私選:「えっへん、1984」な10枚 | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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 2024年が明けて、2014年から10年目だということに驚き、2004年から20年たったことが信じられないし、1994年から30年たったことにも感慨がわくのですが、1984年から40年という歳月が流れたことには年貢の納め時に近い何かを感じてしまいます。
 グリコ・森永事件があった年から、そんなにたつとは。高校の放課後、教室に友達とダラダラ残って、事件はおもに淀川の周辺で起きているやないか、と犯人の土地勘を推理しあったこととか、はっきりと記憶してます。その横の机で、ポカリスエットとアクエリアスのどっちが好きかを議論している連中がいたことも。
 そういえば1984年の正月に、父が新しいカレンダーをめくって、「東京オリンピックから20年もたったのか・・・」と呟いていました。父も生きていれば今年は「60年も」と言えたものを、人生そう上手くは行かないものです。息子がその後を継いでいるわけですが、「東京オリンピックから20年」の正月から40年も過ぎました。

 2024年最初のブログ更新です。あけましておめでとうございます。
 と言いたいところ、あんまりめでたい気分でいられる正月ではないですね。まあ、昭和が終わる頃から正月気分は徐々に減っていきましたが、今年はよりによって元日に日本海側で地震が発生しました。関西に住んでいるので被災はしなかったけれど、避難を呼びかけるテレビのアナウンスに緊張し、被災した土地の様子に心を痛めております。かといって私に出来るのは、明日は我が身と気を引き締めて備えることと、信頼できる窓口が設けられたら被災地への募金に協力することぐらいです。なので通常どおりに記事を書きます。

 この地震がなかったら、大晦日の『紅白歌合戦』の楽しい余韻を保ったまま書き進められたはずでした。
 紅組の勝利が大いに頷ける、女性陣の活躍に胸のすく『紅白』でした。Adoは顔を見せるとか見せないとかが問題にならない圧巻の歌唱だったし、あのちゃんは昨年の躍進を集約した堂々たるパフォーマンス。LE SSERAFIMもすごくキリッとしていたし、MISAMOもNiziUも良かった。NewJeansは今後も幅広い年齢層を魅了してゆくでしょう。そしてYOASOBIの出番で何組もの若いグループのエネルギーが交錯する高揚感には胸が熱くなりました。
 役者が揃った感。べつに日本の『紅白』がその最高の檜舞台だとは捉えていませんが、この若いアーティストたちを、これから先も見てみたいと思いました。なんだ、2023年も悪いことばかりではなかったじゃないか、と考え直したほどです。
 
 役者が揃ったといえば、じつは高校2年生だった1984年のポップ・ミュージック・シーンもそういう感じがしたんです。
 ただし、ここでトピックとするのは当時のインディー・ロックではありません。ザ・スミスがデビューした1984年は、イギリスでニューウェイヴ後期の優れたアルバムが発表され、アメリカでも約5年後にオルタナティヴとして結実する動きが地味ながら形成されていました。でも今回の記事では、そうした知る人ぞ知る事柄は扱いません。それよりも、当時の高校生で知らない人がいなかったに等しいヒット・アルバムの話をします。

 1984年。クラスメイトがデュラン・デュランのLPを誰かに頼まれてダビングし、学校に持ってきたテープを見て私は「おっ、新製品や!」と反応しました。ラベルが黄金色にキラキラと輝いています。まるで音の出る金屏風です。ここからThe Reflexのシンセが飛び出してきたら、さぞかしゴージャスだろうと思いました。周りにいた他のクラスメイトもラベルを覗き込みます。
 その年にマクセルが世に送り出し、ワム!の二人がCMに起用されて「えっへん、ハイポジション」のキャッチ・コピーで宣伝されることになるカセット・テープ、UDIIでした。その金色のラベルが反射する光の中に1984年の私たちがいたのです。そしてそんな私たちがレンタルで借りてきたり、友達にLPを貸してもらったりして、テープにダビングしたのは次のような10枚でした。

