70年代のエルヴィスに歌ってほしいボウイの10曲 | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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 デヴィッド・ボウイが晩年のエルヴィス・プレスリーから直々にアルバムのプロデュースを依頼されていた──
 カントリー界のスター、ドワイト・ヨーカムが披露したこの逸話が英米のネット・メディアで報じられたのは、ボウイの死から数週間たった頃でした。1997年にボウイと会ったヨーカムが、エルヴィスからの電話がボウイにあったことを打ち明けられたそうです。
 エルヴィスが亡くなったのは1977年8月19日。生前最後のアルバム『ムーディ・ブルー』は同じ年の7月にリリースされました。ボウイはアルバム『ヒーローズ』を10月に発表する少し前。デヴィッド・ボウイにエルヴィスから打診があったのもその前後でしょう。
 しかし、ヨーカムのこの証言はさほど話題にならなかったと思います。誰の言葉をどこまで鵜呑みにしていいものかわからないし、仮にエルヴィスがボウイに相談していたとしても、どの程度の真剣味があったのかは謎です。
 また、エルヴィスとボウイのそれぞれのファンがなかなか交わらないから、噂のレベルでも盛り上がらない。この両者のファンはあまり重ならないんですよ。

 じつはこの二人、誕生日が同じ1月8日なんです。1935年生まれのエルヴィスがボウイよりも12歳上で、ボウイが9歳の年にエルヴィスはHeartbreak Hotelをリリースしています。
 私は先にデヴィッド・ボウイのファンになり、何年かしてからエルヴィス・プレスリーの魅力にハマっていった者です。その後もグレイスランドやサン・スタジオを訪れたりしたし、1950年代のエルヴィスも1960年代も1970年代も、あの歌さえ聴けたら音楽的な傾向の違いは気にならないくらいにエルヴィスが好きです。
 そんな人間だからこそ痛感するのが、エルヴィスが知名度に比して聴かれていない状況の変わらなさです。1950年代のワイルドなロックンロールは一定の評価を受けているけれど、1960年代に主演した映画で使われた曲は大半が知られていないし、カントリー系の曲やライヴ盤の多い1970年代となると、よほど熱心なファンにしかちゃんと聴かれていないのではないかと疑いたくなります。

 わかるんですよ、なぜこういうことになったのか。1960年代と1970年代に、エルヴィスがロックの最前線にいなかったからです。
 1960年代の主演映画群で歌われた曲はどれも楽しめるし、1970年代のエルヴィスを充実したカントリー・ロックと捉えることは出来ます。
 けれど、ピンク・フロイドやクイーンやレッド・ツェッペリンやデヴィッド・ボウイを支持する若者の胸を熱くさせる類の音楽ではなかった。そうしたミュージシャンのファンの目にエルヴィスが保守的で時代遅れな存在に映ったとしても、それは致し方ないという意味で理解できます。
 さらに、1960年代の終盤から1970年代を通じて、雑誌などでロックについて書いていた人たちの大半がビートルズ世代で、彼らもエルヴィスに語り甲斐を見出せなかった。それどころではないくらいにスリリングな出来事が当時のロック・シーンでは次々と起こっていました。エルヴィスの没年となった1977年はロンドンやニューヨークでパンクの嵐が巻き起こった時期です。デヴィッド・ボウイの『ヒーローズ』もその動きを次の段階に推し進める先鋭的な名盤となりました。

 エルヴィスはシンガー=ソングライターでもなければアルバム・アーティストでもありませんでした。
 彼はシンガーだったんです。それも人類史上でトップ・クラスの上手いシンガー。とくに1950年代の歌唱にはリズム感に驚嘆すべき自在さがあります。もちろん、アーサー・クルーダップやビル・モンローを筆頭にお手本はいました。エルヴィスがロックンロールを作ったわけではありません。エルヴィスは人種の壁を超えて音楽を結びつけるビートを最初に狂おしく体現した人です。
 そのヴォーカルは徐々に、ハリウッドの歌謡映画に吸収されながらも洗練を身に着けていきます。私はKissin Cousins(邦題「いとこにキッス」)やViva Las Vegas(邦題「ラスベガス万才」)でのエルヴィスの歌に聴きほれずにおれません。
 問題は1970年代です。音楽界にカムバックして実りの多かった1、2年を過ぎると、洗練がオーヴァー・アクトを呼び込みます。私も1970年代のエルヴィスを好きになるには時間がかかりました。歌のスケールの大きさに馴染めなくて、「ディナー・ショーじゃねぇか」と何度も挫折しました。
 それがある日急に、良くなったんです。そこからこの時期のエルヴィスの歌に夢中になりました。

