ロキシー・ミュージックとブライアン・フェリーの全アルバム その4(1999~2018) | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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(その3はこちら
 
 私が区分するブライアン・フェリーの”アヴァロネスク”期が終わってから、今日にいたるまでには25年の開きがあります。これをひとつの記事でまとめるのは無理があるのですが、これ以上長くつきあっていただくのも気がひけるので、この章をもって「ロキシー・ミュージックとブライアン・フェリーの全アルバム」を終わりとします。近年のアルバムに関しては私も聴きこみに心許ないところがあって、この章は今までよりも駆け足で行きます。
 
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ブライアン・フェリー『時の過ぎゆくままに』(原題 As Time Goes By)1999年10月
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 ポスト・アヴァロネスク期のフェリーには、まずルーツと自己確認があったように思います。アヴァロネスク期が明けたあと、フェリーが向かったのはジャズ/スタンダード曲のカヴァー・アルバムでした。
 フェリーは1945年生まれなので、十代の初めにデビュー時のエルヴィス・プレスリーをイギリスで知ったことになります。おそらく、それまではラジオから流れてくる1940年代かそれより昔のヒット曲にも親しんでいたことでしょう。この世代の英米のロック・ミュージシャンはロックンロール以前の音楽にも愛情を持っているうえに、人は歳をとるにつれて、子供の頃には何の気なしに聞き流していた懐メロの佳さに気づいたりします。
 
 フェリーは最初のソロ・アルバムでもスタンダードのThese Foolish Thingsをとりあげて歌っていました。『レッツ・スティック・トゥゲザー』でカヴァーしたYou Go To My Headも、彼が愛してやまないビリー・ホリデイの持ち歌でした。それらのカヴァーでは、程度の差こそあれ、フェリーは個性的な屈折を加えていました。
 本作でのスタンダード・カヴァーにかつてのカヴァー・アルバムで聞かせたようなロック的な屈折を期待するとアテがはずれます。これは正調のジャズ・カヴァーです。
 
 また、歌声に経年による変化があらわれていて、少しかすれたヴォーカルを聞かせます。これがスモーキーというほどの美点には届いておらず、喉声の弱さを露見して残念なのですが、英国ロック界随一のダンディとして君臨した実績は自然とその弱さをも色気に変換し、くたびれ具合がちょうどいい塩梅にハマっています。
 
 バックの演奏ともう少し有機的な膨らみのある呼吸がとれていればとの思いも残るけれど、フェリーの敬愛するコール・ポーターのYou Do Something To MeとJust One Of Those Thingsは、普段からの聴きこみを反映した余裕あるヴォーカルを楽しめます。出しにくい高音を喉をひっつめて出すフェリーの唱法は、もしかしたらポーターの曲を歌っているうちに生まれたのかも、なんてことを想像させます。
 それから、Where or When。これなどはかなりストレートにフェリー作のラヴソングに近い曲でしょう。自虐を湛えた恋歌という点で、彼のヴォーカルはこういう眼差しから発せられています。フェリーもそのことに”気づいた”のではないでしょうか。
ブライアン・フェリー『フランティック』(原題 Frantic)2002年4月
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 2001年にロキシー・ミュージックが再々結成し(一般的には再結成と見なされています)、日本を含むワールド・ツアーが行われました。そこで再集結したメンバーの中からドラムのポール・トンプソンがこのアルバムに参加しています。また、再々結成には参加しませんでしたが、ブライアン・イーノがフェリーとI Thoughtを作曲し、同曲では演奏とコーラスにも加わっています。
 クリス・スペディングが本作でギターを弾いており、そのためか、77年のブライアン・フェリー・バンドを彷彿とさせるイナセなブリティッシュ・ロック・サウンドが復活しました。ミック・グリーンもパブ・ロック魂みなぎるギターを演奏していて、バラエティに富む内容ながら一本筋の通ったロック・アルバムの趣きがあります。レコーディングがロキシーのツアーを間にはさんだこともあってか、ライヴ映えしそうな曲も目立ちます。
 
