ロキシー・ミュージックとブライアン・フェリーの全アルバム その3(1985~1994) | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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 先週に引き続き、ロキシー・ミュージックとブライアン・フェリーの全アルバムについて語り倒します。前回(「その2」)がロキシーの最終作『アヴァロン』と『ハイ・ロード』までだったので、以降の「その3」「その4」ではブライアン・フェリーのソロとしてのディスコグラフィーを追うことになりますが、ロキシーのライヴ・アルバムも2作取り上げます。
 
 まずは1985年から1994年まで。アヴァロネスク期のブライアン・フェリーです。
 ”アヴァロネスク”というのは私の造語で、『アヴァロン』様式、といったニュアンスで使っています。
 名盤『アヴァロン』をもってロキシーの活動が終了した後のフェリーは、およそ10年にわたって、あのアルバムの(傍からみると)続編、続々編と呼びたくなる作品をリリースしていきます。それほどまでに『アヴァロン』の評価は高く、またフェリー自身も満足のゆくアルバムだったのでしょう。
 
 80年代後半には、フェリーの音楽というと、愁いをたっぷり含んだメロディーとファンク的なリズムを強調したロックを、サウンドのディテールに徹底的にこだわり、全体を虚無的なまでにクールに仕上げてしかもポップに聞かせる、そんなイメージが確立されました。その大部分は『アヴァロン』から引き継がれたもので、私もこのアヴァロネスク期にフェリーに出会い、ロキシーへと遡っていったクチです。
 
 しかし、1970年代にロキシーとフェリーのソロを聴いていた人からすると、このイメージは偏ったものなのかもしれません。実際に私も後追いで70年代の諸作を聴いてみて、ソロではファンクというよりはR&Bだし、当時の『ロッキング・オン』誌などでデヴィッド・ボウイやロバート・フリップらと並んで語られていたのも納得できる先鋭的なアーティスト/バンド像が浮かんできました。70年代=リアル・タイム派にとってのフェリーはそういうアーティストなのでしょう。私も彼の表現のコアはそこにあると思っています。
 
 では、『アヴァロン』が先鋭性を捨てて商業主義に走ったアルバムなのかというと、まったくそんなことはありません。ロキシー・ミュージックは、ブライアン・フェリーの音楽における美意識をある方向に収斂させて研磨に研磨を重ね、その究極形として『アヴァロン』の優雅でポップな音にたどり着いたのです。
 アヴァロネスク期のフェリーのアルバムには、それをダンサブルもしくは抽象的な音像で発展させた作品が並びます。どれも私の好みであるし、どれも優れた内容だと思います。
 いっぽうで、『アヴァロン』の魅力であった緩やかなうねりとは反対の、あまりにも緻密で時に窮屈でもあるサウンドに傾倒した感も受けます。だからダメだと言うつもりはありませんが、このアヴァロネスク期のフェリーは『アヴァロン』への漸近線を描こうとして実質的にはそこから離れていったと私は考えています。
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ブライアン・フェリー『ボーイズ・アンド・ガールズ』(原題 Boys And Girls)1985年6月
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 ブライアン・フェリーのソロ作では最大のヒットとなったアルバムです。この時、なぜかツアーには出なかったものの、本作のヒットを引っ提げて『ライヴ・エイド』にも出演しました。こちらの記事でも触れたように私の思い入れも深く、このアルバムに出会わなければロキシー・ミュージックを聴くこともなかっただろうし、そうなるとこうして音楽ブログを書いている自分も存在しませんでした。わが音楽愛好家人生の中でもとりわけ重要な一枚です。だから、客観的に語りづらくもあります。
 
 ひとことで言うと、ここに収められた曲に共通するテーマは”愛の不如意”です。ままならぬ状態。それはロキシー初期からフェリーのラヴソングに通底するテーマでもあるのだけれど、絶望的な恋愛に倒錯した歓びが息づいていて、『ボーイズ・アンド・ガールズ』ではそれが特に甘美なエレガンスにくるまれて提示されています。
 とても聴きやすいし、どの曲も口ずさみやすいフックが利いています。それでいて歌のバックを彩る楽器の音は抽象的なまでに輪郭をぼやかされており、モヤモヤとした霞の立ち込める音の像とファンクを基盤としたリズムのキレ具合の同居にはビザールな美が横溢しています。なによりも、飯食ったんか?と問いただしたくなるヘナヘナとした歌い方が変。こうした異様さを芳醇な味わいやダンディズムと感じさせるのが本作のアーティスティックにしてポップな凄さです。
 