 1970年代のエルヴィスの歌にあるもの、それは豊かさと虚ろさです。なんでも歌えるヴォーカルの厚みと深さがあって、その不動のキングの座が激しく移り変わってゆく時代に関われないでいる虚ろさも拭えない。
 この二つを分けて受け止めるのではなく、威厳と寄る辺なさを同時に味わえるようになったとき、オーヴァー・アクト気味の歌をも愛おしく思えました。そうなるとバラードの数々にも噛みしめるような歌の表情が伝わってきます。
 この表情がわかると、1970年代のエルヴィスから離れられなくなります。私はこの時期のスタジオ録音を、1950年代のエルヴィスとは少し違ったニュアンスで、ブルー・アイド・ソウルのひとつとして味わうようになりました。エルヴィス=ロカビリー・シンガーのイメージにそぐわないかもしれませんが、隣にライチャス・ブラザーズを置くと伝わるかと思います。 

 さて。ああ、前置きだけで記事1回ぶんを費やしてしまいました。恐ろしいことに、ここからが本題です。
 晩年のエルヴィスがデヴィッド・ボウイに、結果としては実現しなかったニュー・アルバムのプロデュースを依頼した、この話が真実だったとしましょう。
 エルヴィスから電話を受けたボウイは喜びつつも困惑したでしょう。「え?オレ、ロバート・フリップとブライアン・イーノと一緒にやってるような人間なんだけど」と。
 エルヴィスはボウイに何を期待して何を望んでいたのか。それを想像してみたくて、以前当ブログの雑談コーナーで「妄想カヴァー大会『この歌をこんな歌手に歌ってほしい!』」と題して書いた企画(記事はこちら)に、今回はエルヴィスとボウイを当てはめてみました。
 ふてぶてしく粗野な若きエルヴィスではなく、声も体型も太ましい70年代エルヴィスがカヴァーしていたら似合っただろうボウイの曲を10選します。1983年の『レッツ・ダンス』までの代表曲から選んでいるので、読んでくださる方も想像しやすいでしょう。
 いちおう断っておきますが、この両者が同じだと言いたいのではないんです。だから、どっちのファンも気を悪くしないでください。意外と交錯する部分が多くて面白いし、それはエルヴィスとボウイにとどまらず、音楽というものの面白さでもあると思います。

Life On Mars?


 エルヴィスの若い頃のヴォーカルは高音が尖っていますが、グラム・ロック期のボウイも高音が目立ちます。エルヴィスの高音には奔放な活力が宿っており、甘くすねたような声の表情が若い性愛のエネルギー、ひいては黎明期のロックンロールのストレートな爆発力を思わせました。
 ボウイの高音はそれよりずっと屈折しています。その声で歌われる社会やファンタジーや哲学に、妖しさと猥雑さとインテリジェンスが混然となったアーティスティックな鋭さがあったのです。
 70年代のエルヴィスはそうしたセンスとは無縁です。このLife On Mars?も、きっと歌いだしから声をタメまくって、♪Sailors♪で腹の底からパワフルでダイナミックな歌を突き出すのでしょう。
 この曲はもともとMy Wayのフランク・シナトラのヴァージョンを下敷きにしているそうで、展開も意図的にメリハリを利かせてあるようです。エルヴィスもMy Wayを最晩年のレパートリーにしていました。
 Life On Mars?はタイトルを高音で振り絞る箇所が聴かせどころです。ボウイのそこには火星に届かない人間の無力さや儚さが響きます。エルヴィスは届きます。届いちゃうとLife On Mars?の儚さは目減りするのですが、70年代のエルヴィスの場合はそれが届いてしまうことに豊かさと虚しさが立ち現れるのです。
 ライヴでは、「映画はみじめなくらい退屈だ」の歌詞で、エルヴィスが自虐的な笑い声をハハハと漏らすでしょう。