 前作がスタンダード集で本作がブリティッシュ・ロックと、一見すると迷走しているようで、先述した”自己確認”をキーワードに聴くと納得のいく内容です。ボブ・ディランのカヴァーが2曲もあり(次作でこれが全面に出ます)、ドン・ニックスのGoin' Down、レッドベリーのGood Night Ireneのカヴァーとアメリカン・ミュージックの要素も入っています。ドリフターズのOne Way Loveもカヴァーしていますが、これは60年代ブリティッシュ・ビートのクリフ・ベネット&ザ・レベル・ラウザーズのカヴァー・ヒットを元にしているのでしょう。
 アヴァロネスクなタッチの曲もあるとは言え、前ほど音響に執心してはいないようで、楽器の自然な鳴りが耳に心地よいアルバムでもあります。プロデューサーはレット・デイヴィス、デイヴ・A・スチュワート、コリン・グッド、ロビン・トロワーがフェリーと名を連ねており、こうした布陣がフェリーの素直なR&B/ロックへの回帰のバランスに貢献したのではないかと考えられます。
 
 興味深いのは、獅子王リチャードが作者と伝えられるJa Nun Hons Pris(囚われた者は決して)がアルバムの中間点にサラリと間奏的に挿まれていることです。これなども本作の英国バンド・サウンド回帰と効果的に結びついているように思われます。
 フェリーがイーノと作ったI Thoughtはイーノ寄りの曲で、『テイキング・タイガー・マウンテン』でのヒステリック・ポップを想起させたりはするけれど、かつてフェリーとイーノが袂を分かったのは必然でもあったと私は悟りました。
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ロキシー・ミュージック『ライヴ』(原題 Live)2003年6月
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 そして、こちらが再々結成ロキシーのライヴを収めたアルバムです。
 なにがいいかって、Re-Make/Re-Modelで幕を開けるこの構成。わかっていてもワクワクします。フェリーの声もバンドの演奏も、当然のことながら若い頃より老いや風格がにじんでいます。それでもトンプソンが直線的なノリのビートを叩きだし、そこにマンザネラの変なペンタトニックとマッケイの安っぽくいかがわしいブロウが絡み、フェリーが怪紳士よろしくグネッと声を歪ませると、ロキシー・ミュージックの音がよみがえります。
 
 そこから初期の曲を連発して調子をつけて、盛り上がったところで『アヴァロン』からWhile My Heart Is Still Beatingで泣きの色合いがつく。誰が考えたのか知りませんが、まさにベストの選曲にしてベストの構成です。
 大ヒット・ソングのMore Than Thisの次に変態カントリー・ロック(?)のIf There Is Somethingが来ると、ああ、ロキシーってどっちも大事なんだなと痛感します。Mother Of PearlからAvalonへの転換もそう。私はどっちも好きだし、ロキシーがそういう嗜好にさせたのだなと。
 Editions Of You、Virginia Plainのエキセントリック曲は、ポール・トンプソンのドラムが『アヴァロン』ツアーでのアンディ・ニューマークより下手でカッコイイ。彼がこのツアーで戻ってきてくれて良かったと、心底思います。
 
 ラストはFor Your Pleasure。これも心憎いエンディングです。本当はこのメンツでスタジオ盤も作ってほしかったのだけど、再々結成期間が長すぎてロキシーであることに飽きてしまったのでしょう。でも、このバンドはまた結成し直してもいいし、してほしいです。
ブライアン・フェリー『ディラネスク』(原題 Dylanesque)2007年3月
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 フェリーの個性的なヴォーカルの抑揚がボブ・ディランの影響下にあることは言うまでもありません。私はそこにエルヴィス・プレスリーとビリー・ホリデイも並ばせたいところなのですが、やはりディランの影響がもっとも明白です。そのフェリーがアルバム一枚をまるごとディランのカヴァーで構成する。このニュースに胸ときめかせたファンも多かったでしょう。
 
 蓋をあけてみると意外や意外、ここでのフェリーはロキシー初期のようなディラン流の歌いまわしをまったく取っておらず、むしろ素っ気ないくらいの律儀さでメロディーをたどっています。これが若き日のフェリーであれば、たとえばJust Like Tom Thumb's Bluesでの♪She speaks good English and she invites you up into her room♪の箇所などで、ここぞとばかりにグネらせて気持ちの悪いシナを作ったでしょう。けれど、そんなことはどの曲においてもやっていません。
 
