連発の(歌詞の内容とは裏腹な)明るい曲調が効果的で、それがパンキッシュなLondonへと続く展開もアッパーです。中にはHalf A Personのように尋常でいられない気分にさせる局面もありますが、全体的にはロック・バンドとしてのスミスを過不足なく楽しめるアルバムです。
 曲ごとに仕込まれた毒も全く弱っていません。もしこれが初めて聴くスミスのアルバムだったら、やっぱり、性格が急カーヴを描いて曲がっていく自分を実感したことでしょう。

 アメリカでは本作の代わりに、同国で発売されていなかった旧シングルも含めた『ラウダー・ザン・ボム(Louder Than Bombs)』という2枚組のコンピレーションがリリースされました(好評を受けて、イギリスでも発売されたようです)。
 私は当時『ラウダー・ザン・ボム』のことを、アメリカ向けにガタイを大きくした寄せ集めじゃないか、と嫌っていました。「あのオレンジが」とか言って見下していたのですが、じつはそちらも優れた編集盤です。いや、コンピレーションとしての充実ぶりは『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』を上回ってもいます。ていうか、『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』も寄せ集めではあったのです。
 この2種の違いは何かというと、『ラウダー・ザン・ボム』はイギリス本国内ほどアメリカで知られていなかったスミスを紹介する役目を担っており、イギリス発の『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』はインディー・ロック・ファンにおなじみのスミスの、旧作からの時間軸に連なる形で発表されたことです。『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』は、1985年から1987年初頭までのスミスを捉えた近作シングル集でした。私なんかはスミスの全シングルを買っていたわけではなかったので──そういうファンは少なからずいたと思います──『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』を新作に接する気持ちで聴きました。

 『ザ・クイーン・イズ・デッド』がリリースされる前後から『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』までの間、ベースのアンディ・ルークのドラッグ使用をめぐる解雇と復帰、ジョニー・マーのストレスから来るアルコールへの耽溺、ラフ・トレードとの契約問題など、スミスは順風満帆と言えない時期にありました。
 しかし日本にいると、そうした情報は半月もしくは1ヶ月以上も遅れて届いていたし、なにより『ザ・クイーン・イズ・デッド』が(個人的には『ミート・イズ・マーダー』のほうに思い入れを持っていますが)完成度の高いアルバムだったので、私はスミスが具体的な解散に向かっているとは予想していませんでした。
 ただ、『ザ・クイーン・イズ・デッド』はスミスのロックが頂点に達したことを確信させるとともに、このあと彼らはどうするのだろう?と考えさせる面もありました。あのアルバムは、ファーストの『ザ・スミス』よりもセカンドの『ミート・イズ・マーダー』よりも、そして最初のコンピレーションにして超重要な『ハットフル・オヴ・ホロウ』よりも、スミスの個性をわかりやすく開いてみせてます。それによってユニークさやエッジが減ったわけでは全然ないのだけど、とくにモリッシーの歌詞が手慣れた名人芸の域に寄っていくような危惧も私は少し覚えていました。
 今にして思うと、アルバム・タイトルのセンスに私が感じた疑問も、根元はそこにあったのでしょう。

 と、回想がネガティヴな色を帯びてきましたが、『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』は最後のスタジオ盤である『ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム』の手前に位置しつつも、『ザ・クイーン・イズ・デッド』で極めたスミス独自のサウンドから終幕への流れにおいては、ちょっとした休憩所のような安心感をもたらす作品でした。ディスコグラフィー上、ほかのアルバムとの密接度が『ハットフル・オヴ・ホロウ』より低いぶん、ある時期のスミスのシングル集として落ち着いて受け止められるのです。
 たとえば『ザ・クイーン・イズ・デッド』の代表曲ともいえるBig Mouth Strikes AgainやThe Boy With The Thorn In His Sideが、先行シングルに選ばれただけある曲単体の魅力を迸らせます。
 当時イギリスではシングル・カットされなかったけれど(1992年にシングル化)本作に収録されたThere Is A Light That Never Goes Outは、これも純粋に曲のよさを主張しています。ロカビリー・タッチのShakespeare's Sisterも絶好調。
 また、この年にブライアン・フェリーが曲名をThe Right Stuffにして、アレンジも大幅に変えて歌詞をつけ、ジョニー・マーのギターを擁して発表したインストのMoney Changes Everythingにしても、『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』内で他の収録曲と同居することで輪郭が定まっていると思います。