Space Oddity


 宇宙飛行士の孤独と孤高。地球との接点を失い、無と一体化して攫われてゆく。
 ボウイの出世作であり、フォーク・ロック的な部分を残しつつもセンスはグラム・ロックの手前にあります。
 エルヴィスはフォークよりもカントリーとブルースに近く、1970年代はそこにR&Bの語法をマイルドに溶け込ませていました。Space Oddityのような曲は歌っていません。
 この曲をエルヴィスが歌ったら、サビの部分のドラマ性がボウイ以上に強調されるでしょう。それで曲のエッセンスが弱まるとも考えられます。
 いっぽうで、男性的な声の厚みを武器とする1970年代のエルヴィスが、無の世界から戻れなくなる宇宙飛行士を歌うことで、逞しさの裏に潜む人間の弱さが表現できる可能性も、アレンジ次第ではありそうです。
 まあ、いずれにせよ、私もちょっと想像が過ぎる。念のために再度書いておくと、これはすべて妄想ですからね。さすがに妄想を尺度にして良し悪しを云々しません。
 ただ、1970年代のエルヴィスの歌のスケールはとても広くて、Space Oddityはその広さや深さを的確に引き出すのではないかという気がするのです。歌い上げても薄れない声の張りの凄さで、宇宙を漂う至福と絶望の、表側は余すところなく万人に届くでしょう。裏側は──それはデヴィッド・ボウイのようなアーティストの役割だと思いますが、人間エルヴィスへの関心の度合いによっては、地球を見下ろす高みを泳ぐ宇宙飛行士のヘルメットの中に彼の顔がのぞいたりするかも。

 
Starman


 これも歌い上げが映えます。ボウイのアルバム『ジギー・スターダスト』の人気曲。
 私は「エルヴィスは生きている」とは思わないけれど、エルヴィスは宇宙人だったんじゃないかと信じたい気持ちがあります。生存説と大して変わりませんね。でも、1950年代のアメリカ南部の田舎に、あれほどリズムで歌える白人の兄ちゃんがいたのが不思議でしょうがないんです。スーパーマンのように、どこか他の惑星から地球に落ちて来たんじゃないのか。
 ということで、Starmanです。ある晩、ラジオ電波が乗っ取られて、それまで聞いたこともない音楽が流れてくる。火星からやって来たロック・スターのしわざです。
 面白いのは、この曲のサビの部分のメロディーがOver The Rainbowに似てるんですね。♪スタ~マ~ン♪は♪サ~ムウェ~♪と歌えます。
 グラム・ロックはシアトリカルな要素を含んでいたし、アーティストの外見も極端にショウアップされて歌舞いていました。
 1970年代のエルヴィスもけっこう歌舞いていたのですが、もともと動きの派手な人だったのが自然と発展した形でもあったし、歌がヘナヘナしていなかったのでグラム・ロックとは見なされません。
 でも、このStarmanはエルヴィスの歌唱が想像しやすい曲です。♪low-ow-ow♪や♪radio-oh-oh♪などの箇所はロカビリーで培った得意の呼吸でセクシーに歌うことでしょう。
 それがサビで一気に解放されてタイトルを歌い上げます。ボウイの歌い上げにはグラムならではの邪道な魅力がありますが、1970年代のエルヴィスはストレートの剛球勝負です。歌詞に描かれる異星人ロック・スターの中性的な妖しさからは遠くも、まさにそこにいる実在感が曲を埋め尽くします。それによってジギー・スターダストの存在の不確かさは後退するでしょうが、設定されたキャラクターの枠を壊して飛び出してくる歌の迫力は、エルヴィスの健在を強く印象づけるはずです。