 自然体、と言ってもいいです。かつてVirginia Plainで♪Make me a deeeal♪とディランふうに語尾を投げつけていたフェリーが、せっかくのディランのカヴァー・アルバムでそれを封じている。
 60歳をすぎて、それが難しくなったというのもあるのか。私はこれをフェリーのルーツに対する筋の通し方だと思いました。彼はあえて、よりナチュラルな発声に近い歌唱でディランのカヴァーに挑んだのです。ロキシー初期でのフェリーのあのヴォーカル・スタイルは彼の武器であり、グラマラスな装いの一部でもありました。しかし、本作ではそれを取っ払って、剥き身の自分をディランの曲に向かわせています。
 このことは『フランティック』以上に8ビートのグルーヴ感を増したバックの演奏や、偏執狂的な音響への執着を捨てた録音にもあらわれています。いちロック・シンガーとしてのブライアン・フェリーが、もしかすると初めて露わになったアルバムです。それがディランのカヴァー集であることが感慨を催させます。
 
 ディラン自身がライヴで大胆なアレンジを施す人ですから、ここでのフェリーもテンポや拍子に手を加えています。それらをクリス・スペディングやミック・グリーンらのギターでブリティッシュ・ロックの匂いにまみれさせた結果、フォーク・ロックとパブ・ロックが合わさったような小気味よく冴えた演奏が楽しめるアルバムとなりました。
 77年のブライアン・フェリー・バンドをリアルタイムで知っている人がしっくり来る音は、『ボーイズ・アンド・ガールズ』よりも『フランティック』とこのアルバムではないでしょうか。
 なんと言っても、Just Like Tom Thumb's Bluesで始まるディランのカヴァー・アルバムというだけで信用できます。
ブライアン・フェリー『オリンピア』(原題 Olympia)2010年10月
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 1曲目のYou Can Danceが、『アヴァロン』に収められていたTrue To Lifeそっくりのイントロで始まります。すわ、ロキシー後期に戻ったか!との声が多数あがりましたし、私もそう思っていました。たしかに、『ディラネスク』での70年代ブリティッシュ・ロック・バンド仕様とくらべるとアヴァロネスク度が高く、どこか虚無的な、それでいて熱っぽい音の耳ざわりはあの路線への揺れ戻しとも考えられます。
 
 しかし、よくよく聴いてみると、もっとクラブ・サウンド寄りのタッチを含んでいて、これには収録曲でコラボしているシザー・シスターズやグルーヴ・アルマダなどの若いミュージシャンの存在が作用したのでしょう。シザー・シスターズはオムニバス盤(『ウォー・チャイルド』)にロキシーのDo The Strandのカヴァーを提供していますし、ここではHeartache By Numbersで新世代からのニューウェイヴ再評価の視線でフェリーの音楽をリフレッシュしています。グルーヴ・アルマダはShamelessのスクエアで無機的なビート感でフェリーの枯れた色気を際立て、『マムーナ』をシャキッとさせたようなサウンド・プロダクションに成功しています。
 
 また、You Can Danceではレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーとストーン・ローゼズのマニがベースで参加し、ティム・バックリーのSong To The Sirenのカヴァーではデイヴ・ギルモアやフィル・マンザネラと並んでレディオヘッドのジョニー・グリーンウッドがクレジットされています。
 さらに付け加えるなら、フェリーの4人の息子のうち3人がアルバム制作に関わっています。タラはドラムで、マーリンはギター、そしてアイザックはアート・ワークのプロデューサー(アート・ディレクションは親父ですが)。
 そんなこともあってか、このアルバムからは若返った活力が感じられます。曲は例によって例のごとしなのですが、リズムがアップデートされているし、エレクトロニクス使いにもフェリー単独ではないセンスが窺えます。そのことが本作にアヴァロネスク期の諸作よりもオープンで、しかも要所要所にピリッとした緊張感のあるサウンドをもたらしているのです。
 
 Alphavilleはジャン・リュック・ゴダールの映画にインスパイアされたのでしょう。これは『フランティック』収録のHiroshima...でのアラン・レネに続くヌーヴェル・ヴァーグ・オマージュの流れにあります。フェリーはもっと古いハリウッド映画(のイメージ)を好んでいると思われますが、ヌーヴェル・ヴァーグは1940年代のアメリカ映画をフランス流に解釈したものですし、それはロキシー初期のアメリカ文化に対するスタンスとも離れてはいません。ファースト・アルバムでのハンフリー・ボガート賛歌にはヌーヴェル・ヴァーグ的な温度がありました
 ケイト・モスがカヴァー・モデルをつとめるジャケットの白地も、ロキシーのファーストを彷彿とさせます。フェリーはこのアルバムでキャリアを総括するとともに、刷新した境地で次に向かっていったのではないでしょうか。あきらかに、ここで何かが変わった手応えを受けますし、それはリリース時以上に現在のほうが重要度を増して伝わってきます。
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(4人の息子たちと。いろいろ言いたいことはあるけれど、言わない!)
 