マドンナ『ライク・ア・ヴァージン』
デュラン・デュラン『アリーナ』
ワム!『メイク・イット・ビッグ』
カルチャー・クラブ『ハウス・オン・ファイアー』
ブライアン・アダムス『レックレス』
ブルース・スプリングスティーン『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』
ヴァン・ヘイレン『1984』
プリンス&ザ・レヴォリューション『パープル・レイン』
フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド『プレジャードーム』
カーズ『ハートビート・シティ』

 これでも足りないくらいです。NENAとかを入れたらリストは倍に膨らみます。スタイル・カウンシルの『カフェ・ブリュ』やU2の『焔』などもここに加えたいのですが、当時のマドンナやプリンスと比べるとメジャー度が下がるので選外としました。
 そう、ここに挙げた10枚はメジャーもメジャー、ベタ中のベタ。1984年の若者だったら、誰でもアルバム中の1曲は耳にしたことがあるヒット作です。まさに「えっへん」と胸を張ってメインストリームを闊歩していた10枚。
 この中で、ヴァン・ヘイレンの『1984』は同年1月9日にアメリカでリリースされており、マドンナの『ライク・ア・ヴァージン』は11月12日発売です。だから1984年の浸透期間はヴァン・ヘイレンのほうが長いのです。でもマドンナはシングルのLike A Virginをアルバムに先駆けて10月31日にリリースし、すぐにヒットさせました。そこからの認知度は『1984』以上に爆発的で、年末から翌年にかけたアルバムの初動は日本でも好調でした。翌1985年にマドンナは最新のポップ・スターとして旋風を巻き起こしましたが、1984年末の段階でLike A Virginのビデオはほとんどのクラスメイトが知っていました。

 デュラン・デュランの『アリーナ』とカルチャー・クラブの『ハウス・オン・ファイアー』は、それぞれの最高傑作には選ばれにくいアルバムです。エイティーズ・ポップの金字塔であるワム!の『メイク・イット・ビッグ』と比べても、ちょっと影が薄い。
 『アリーナ』はバンドの最盛期を伝えるライヴ盤ではあるけれど、彼らの本領ではありません。『ハウス・オン・ファイアー』は音のアプローチの引き出しが増えるも、問答無用のキャッチーな魅力は後退しています(個人的には好き)。しかし、どちらのバンドも相変わらず人気が高く、新譜が出ると飛びついたファンが多かったのでした。
 あとの8枚は、どれも各々が時代の音と向き合った収穫だと言えます。ま、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドはいかにもな一発屋でしたが、そのリミックス・ワークの鮮烈さと商魂が生み出した旬の勢いは、少なくともNENAと一緒にはできないでしょう。

 リストをざっと眺めて、カーズがやや異色という気がします。それはカーズがアメリカのニューウェイヴ・シーンから登場したからでもあり、この『ハートビート・シティ』の大ヒットがニューウェイヴにおけるサウンドの潮流を彼らなりに追求し、積み重ねてきた結果でもあるからだと思います。たとえばスプリングスティーンが『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』を成功させたのとは向き合い方が違います。
 ただし、チャレンジの大きさとその成果という点ではスプリングスティーンには及びません。カーズの『ハートビート・シティ』には角が取れた印象も受けます。もっとも、それは今聴いて感じることであって、1984年には『ベスト・ヒットUSA』で頻繁に流れたビデオの映像とともに彼らのヒット曲のポップなカッコよさは充分に刺激的でした。

 私と同世代には、この時期に洋楽のヒット曲を浴びるように聴いていた人が多いです。『ベストヒットUSA』やセーラ・ロウエルとマイケル富岡の『MTV』でビデオを見たり、『ミュージック・ライフ』やFM雑誌で情報を得たりして、英米のチャートに自然と親しんでいました。
 思春期に洋楽を空気のように摂取していたと言うと、若い人から不思議がられるのですが、それはマニアックな趣味ではありませんでした。その年頃に特有の背伸びはあったし、歌謡曲~ニューミュージックの次のステップが洋楽だったのも確かなんですけど、もっとカジュアルに無理なく楽しんでいた部分のほうが大きかったのです。休み時間に「ヴァン・ヘイレンのJumpが1位を獲った!」と話題にするヤツがいて、サイモン・ル・ボンの歌をマネているうちにシャックリを催すヤツもいて、爬虫類な顔立ちの友達をプリンスと呼んだりしていました。たいした深みはなく、むしろ浅くミーハーな興味。