Young Americans


 エルヴィスに歌ってほしいボウイの曲をあれこれと探していて、これだ!と膝をうったのがこのYoung Americansです。
 ボウイがグラム・ロックからフィリー・ソウルへと変身をとげたアルバム『ヤング・アメリカンズ』のタイトル曲ですが、歌唱の面ではエルヴィスがコンセプトに潜んでいるのではないでしょうか。ソウル・ミュージックとエルヴィス。まさに”アメリカンズ”な曲です。
 ブレスを多く取り入れたボウイのヴォーカルのノリは直接的と言っていいほどエルヴィスを彷彿とさせます。声を弱く細めて歌い流すところは、これ以前のボウイにも聞けましたが、ロカビリー時代のエルヴィスが得意としていたテクニックでもあります。♪All night♪の前の♪It took him minutes, took her nowhere♪のリズムの畳みかけもエルヴィスの歌を妄想できます。
 ボウイは歌の胸板がエルヴィスより薄めで、そこに性別不明な妖しさが醸し出されます。エルヴィスはそうではない。ボウイが声をかすれさせてフリーキーに歌う♪Break down and cry♪を、エルヴィスなら真っ向から肉厚なシャウトに変えるでしょう。
 この曲とFameはアメリカのラジオでも流れていただろうし、『ソウル・トレイン』にボウイが出演したりグラミー賞のプレゼンターを務めたりしたので、エルヴィスも知っていたと考えられます。ボウイにプロデュースを依頼したのだとしたら、その起点として考えられるのがFameとYoung Americansです。Young Americansでのニクソンを皮肉った歌詞にはエルヴィスは難色を示すでしょうが。


Modern Love


 前にブライアン・フェリーがエルヴィスから受けた影響のことを書いたのですが(記事はこちら)、ボウイの低音と高音の使い分けにもエルヴィスの残響がこだまします。
 Modern Loveがヒットした1983年にエルヴィスはこの世にはいませんでした。しかし、もしも80年代にエルヴィスが生きていたら、このビートや音響は試す意義があったのではないかと思います。ロックンロールからもカントリーからも遠いけれど、ゴスペル的なコール・アンド・レスポンスやR&Bの要素をもっと強調することが出来る曲です。
 オマー・ハキムの叩き出すドラムに乗って、ボウイとは対照的にモゴモゴと口ごもった低音で歌い出すエルヴィス。サビに来て、コーラスと張り合うように♪ハッ、don't believe in modern love!♪と不敵な太さのラインを放り込んでゆくエルヴィス。
 シンセの煌びやかなサウンドやギターのカッティングは若作りで似合いません。でも、その場違いなエイティーズ感は彼を綱渡りさせ、奇妙なスリルを生みます。ボウイに相談するからには、なにがしかの賭けに挑む気概があったはずです。ボウイのキャリアにおいても、この曲は相当な賭けだったのですから。『レッツ・ダンス』やその後のワールド・ツアーでのボウイが賛否両論を呼んだのは、1970年代のエルヴィスがどこかでイメージの先例として働いたのではないでしょうか。

 『レッツ・ダンス』のアルバムからもう一曲、Cat Peopleも候補だったのですが、あれはエルヴィスにハマりすぎ。あの曲でのボウイの低音はスコット・ウォーカーではなくエルヴィス寄りじゃないかと思います。そのぶん、エルヴィスがカヴァーしても面白味や意外性には欠けます。代わりに選んだのが、

"Heroes"


 はい、これです。デヴィッド・ボウイの、基準によっては最高傑作と言ってもいい名曲。
 エルヴィスはこの曲を収録したアルバム『ヒーローズ』が発売されるより前に亡くなっています。仮に聴くチャンスがあったとしても、この方向性に興味を持ったとは考えにくいです。前作『ロウ』はもっとエルヴィスから遠いし、やはり『ヤング・アメリカンズ』のアメリカでの成功が元祖ブルー・アイド・ソウル・マンであるエルヴィスのアンテナに引っ掛かったと想像するほうが妥当です。
 けれども、この"Heroes"の曲の骨格はR&Bなんですよね。オーティス・クレイのTrying To Live My Life Without Youなんかソックリです。あれはメンフィス・ソウルのハイ・サウンド。もしエルヴィスがもっと長生きして"Heroes"を耳にしていたら、口許に笑みを浮かべたかもしれない。ボウイは『ヤング・アメリカンズ』や『ステイション・トゥ・ステイション』でのソウル~ファンクの要素をベルリンにも持っていったんですね。
 ボウイのヴォーカルは切羽詰まった危急を伝えます。瀬戸際のところで夢見るロマンがこの名曲にはある。ブレスを伴った歌唱は崖っぷちに立っています。
 たぶん、エルヴィスだとそうはなりません。歌いだしから太く厚い低音で♪ア~イ♪。のっけから腹に力が入ります。「ぼくはキングになろう」と歌うエルヴィスにお客さんが歓声をあげる様子が見えるかのようです。
 でも、私はこの曲のエルヴィス・ヴァージョンを聴いてみたい。エルヴィスはキングの孤独もヒーローの空虚も知り尽くした男です。そんな彼が、たとえ最盛期ほどではないにせよ、それでも充分にパワフルでどっしりとした歌声で、ファンに向かってキングで在り続けることを誓う。痩身のボウイのヒリヒリとした皮膚感覚とは大きく異なります。しかし、エルヴィスにしか歌えない"Heroes"を思い描けます。