 ブライアン・フェリー・オーケストラ『ジャズ・エイジ』(原題 The Jazz Age)2012年11月
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 これはフェリーの曲を1920年代のジャズふうにアレンジしてブライアン・フェリー・オーケストラが演奏したアルバム。フェリーは歌っていませんし演奏にも参加していません。ポール・マッカートニーの『スリリントン』みたいなものか。
 だからこの記事に加えるのは躊躇したのですが、本人が殊のほか気に入っているようで、フェリーのディスコグラフィーにも記載されることが多いようなので紹介します。
 
 ロキシーのファースト・アルバムからフェリーの『オリンピア』まで、全13曲が収録されています。プロデューサーはフェリーとレット・デイヴィスで、フェリーが自分のヴォーカルなしで曲自体がどれほどアピールするかに興味をもって立ち上げたようです。このアルバムからバズ・ラーマン監督の映画『華麗なるギャッツビー』のサントラに使用されたヴァージョンもあります。オールド・ジャズというコンセプトにギャッツビーが乗っかった途端に、ブライアン・フェリーの世界と急接近するように思えるファンは多いでしょう。
 
 この種の音楽に免疫がない人が聴いて面白いかどうかはわかりません。ジャズ・エイジ、ギャッツビー、フェリーの3つの駒の並びで目じりが下がるような人なら聴いてみてください。
 できれば、曲名を隠した状態で当てるのが楽しいです。イントロだけではわからないものもあれば、イントロを聴いて困惑させるものも。どちらも一興です。
 とくにフェリーのファンでなくともメロディーの佳さが伝わりそうなのはJust Like Youでしょう。原曲もせつなさが満開ですが、べつの情緒、ペーソスを見せています。
 こうして振り返ると、1985年以降のフェリーにとってはファンクとスタンダートが2つの極なのだなと思えてきます。
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ブライアン・フェリー『アヴォンモア』(原題 Avonmore)2014年11月
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 『ディラネスク』、『オリンピア』と充実したアルバムをリリースしてきたフェリーが放った快作です。ジャケット(フェリーは携わっていないもよう)がイマイチだったので恐る恐る聴いてみたら、21世紀に入ってからではダントツといえる内容で喜びました。
 
 まず、本作でのMVPはドラムのタラ・フェリー。単独の演奏ではないトラックがあるも、ほぼすべての曲で叩いています。彼がいつものフェリーのアルバムを支える熟練とは違う、前のめりなビートで曲を引っ張っていきます。ポール・トンプソンっぽいストレート・アヘッドなノリもある。とりわけDriving Me WildとOne Night Standでのファンクな揺れを忍ばせた弾みは聴きもので、お父さんの歌のノリも心なし『オリンピア』からさらに若返っているみたいです。
 ギタリストではジョニー・マーが『ベイト・ノワール』以来の参加で、本作では全面的に弾いているだけでなく、ついにSoldier Of Fortuneで本格的にフェリーと曲を作っています。
 それから、ベーシストの使い方が相変わらず面白いです。ロキシーでもベーシストは流動的に変わっていったように、ここでもマーカス・ミラーを大黒柱に複数のミュージシャンを起用し、Send In The Clownsのカヴァーではコントラバスも交えています。
 
 こうした演奏には『オリンピア』の姉妹編的な部分もたぶんにありますが、『ディラネスク』のリラックスした自然体の空気も配合されているのが本作の大きな魅力です。いわば、アヴァロネスク期の感覚と77年製ブライアン・フェリー・バンドのイナセなロック・サウンドが無理なく結びつき、作りこんだ中にライヴ的な活気が全編を躍動させているのです。
 