 このミーハーなノリは1980年代初頭の洋楽に対しても生じていたのですが、その頃に話題となっていたのは1970年代にデビューしたミュージシャンたちでした。ジャーニー、REOスピードワゴン、フォリナー・・・私も大好きだった彼らは80年代に登場したのではありません。
 それが上記の10選を眺めると、70年代から活動していたのはスプリングスティーンとヴァン・ヘイレンとプリンス、それにカーズの4組で、ほかの6組は80年代組です。しかもプリンスとヴァン・ヘイレンとカーズは70年代も末期にデビューした3組で、とくにプリンスの本格的な快進撃は80年代に入ってから。
 マドンナ、デュラン・デュラン、ワム!、カルチャー・クラブは80年代の申し子みたいな人たちだし、フランキーは80年代でなければサウンドが成立していません。彼らが一堂に介したことから、1984年に「役者が揃った」印象を受けるのです。とりわけ1983年の『バーニング・アップ』が日本でもオリコン20位の成績を残していたマドンナが、1984年に『ライク・ア・ヴァージン』という決定打を放ったことで、この年のポップ・シーンの賑わいが一気に増したと思います。

 1月にヴァン・ヘイレンの『1984』が発売されて、11月にはマドンナの『ライク・ア・ヴァージン』。そういう年です。もう、めっちゃくちゃ派手。シンセがヒャラヒャラ、ドラムがドッパ~ン。あのボーイ・ジョージでさえも、一番目立ってはいませんでした。どんだけ派手だったんだよ、と言いたくなりますが、この空気がマクセルのUDIIにぴったりでした。
 日本はバブル景気の序盤にも入っていなかったとはいえ、それとは別口の安定感が社会を包んでいました。グリコ・森永事件にしても、荒んだ世相を反映していたというより、劇場型犯罪の呼び名にふさわしい注目を集めていたと思います。世の中全体が浮かれていたのです。それはバブルの時とは違った温度で、またポップ・カルチャーにも80年代初頭の新鮮さは薄れていたのですが、そのぶん浮かれモードの地盤が固まって爛熟を迎えた年でした。ここを過ぎると、夏に『ライヴ・エイド』が開催された1985年です。そしてあのイベントを境に、80年代前半を賑わしたミュージシャンたちの多くは退潮期に入ります(マドンナとプリンスは、いっそう凄くなっていきましたが)。
 80年代が80年代らしい表情を持っていた年として、私は1981年と1984年と1988年を挙げます。初頭のお祭り、中盤の爛熟、終盤のバブル(倦怠を含む)と、それぞれに意味合いは異なるけれど、だいたいこの3つの年を見ていくと80年代の諸相が把握できるのではないでしょうか。とりわけ1984年は完璧に80年代の顔をしていました。

 10選したアルバムで、私がもっとも思い入れを抱くのはブライアン・アダムスの『レックレス』です。この記事で書いたことには、1984年と80年代全体への私的な肯定も否定も混ざり合っているのですが、それらが凪ぐように素直で穏やかな感情へと戻れるのは、『レックレス』が自分の十代にもたらした活力と喜びが大きいからです。
 ほかの9枚のアルバムと同様に、『レックレス』にも1984年の「えっへん」な王道感が溢れています。それは風化することもあれば、再評価されることもあるでしょう。しかし私には、One Night Love Affairのホットなギター・リフが、Heavenのセンチメンタルなキーボードのフレーズが、あの時代がそこにあったことを今も証明してくれるのです。
 もうどこにもない1984年。40年も昔の1984年。だけどブライアン・アダムスの歯切れのいいピュアなロックは、当時の空気を運んできます。そして心の奥でUDIIのテープがキラキラと輝くのです。