Sons Of The Silent Age


 これも『ヒーローズ』収録の、プログレッシヴとニューウェイヴが混ざり合って独特の切れ味を閃かせる曲です。
 エルヴィスはなんでも歌ってきたシンガーですが、こういうタッチの曲には接近していません。彼が音楽的なルーツに持っていたものとも異なるし、ファンにも歓迎はされないでしょう。だいいち、エルヴィスはニューウェイヴが本格的に花開く前に亡くなったのです。
 タイトルにある「沈黙の時代を生きる子供たち」が何を指しているのかは諸説があるようです。ナチの時代に言及しているとの解釈もあるけれど、時代を超えて普遍的に伝わってくるのは、依って立つ場所をなくして彷徨う若者の姿。

 そんなのエルヴィスに関係はない。いや、それはごもっとも。
 けれど、どうだろう。若者の文化に騒音をもたらした張本人のエルヴィスが、その20年後の1977年、沈黙の時代を生きる若者たちにこの曲を歌いかけるのも、アリなんじゃないか。
 気力をなくして漂ってるみたいなボウイの歌いだしを、おそらくエルヴィスなら構えた低音で重心たっぷりに始めます。まったく違うものになりそうです。
 この曲の必殺のフレーズであるコーラスの♪Baby, I'll never let you go♪や♪Let's find another way down♪の救済には、気力をなくしたぶんの疎外感や孤絶がこめられています。自らの痛みや傷をさらして手をさしのべているのです。
 エルヴィスが本気でボウイにプロデュースを頼んだのだとしたら、彼にも別の道を求めて♪Let's find another way down♪と探す心の動きはあったはずです。


Fantastic Voyage


 ボウイのアルバム『ロジャー』のオープニングを飾った曲です。
 ゆったりと進みだした船の旅を思わせる曲調で、ボウイの歌唱も奇妙なまでにリラックスしています。『ロジャー』の収録曲は、『ジギー・スターダスト』の頃に戻ったようにリリカルなメロディーが多く、歌詞もこのFantastic Voyageは一字一句を丁寧に説明した叙述調。「世界は変わり続けるものだが、だからといってミサイルを撃っていい理由にはならない」とか、ボウイにしては文学的な晦渋さも少ない。
 それだけに、歌い手の根本的な表現の力が必要になる難曲でもあります。サビの盛り上がりが気持ちいいいからと、素人がカラオケ気分で歌うとケガする曲。
 ある種の単調さを意図的ににじませた作りにもなっていて、ボウイはそこにユーモラスな味を忍ばせているような、ないような、とにかくシンプルなのに掴みどころがハッキリしなくて、クセになります。
 私はエルヴィスによる”ボウイ・カヴァー”アルバムがあったとしたら、これが1曲目に来てほしい。エルヴィスの歌の確かな足どりで♪In the event♪とスタートして、徐々にボウイの曲の核へと近づいていくんです。♪We're learning to live with somebody's depression♪を軽く喉を震わせ、和みを感じたところに、あの大海が開けるようなサビが訪れる。空から降ってくる光のスコールみたいなエルヴィスの歌声に、タイトルの「素晴らしき航海」を実感できます。
 笑っちゃうほどゴージャスなコンサートの世界同時中継で観たい。今、頭の中で想像してみたんですが、たまんねぇな。


