アヴァロンは黒門市場にあった(ブライアン・フェリー@なんばHatch、2019年3月11日) | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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 ブライアン・フェリーが大阪の黒門市場に降臨!
 ワールド・ツアーの日本公演が始まる直前に、こんな写真がネット上を飛び交いました。
 ”大阪の台所”として知られるコテコテな商店街に、満面の笑みを浮かべて立つ英国一の伊達男。
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 デヴィッド・ボウイにも似たような写真があります。1980年頃に京都の町で撮られた写真。それがカッコいいんですよね。見慣れた商店街をベルリンの街角に変えてしまう。
 当時のボウイと現在のフェリーとでは年齢やキャリア上の段階に違いがあるとは言え、醸し出されるものがこうも違うとは。
 まるで大学教授が退官後の観光旅行で日本を訪れたみたいなフェリーの佇まい。ヌボ~ッとして、ノソ~ッとしている。
 もちろん、73才のブライアン・フェリーもカッコいいです。17才の頃に彼の作るラヴソングに感化された私にとって、ブライアン・フェリーはデヴィッド・ボウイ以上に大きな存在なんです。
 だからこそわかると言いますか、ダンディに決めている時も、いつもどこか隙があって、なんか天然という感じもします。あの独特のセンスで細部まで統一されたアルバム・ジャケットや音楽がこの人から生まれてくるのは、逆にリアリティがある。

 いいライヴでした。88年のツアーから何度か観てきたなかでは、いちばん素直に楽しめたブライアン・フェリーのライヴでした。
 じつは、あまり期待していなかったんです。今世紀に入ってからも新作は出るたびに聴いていたし、最近のオールド・ジャズ様式のアルバムも面白かったんですが、なにせ声の衰えは否めない。歌はもともとヨレヨレが芸風みたいな人だけれど、ここ15年のアルバムはエグみという点では後退しています。
 それでも私にとっては最愛のミュージシャンですから、枯れたのなら枯れたでこの目で確かめたい、だって次に来てくれるとしたらフェリーは80才になるんじゃないか?などと考えて、観に行くことにしました。
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(コンサート・プログラム。美麗フォトを添えてソロ・アルバムのディスコグラフィーが英文で解説してあります。)

 一曲目がロキシー・ミュージックの名盤『アヴァロン』からのThe Main Thingです。二曲目は1985年のソロ・アルバムから、わが青春のテーマ・ソングでもあったSlave To Love。その次もやはり同じアルバムのDon't Stop The Danceです。セット・リストを振り返ると、2002年のアルバム『フランティック』に収録されていたボブ・ディランのDon't Think Twice, It's Alrightを除けば、1987年の『ベイト・ノワール』からの曲が最新ということになります。
 客席はほとんどが50代から60代とおぼしき高齢ぶり。私もその年齢層に入るわけで、自然と体が反応する曲ばかりでしたが、もうちょっと新しめの曲があってもよかった気がします。
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 けれど、演奏はとても良かった。ギタリストはクリス・スペディング一人で、ブリティッシュ・ロック・ギターの気骨がそのリズムから迸ります。ロキシーの原曲ではフィル・マンザネラが弾いていた変なタイミングのフレーズも、彼の手にかかると鉄火肌の熱さで斬りこんでくる。
 ベース、ドラム、キーボード、コーラスの女性二人、ヴィオラの女性と、編成が紡ぎ出す音のニュアンスは予想した通り。そんな中に投入されたサックス奏者のジョージャ・チャーマーズ、彼女がライヴの華となってイキイキとした弾みを盛り込みました。
 まあ、この人の見て嬉しく聴いて楽しい華やぎには特筆すべきものがありまして、ロキシーにおけるアンディ・マッケイとブライアン・イーノの役割を同時に担っています。ルックス面でもブライアン・フェリーのMVから抜け出てきたかのようなグラマラスな匂いを振りまき、サックスはアンディ・マッケイよりもずっと上手くて、しかもアンディ・マッケイの持っていた下世話な音色もちゃんとトレースしていました。
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 (*以下、私の認識不足により、バンドのメンバーを大々的に誤って記載しておりました部分を4/14に訂正しました。お詫びいたします。そして、コメント欄にてわざわざご指摘とご教示くださった方に感謝いたします。)
 ジェリー・ミーハンのベース、ルーク・バレンのドラム、このリズム・セクションの上手さが支えます。
 クリス・スペディングの存在と硬質なギターのドライヴ、ジョージャ・チャーマーズのサックス、それにマリーナ・ムーアのストリングスによって、中期から後期のロキシー・ミュージック、もしくは77年のブライアン・フェリー・バンドを彷彿とさせるスタイリッシュかつ動的なノリが生まれます。ライヴが進むにつれて、そのノリはブリティッシュの香りとなって会場を満たしていきました。
 言うなれば、着崩しのセンス、ということかもしれません。いい具合に隙があって、それが他にはマネできないユニークな煌めきを放つ。ビシッと一貫した美意識の中にさりげない乱れが入っていて、その乱れが陶酔の花を咲かせるんです。それ即ち、ブライアン・フェリー。