 さらに、ダンサブル。フェリーは次のアルバムでこの志向をさらに強めていきますが、ビートの強さではなくグルーヴの濃厚さという点では本作にはかないません。それはフェリーのソングライティングとグルーヴが見事な調和をみせているからで、Slave To Loveでの思索するようなイントロ(レゲエのニュアンスが入っている)から歌伴に入る手前での光が降り注ぐかのような幸福感などは筆舌に尽くしがたい。しかも、その幸福感は恋という概念への隷属を歌ったマゾヒスティックな詞に沿っているのです。
 どの曲もこうしたフェリーの美意識のみで貫かれていて、錚々たる参加ミュージシャンの演奏はリヴァーブなどの処理でトーンも抑揚もフェリのー世界観に統べられています。いわばブライアン・フェリーのアトリエ状態。
 
 フェリーの作るメロディーには英国のトラッドの影響があって、SensationもDon't Stop The Danceもそこだけを抽出すればフォーキーな陰翳の濃いものです。それがマーカス・ミラー&オマー・ハキムによる鉄壁のリズム・セクションに乗ったり、あえて軽めのニューウェイヴ的なダンス・ビートに嵌めたときに、いわゆるホワイト・ソウルのもっともらしいファンクネスとは肌合いの異なる、スタイリッシュに脱力した放心の熱といったグルーヴが醸し出されます。
 The Chosen Oneはそれをゴージャスかつ虚無的にクールなファンクに仕上げた曲で、この曲などは典型的にアヴァロネスク。ただ、アルバム全体に『アヴァロン』の放っていた開放的な音の広がりは少なく、非常に閉じた空間で緊張を強いてくるところも多いです。そこをどうとらえるか、本作への評価を微妙に左右すると思います。
 しかし、たとえ密閉性が高くとも、このアルバムにはそれをアーティスティックで甘美な毒に変換させる力を充分に持っています。それを魅惑と呼ぶことに何らためらいはありません。
ブライアン・フェリー『ベイト・ノワール』(原題 Bete Noire)1987年11月
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 タイトルの意味はフランス語で”イヤなやつ”のこと。要するに、ブライアン・フェリーは自分のことをそう言っているんです。まあ、これもナルシシズムなんでしょうね。それはともかく。
 比較的早いペースで発表されたニュー・アルバムでした。前作のヒットを受けて、たぶんレコード会社からの要請もあったのでしょうが、フェリー自身も『ボーイズ・アンド・ガールズ』で得た評価と自信を反映させる新作のレコーディングに乗り気で臨んだと思われます。
 フェリーにはもっとダンサブルなアルバムを作りたいという意志があったようです。マドンナの『トゥルー・ブルー』を手掛けたパトリック・レナードをプロデューサーに迎えて、ダンス・ミュージック志向を強めたアルバム、それが『ベイト・ノワール』です。
 
 リリース時に予約までして買った私は、なんだこのニュアンスに欠ける音は、とガッカリしました。最初の印象はものすごく悪かったんです。
 その理由の大半はドラムにありました。アンディ・ニューマーク、ジョン・ロビンソン、ヴィニ・カリウタら一流中の一流が叩く演奏自体が悪いのではありません。その音色です。なんだこのカチカチした薄っぺらい音は、と悲しくなりました。近年、私はこのアルバムを再評価しているくらいなんですけれど、いまだにこのドラム・サウンドだけは好きになれません。
 
 曲は粒ぞろいです。16ビートのギター・カッティングやパーカッションを強調したアレンジもいいし、バック・コーラスの配し方には『ボーイズ・アンド・ガールズ』以上にこなれた余裕が感じられます。ザ・スミスのインストゥルメンタル(というか、たしかモリッシーが作詞を拒否した)Money Changes Everythingを改編したThe Right Stuffにはジョニー・マーが参加しており、ソング・スタイリストとしてのフェリーの個性が浮き彫りにされるだけでなく、スミスの曲作りにも想像が伸びていって面白かった。
 
 1曲目のLimboもフェリーらしい歪んだラヴソングで、スライド・ギターがかき立てる幽玄でミステリアスなイントロは『ボーイズ・アンド・ガールズ』と似ているようで違っています。抽象性が薄れて具体性が増している。パーカッションをふんだんに交えたアレンジも、新プロデューサーと組んだフェリーの狙いは成功していると言えます。
 Kiss And TellやDay For Nightなどのダンス・ナンバーも出来がよく、New Town、Zamba、それにBete Noireといったスロー曲には前作に欠けていた自然な陰翳があります。とくにバンドネオンを用いたBete Noireは今までのフェリーにありそうでなかった表情をもたらしています。
 