 曲も粒ぞろいで、断片的で悲しげなメロディ―をグルーヴに乗せたLoop Di LiやMidnight Trainも、シンプルなリフレインを活かしたDriving Me Wildも渋みと甘さが程よく同居しています。マーヴィン・ゲイふうのA Special Kind Of Guyやテディ・ペンダーグラス風味のLostは、ホワイト・ソウルのソングライターとしてのフェリーをあらためて印象づけさせます。
 カヴァーは先述したSend In The Clownsとロバート・パーマーのJohnny & Maryで、どちらも秀逸な出来栄え。後者はノルウェーのDJ、トッド・テリエとのコラボレーション作で、パーマーのオリジナルとは別の繊細さを紡ぎ出しています。つくづく、フェリーはカヴァーの名手であると感銘を受けました。
 ヴォーカルは往年のビザールな輝きが薄れてはいますが、メロディーやアレンジがこの時点でのフェリーの声質に合っているので、さほど気になりません。曲によっては、若い頃よりもヘナヘナ加減に年輪と内実の厚みを感じさせたります。
 
 『オリンピア』がフェリーのキャリアの結び目を締め直したアルバムだとしたら、この『アヴォンモア』はその紐を少し緩めてみせた作品。”ダンディ&ヘナヘナ”はフェリーのステージングでもお馴染みの光景ですし、『ボーイズ・アンド・ガールズ』の後に聴くならアヴァロネスク期よりもこちらのほうがいいかも。傑作、と呼ばせていただきます。
ブライアン・フェリー『ライヴ・イン・ヨーロッパ2015』(原題 Live2015)2017年→2019年3月
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 フェリーの公式HPとライヴ会場のみで販売されていたライヴ・アルバムで、2019年の来日を記念して日本のみの店舗で買えるようになったものです。私もこれを機に入手しました。
 こういう限定販売CDは、熱心なファン以外まで広くに流通することを念頭においていないので、マニアが音を確認して終わってしまいがちです。
 このアルバムも近作からの曲が頭で連続しているし、ディランのカヴァーはBob Dylan's Dreamというマイナーな曲だし、カントリーのカヴァーはコンピレーションのみに入っていたHe'll Have To Goだし、『アヴァロン』と『ボーイズ・アンド・ガールズ』しか知らない人には全部を楽しめないかもしれません。
 
 しかし、70歳(2015年当時)になったブライアン・フェリーが、ソロしては初めて発表したライヴ盤なのです。ロキシーの曲もたくさん収録されていますが、これはフェリーの2014年のアルバム『アヴォンモア』のツアーなのです。私としては、フェリーが当時の最新アルバムからの曲を3つも演奏して収録していることが嬉しくてしょうがない。そして、その3曲がどれもスタジオ・アルバム以上の躍動感で鳴っていることが感に堪えません。もちろん、キャリアの長いアーティストですから、ヒット・パレードであってもいいんです。でも、新しいアルバムがセットリストを飾っていると、もっと嬉しい。
 
 さらに、Bob Dylan's Dream、よくぞこれを選んでくれました。この人、ホントにディランが好きなんだなとわかります。まだハタチそこらのディランが書いた友情を追憶する曲ですが、70歳のフェリーはこれを人生の実感をこめて歌っています。泣ける。
 それと、カントリーのHe'll Have To Goもいいです。ダメ男が電話で恋人にすがる歌なんです。「もう一回、あの甘い言葉をオレに言ってくれよ。いや、その前に、そこにいる男を帰してくれ」という。これも泣ける。フェリーさん、カントリー・バラードのカヴァー集を作ってもらえないでしょうか。エルヴィスのカヴァーした曲だけでもいいですから。それか、エルヴィスのカヴァー・アルバム。
 ブライアン・フェリーの音楽は奥深い。そんなことをしみじみと噛みしめさせるライヴ・アルバムです。

 

 

 

ブライアン・フェリー『ビター・スウィート』(原題 Bitter-Sweet)2018年11月
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 自身の曲を1920年代ジャズのスタイルでブライアン・フェリー・オーケストラにカヴァーさせた『ジャズ・エイジ』から、一歩踏み込んで今度は同じ様式で自作曲を歌ったアルバムです。ボブ・ディランのスタンダード3部作に触発されたのか、単に好きだからやってみたのか、おそらくこの人の場合は後者のはず。
 
 曲目上、『ジャズ・エイジ』と重なるのはReason Or Rhymeのみで、純然たる新録だと言えます。
 オールド・ジャズや1920年代というコンセプトが粋な装丁となっていますが、これって、いわゆるセルフ・カヴァー・アルバムなんです。つまり、通常は他人の曲で試みることを自分の曲でやってみたら、思いのほか発見も多かった。その手ごたえをフェリーと共有できれば、このアルバムは無類に面白いです。
 