 曲によっては、着崩しがイマイチ不発だった場面もありました。
 たとえば、みんな楽しみにしていたであろう、More Than  This。とっ散らかって、取り留めのない演奏で残念でした。この曲にかぎらず、全体に尺を簡潔に切り上げる傾向があり、それが時にダイジェスト的な物足りなさを覚えさせたりもします。
 しかし、そこからAvalonを挿んでバンドは調子を取り戻し、Love Is The Drugへと突入して、Re-Make/Re-Model、Editions Of Youとアッパーに畳み掛ける終盤は、初期ロキシーのタテノリの狂おしさの渦に客席を巻き込みました。Re-Make/Re-Modelなんか、知性がタガを外したような原曲の猥雑さがほぼ完全に再現されていました。
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 グラム・ロック・ブームの真っ只中にプログレとニューウェイヴを橋渡しする音楽性のロキシー・ミュージックでデビューし、パンク~ニューウェイヴの時代を迎えると、しなやかでソフィスティケートされたロックの極みである『アヴァロン』に向かっていったブライアン・フェリー。そこにはコール・ポーターのスタンダードからの影響もあれば、ソウルやファンクの16ビートもあるし、エルヴィス経由とおぼしきカントリー・バラードも歌えば、いつも真ん中にはボブ・ディランが鎮座してます。
 いろんなジャンルが入り混じっていながら、常にブライアン・フェリー以外のなにものでもない、ゴージャスでいて虚無的な音の感触。それは変わっていませんでした。

 個性的な歌唱スタイルが寄る年波にかなわなくなってきた現在は、バンドのミュージシャンを的確に配し、ライヴを大きなカンヴァスに見立てて絵を描いているかのようです。
 とくに今回、ジョージャ・チャーマーズのサックスから繰り出される音や彼女の演奏する姿に、フェリーの視線が絶えず注がれているような感覚を私はおぼえました。ニヤついている私の目がブライアン・フェリー的な目で彼女を見ていることに途中で気づいたのです。
 フェリーのファム・ファタール観がそれほど強く私の感性に根を下ろしているからでもありますが、チャーマーズがステージを颯爽と闊歩すればするほどフェリーのヘナヘナが際立ち、そこに被虐的で甘美な敗北感の匂いがしました。ロキシー・ミュージックのジャケットを眺めているかのよう。それまでに観てきたフェリーのライヴに比べて綻びも指摘できる今回がとても楽しめた原因も、そこにありそうです。
  終盤はおなじみのJealous Guyのカヴァーでフェリーのみがいったん退場し、続けざまのLet's Stick Together(これもカヴァー)で座長が戻ってきました。アンコール・タイムを省いたこの構成も私には心地よく、ラストはリズム&ブルースのラフな力強さで締めくくってくれました。
 Jealous Guyの時には、目を閉じて思い入れたっぷりに口笛を吹くフェリーの上からミラーボールが降りてくるという、田舎芝居も真っ青のベタな演出がありました。ジョン・レノンのオリジナルが湛えていたロック的なせつなさとは随分と趣きが異なります。
 しかし、男のヤキモチって、こういうもんじゃないですか?非常に情けないし、失敗したお好み焼きみたいなもんです。けれども、このブザマでメソメソしたセンチメンタリズムは、恋することの不如意に為す術をなくした男心には必ずあると私は思います。

 ライヴが終わると、ふだんは速足で会場をあとにするところを、いつになく破顔したまんまでロビーをうろついていました。かなり呆けた笑顔だったはずです。
 ブライアン・フェリーのライヴを観るのは、もうこれで最後になるのかもしれません。
 聴きたい曲はほかにもありました。Tokyo JoeのかわりにLove Me Madly Againをやってほしかったとか、Take A Chance With MeやVirginia Plainなんかも・・・でも、これでいい。満足しました。このグレイテスト・ヒッツ的なセット・リストは、私の人生のグレイテスト・ヒッツでもあるのだから。
 トート・バッグもプログラムも買ったし、この難波の地を私のアヴァロンとして心に刻むことにします。

          Bryan Ferry/ Avonmore