 だから、失敗作と断ずるのは早計で、聴きどころや発見は多いアルバムです。発売の翌年に来日公演でここでの収録曲を聴いたときに印象が変わったのもおぼえています。ちなみに、この時のヨーロッパ・ツアーを収めた映像ソフトは素晴らしいクォリティの作品です。
ロキシー・ミュージック『ハート・スティル・ビーティング』(原題 Heart Still Beating)1990年10月
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 ここで唐突にロキシーのライヴ盤登場。いや、ホントに唐突なリリースでした。『アヴァロン』のツアーを収録したアルバムですが、先に4曲入りライヴEP『ハイ・ロード』が出ていたし、さらに長尺の同名ビデオも1983年に発売されていました。1990年はフェリーの活動の音沙汰もなかった頃で、それだけになぜ今『アヴァロン』ツアーの音源を?と訝ったものです。
 しかし、内容は保証つき。『ハイ・ロード』では食い足りなかった曲数も、代表曲を連発するこのアルバムがカヴァーしてくれます。だからと言って『ハイ・ロード』の価値がなくなるわけではないのは、フェリー以外のチームがデザインを手掛けた『ハート・スティル・ビーティング』のジャケットがロキシーと似て非なるセンスのものであるからで、ファンは『ハイ・ロード』のジャケを眺めながら本作の音を聴けばいいんじゃないでしょうか。
 
 ロキシーの代表曲と言っても、大半は『サイレン』から『アヴァロン』までの範囲です。それ以前の曲も、”フェリーのアトリエ”状態に近づいていたロキシー後期の演奏で解釈されています。つまり、中期の『VIVA!ロキシー・ミュージック』でのヘヴィーな部分にかわって、『フレッシュ・アンド・ブラッド』以降のソフィスティケートされた感覚が流れています。ライヴの定番であるIn Every Dream Home A Heartacheが入っていないのも、そういうことなのでしょう。
 そのことが再々結成時(2001年)のライヴ盤にはない現在進行形のバンドの姿を伝えています。『アヴァロン』への評価と人気が高まってゆく只中でのライヴ。この勢いと色気はなかなか追体験できるものではないし、フェリーもそうした勢いに乗ってどんどん歌い崩れてゆき、そのさまがまたロキシーならではのビザールさと色気を呼んでいく。
 
 フィル・マンザネラのインスト曲The Impossible Guitarがいいアクセントになっているだけでなく、ロキシーがプログレッシヴ・ロックの人脈と接点があることを改めて感じさせます。そこからアンディ・マッケイの見せ場でもあるA Song For Europeに流れ込んでいくところなどはバンドのエッセンスに自然と聴く者を誘うし、それがポップに洗練されたLove Is The Drugに移って、さらにニール・ヤングのLike A Hurricaneのカヴァーに繋がると、ロキシー・ミュージックの音楽性のライヴ・アルバムの形を借りた批評として聴くこともできます。
 クライマックスを飾るEditions Of Youは初期のハチャメチャなノリが懐かしくなるところですが、逆にラストのJealous Guyは終末に近いロキシーなればこその円熟した哀感で堂々たる幕引きをつとめます。
 発売時には戸惑ったものの、しっかりとしたアルバムです。お薦め。ただ、これをディスコグラフィー上で『アヴァロン』の次に続けて並べるのには抵抗をおぼえますが。それを防ぐためにも、間に挿める『ハイ・ロード』が有能ってことか!
ブライアン・フェリー『タクシー』(原題 TAXI)1993年4月
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 87年の『ベイト・ノワール』ツアーを終えたフェリーはニュー・アルバムの制作に取り掛かります。しかし、Horoscopeというタイトルで進行していたアルバム・レコ―ディングは頓挫し、その息抜きにと新たなカヴァー・アルバムに着手しました。それがこの『タクシー』です。
 
 Horoscopeが幻のアルバムとなったのは、デジタル・レコーディングとフェリーの完全主義がもつれあって埒があかなくなったと伝え聞きます(これについては『マムーナ』の項で後述)。
 行き詰ったフェリーがカヴァー・アルバムの制作に乗り出したのは正解でした。彼はロキシーの初期にブライアン・イーノとの間に軋轢が生じた直後に最初のソロ・アルバムを発表しており、それもカヴァー・アルバムでした。その『愚かなり、わが恋』は傑作で、フェリーのソロ・キャリアを語るうえでカヴァーは欠かせない要素にもなりました。
 『タクシー』もフェリーによる秀逸なカヴァー・アルバムです。彼は80年代にこの種のアルバムを作っていないので、93年の本作は久しぶりの企画でした。前述したように『ベイト・ノワール』に満足できなかったこともあって、『タクシー』に対しては良い印象を持ちました。
 