 フェリーはとにかくビリー・ホリデイの大ファンで、彼にとってのブルースにはジャズのブルースのフィーリングがあると思います。
 マディ・ウォーターズやB.B.キングじゃないんですよね。デューク・エリントンやコール・ポーターなんです。リスナーとしてはマディ・ウォーターズも好きかもしれないけれど、表現者としての資質はそっちです。
 そう考えると、ロキシーがカヴァーしたウィルソン・ピケットの曲がなんでああいうふうに転化されたのかも納得がいきます。ロキシーが音楽性を変化させながらも一貫して持ち続けていた美学、エッセンスはそこにもあるのではないでしょうか。
 
 ロキシーとフェリーの曲を熟知している人には、本作のアレンジにはスリルとユーモアの両方を味合わせてくれます。その度合いは『ジャズ・エイジ』の比ではありません。なにせ『オリンピア』で近未来的なイメージをもって鳴っていたAlphavilleが、コットンクラブの紫煙を連想させながらアルバムの口火を切るのですから。タイトで力強いロック・ナンバーのSign Of The Timesが吉本新喜劇のテーマ(あれもこのへんの時代の曲)みたいな滑稽味で飄々と演奏されます。かと思うと、Limboのように原曲の異郷趣味をエリントンっぽいジャングル・サウンドへと真っ当に広げたカヴァーや、Zambaのようにアレンジを変えても原曲とほぼ同じニュアンスが生まれた例もあります。それぞれに興味深いし面白い。どう考えてもヨーロピアン叙情としか結びつかないSea BreezesやBitters Endが、ビリー・ホリデイが歌いだしそうな空気を纏っているのも驚かされます。
 
 どの曲も意外性に富んでいるし、同時にニヤリと腑に落ちる理にも満ちています。それはロキシーとフェリーの音楽にも通じる事です。やや大げさに言うと、『ビター・スウィート』はフェリーにとってのブルース・ルーツが零れ落ちてくるアルバムであり、セルフ・カヴァーの形をとることで、スタンダード・カヴァーの『時の過ぎゆくままに』よりも明瞭にそれが浮かび上がる仕掛けです。その仕掛けがジャズであったというところに、フェリーの音楽性の秘密を解く暗号があるような気がします。

 

 2019年3月29日にロキシー・ミュージックはロックンロール・ホール・オヴ・フェイムに殿堂入りしました。ポール・トンプソンと、環境問題への配慮から飛行機に乗らないブライアン・イーノの姿はありませんでしたが、壇上にはブライアン・フェリー、フィル・マンザネラ、アンディ・マッケイ、エディ・ジョブソンが登り、フェリーはスピーチでイーノとポール・トンプソン、それに歴代のベーシストの名をあげて感謝を述べました。ロキシーはベーシストを固定しないバンドでしたが、フェリーがロキシーの歴史に欠かせない人たちとして彼らへの想いを言葉にしたことに、私は涙腺が緩むほどの感激をおぼえました。

 

 
 ロキシー・ミュージックの音楽はスタイリッシュだと、私も本文で何度となく繰り返し書きました。それはダンディズムとほぼ同じ意味で多くの人に用いられたりします。
 ただ、私は彼らの音楽に、たとえばベーシストの流動性にもあらわれているような、ある種の隙も感じてきました。それはライヴ中にシャツがはだけたりして、どんどんだらしない恰好になっていくフェリーの姿にも当てはまるし、彼のソングライティングで執拗に表現されてきた成就しない愛とも結びついています。
 
 そしてロキシーは、そんな隙と不在を常に屈折した歓びと創造の力に変えるバンドでした。今月の中旬に観たフェリーのコンサートでも、やはりそこは強烈に感じました。
 たぶん、崩れてヘナヘナになっていく在り様に、フェリーのスタイリッシュさもダンディズムもあるのでしょう。17歳の私がSlave To Loveに感化されたように、人間がヘナヘナになってしまう生きものであるかぎり、彼の音楽はこれからも人を魅了していくと思います。Do The Strand!
 
(ブライアン・フェリー『ライヴ・アット・ザ・ロイヤル・アルバート・ホール 1974』のレヴューはこちらを!)
(そして、ブライアン・フェリーの『ライヴ~ロイヤル・アルバート・ホール2020』のレビューはこちらを)
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