Teenage Wildlife


 1980年のアルバム『スケアリー・モンスターズ』に収録された曲です。このアルバムはニューウェイヴをボウイ流にポップに展開した内容で、もっとも人気のある曲はAshes To Ashesです。
 ニューウェイヴではバウハウスやゲイリー・ニューマンといったボウイのフォロワーが人気を得て、もうちょっと後にはニュー・ロマンティックのブームがやって来ます。この曲ではそういう新興勢力と自分との間に線を引き、「ねぇデヴィッド、玄関先に誰かいるんだけど、どうしたらいい?」などと頼ってくる若者にウンザリして、「知るかよ。俺はもう十代の野生動物じゃないんだ」と突き離しています。この3年後に『レッツ・ダンス』を発表したことを考えると興味深いです。
 これは若くして注目を集めたアーティストなら誰でも思い当たることではないでしょうか。エルヴィス・プレスリーから平手友梨奈にいたるまで、ファンやメディアやマネージメントになんだかんだと騒がれて、自分が見えなくなったり消耗したりするアーティストは少なくないと思います。とくにロックではこの問題は根深い。
 そういった意味でも、1970年代末のエルヴィスが歌うと只ならぬ説得力を持って響きそうな曲です。まあ、その時期にエルヴィスをティーンエイジ・ワイルドライフと見る目線はほとんどなかったと思われますが、彼はそれを最初に経験した人ですからね。ボウイがプロデュースするとなったら、エルヴィスの取り巻き連中がどう反応するだろうか、彼らにボウイがどう対峙するのか、などと要らんことにまで気をつかってしまう私がいる。
 先に"Heroes"で書いた「キングで在り続けることを誓う」力強さとは正反対の批評性が、ここでは前に出るでしょう。どっちも大切なことだと思います。そもそも、このTeenage Wildlife自体が"Heroes"の変奏曲みたいな作りなのですから。

 
Rock'n'Roll Suicide


 ロッカ・バラードなんですよねぇ。こういう企画があったとして、これを聴かずに終われません。彼がボウイに注目したのは意外とこの曲だったりして。
 『ジギー・スターダスト』の収録曲の大半はエルヴィスに合います。なにせアルバムのコンセプトがロック・スターの興亡です。曲のほうのZiggy Stardustもエルヴィスが歌っているステージ・アクションが目に浮かびます。白いジャンプスーツもグラム・ロック的。初期のブライアン・フェリーの髪型もエルヴィスをリ・メイク/リ・モデルしてました。
 今回の記事を書くにあたって、真っ先に思いついたのがこのRock'n'Roll Suicideでした。「ロックンロール自殺」というタイトルはエルヴィスの死因を表すものではありませんが、比喩としては通じてしまいます。そこに躊躇して、選から外そうかと考えもしました。
 しかしデヴィッド・ボウイとエルヴィス・プレスリーを音楽的に結びつける何かに想像をめぐらせていると、これは避けて通れません。この曲の抑えた歌いだしやドラマティックな展開やエンディングは、エルヴィスが歌うことで意義のあるカヴァーになり得たのではないか。
 エルヴィスだったらボウイ以上にもっとスムーズなリズムのノリで歌うでしょう。ボウイは歌詞の意味をもって曲のあちらこちらにトゲを立てています。エルヴィスはロッカ・バラードの形式に対してストレートに、エンディングに向かって熱を高めていくでしょう。
 それでいいんだと思います。デヴィッド・ボウイにデヴィッド・ボウイの表現があるように、エルヴィス・プレスリーにはエルヴィス・プレスリーの表現がある。それは役割と言ってもいい。どの方法を取っても、この曲の奥底でリスナーを待っているのは♪Oh no, love, you're not alone♪のメッセージです。ボウイは聴く者を病ませ、感情を軋ませながらその言葉に導きます。エルヴィスはきっと、ゴスペル・ルーツの大きな力で包み込むはずです。ボウイの放つ♪You're wonderful!♪の絶唱はロック・ファンの胸に突き刺さりますが、エルヴィスがシャウトするその言葉はロックを知らない人の心を万遍なく揺さぶるでしょう。
 どっちが優れているという話ではありません。どちらも素晴らしい。この長ったらしい妄想記事で私が言いたかったのはそういうことです。

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