 今回も1曲目のスクリーミン・J・ホーキンスのI Put A Spell On Youが幽玄なイントロで始まります。『ボーイズ・アンド・ガールズ』でのそれに匹敵するほどの緊張感はありませんが、アヴァロネスク期を特徴づける趣向です。
 Horoscopeでマルチ・トラックに難航して投げ出したわりには、本作も細部まで凝った作りです。ただし、どのカヴァー曲にも音と音の間隔を適度に空けてあります。相変わらず神経質なまでにトーンを選んであるのだけど、レイヤーの厚さではなくスペースの余裕で聞かせるのが本作です。もっとも、そのスペースもかなり計算された設計がなされていると思えますが、キャロル・キングのWill You Love Me Tomorrow?などはそこを曲自体の佳さに活かした好トラックです。
 
 ファンク的なアプローチも、Answer MeやJust One Lookなど音数を絞った空間処理にワウ・ギターが効果的。『ベイト・ノワール』での縦割りなビートに比べると含みがあって、フェリー独特の虚無的なニュアンスも戻っています。これは2つのアルバムの違いもありますが、制作された1987年と1993年にポップ・ミュージックで受容されていたビート感の違いでもあるでしょう。
 タイトルにもなったJ・ブラックフットのTaxiは傑出したカヴァーです。原曲のリズムをよりスクエアに整えて、ヴォーカルもR&B本流のブラックフットとはずいぶん異なりますが、このカヴァーはフェリーのTaxiになっているうえに原曲のエッセンスもちゃんと入っています。言ってみれば、歌もアレンジも非常に表面的になぞっているに等しいのに、フェリー流のソウル・ミュージックになっているんです。
 
 フェリーのヴォーカルは、ソロ初期のカヴァーとは違って、大胆に変形させてはいません。自己流に落ち着ける術を心得た歌い方です。また、以前はフェリーの音楽性の中にあるR&Bやカントリーなどと共振する要素を感じさせていたのが、ここでは逆に曲の中にフェリー的な音楽性が隠れていることに気づかせます。
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ブライアン・フェリー『マムーナ』(原題 Mamouna)1994年9月
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 このアルバムを聴いたときに、なぜHoroscopeのレコーディングが頓挫したのか、おぼろげながら理解できるような気がしました。フェリーはソングライティングでのスランプに陥ったのではないかと。いや、曲は決して悪くないし、好調と言ってもいいレベルのものです。でも、会心ではない。
 
 基本的にはアヴァロネスク。『ボーイズ・アンド・ガールズ』のSensationあたりで試みて好評を博した、哀しみを帯びたメロディーとファンキーな16ビートのギター、そこにアブストラクトに音色を変えられた楽器の音が飛び交う作りです。バック・コーラスをゴスペル~R&B系で一辺倒の濃度にせずに、呟きに近い声を入れていたりして、力のこもらないクールで虚脱した感覚を与えます。
 強引に言うと、これは『アヴァロン』の一種のリ・メイク/リ・モデルではないでしょうか。そこは面白いし、魅力を感じます。
 
 けれども、断片的なメロディ―の繰り返しとそれを歌うヴォーカルの陶酔が聴き手を大きく巻き込むまでにはいたっておらず、どこか精巧に作られた調度品を眺めているような、よそよそしい気分にさせたりします。もっと厳しく言えば、マンネリを匂わせるんです。私のようなファンにはこれでいい。ちょっと味が足りないけれどいつものフェリーだなと安心して身を任せていられますが、これをもって新しいファンを増やすだけの力には乏しいと言わざるを得ません。
 ただ、新規開拓なんか知るか!というファンには(じつは、私にもそういう気質はあります・・・)、これはじつに心地よい。なんか、聴いていると、自分がどんどんダメになっていってしまいそうで、気持ちいいです。このアルバムの最大のセールス・ポイントは、フェリーが休暇中に再会したブライアン・イーノが参加していることでしょう。しかし、そんなことすら、どうでもよくなってきます。
 
 たしかに重力から切り離されたようなサウンドにはイーノの影が垣間見えます。実際に音響面で効果をもたらしている部分は多いようです。けれど、聴いているあいだはそれも忘れます。Wildcat Daysではなんとフェリーとイーノが曲を共作しているのですが、”俺たちがヤマネコだった頃”と歌われていてホッコリさせるにもかかわらず、2人が和解して一緒に音楽をつくっているのだという感激はあまり沸き起こりません。とにかく、全てが何もジャマしない音楽。
 そういうアンビエントなところを”環境フェリー”などと呼んで悦に入っている私みたいな人は、これを聴いてどんどんダメになっていけばいいんです。堕ちましょう。そうでない人にとっては、ひたすら粥ばかり食わされてるようなアルバムです。
その4に続きます)