 そんななか、Big Mouth Strikes AgainのB面だったUnloveableと、同様にShoplifters Of The World UniteのB面だったHalf A Personが本作の2大ウジウジ曲として挙げられます。
 Unloveableは「ぼくなんか他人から愛されるわけがない」と自嘲する曲です。『ザ・クイーン・イズ・デッド』で確立されたスミス節の枠内にあって安定しているのですが、厳しく言うと、彼らの自嘲ソングの型をなぞっている感もあります。
 いっぽうでHalf A Personは彼らのベスト・ワークのひとつに数え得る曲です。みじめさが思春期特有の嘆きを超えて人間の本質にまで迫り、何歳になって聴いても心を乱されます。
 今もって、この歌のシチュエーションには判然としない箇所があります。歌の主人公の性別その他も曖昧なのだけど、「どうせ私は陰気で目立たない人間」「6年間、あなたのあとを追い続けてきました」は、おそらくスミス・ファンの心情を代弁しているのでしょう。
 「私の人生なんて、5秒もあれば語れます。16歳で、なにも出来なくて、シャイで」の自己憐憫が、メジャー・セヴンスやシックスを用いたコード感の残酷なまでの美しさを得て、ロック的な正当性以外の何物でもない輝きを発します。スミスのシングル盤を追いきれていなかった私には『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』の宝物でした。

 このUnloveableとHalf A Personの2曲は、これまた内向的なAsleepとStrech Out And Waitという2曲に挿まれて収録されており、このパートは『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』の深部でしょう。まあ、そこを深部と呼べるほどの奥行きを持ったアルバムでもないのですが、本作でいちばんスミスを聴いている気分に浸れるパートです。
 20年ほど前だったか、昔スミスに夢中だった同世代のアメリカ人と話すと、Half A Personにどれほど胸をえぐられたかで意見が一致しました。英語圏の人にも、あの曲の主人公の性別や性的マイノリティなのかどうかは明確でないし、それは問題ではないと語っていました。そんなことよりも、Half A Personという曲が十代の自分に届いたことが全てだったのだと。
 そしてこんなことも言ってました。「かつてスミスに夢中だった人は、そのことを誰彼かまわず話したがらない。他人に見せたくない部屋のようなものだ」。

 私もそれに共感したのですが、その会話から20年もたった今、そうやってオールド・ファンがスミスを自分の青春時代の思い出に囲い込んでしまうのもどうかと思います。
 なにせインターネットもSNSもなかった頃の話です。スミスへの想いをシェアするには不便な時代だったし、であるがゆえに、スミスの歌詞を読みこんだり、ギターを変則チューニングで弾いてみたり、本作にも入っているAskを聴いて「このフレージングはハイライフって音楽から来ているのか」と好奇心を抱いたり、画質の悪いブートレッグのビデオに手を出したり、そういうことに一人で没頭する熱も高かったのです。
 しかしもう、今の若者はそんな時代を生きていません。そしてスミスの音楽には、今の若者の何割かになら刺さるはずのロックのエッセンスが備わっています。もし彼らにスミスを紹介するとしたら、私が「あのオレンジ」と見下したことのある『ラウダー・ザン・ボム』もいいし、解散後に出たベスト盤も優れた内容だし、もちろん初手からオリジナル・アルバムを聴いてほしいけれど、意外とこの『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』もお薦めです。
 スミスのディスコグラフィーでは副読本みたいな表情をしていますが、その表情はまぎれもなく1987年、バンドが存在していた時のものです。チェルノブイリ危機を歌ったPanicが恰好のファンファーレとなってオープニングで迎え入れてくれるでしょう。