80年代「TV洋画劇場」日記(1981~1986)・1983年6月 番外編:『戦場のメリークリス | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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 「80年代『TV洋画劇場』日記」の1983年(昭和58年)6月編です。今回の記事ではテレビで見た映画のことを回顧する前に、番外編として、その月に劇場で観た『戦場のメリークリスマス』の事を書きます。
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 大島渚監督の新作『戦場のメリークリスマス』が日本とイギリス、オーストラリア、ニュージーランドの合作となり、そこにデヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけしが出演するというニュースを最初に知ったのがいつだったのか、定かではありません。この座組みであれば『キネマ旬報』のみならず新聞でも報道されたはずですし、『スクリーン』や『ロードショー』といった映画ファン雑誌に記事が載っていたのは私もおぼえています。

 なにしろボウイ、教授、たけしの名前は83年の若者に強くアピールする力を持っていました。
 アルバム『レッツ・ダンス』の世界的な大ヒットで、それまで彼を信奉していたロック・マニア以外にも知名度が広がったデヴィッド・ボウイ。
 YMOのヒットソング「君に、胸キュン。」がテクノ・ポップの枠を超えて人気を集め、ポップ・カルチャーを牽引するカリスマでもあった坂本龍一。
 漫才ブームの頂点から芸能界のトップへと猛烈な勢いで駆けあがっていく時期にあり、新しいお笑い芸人像を築きはじめたビートたけし。
 YMOはこの年の暮れに”散開”しますし、ボウイ、教授、たけしの三人はそれぞれにキャリアの新しいステージに差し掛かっていました。彼らが一堂に会する映画となると話題には事欠きません。
 『戦場のメリークリスマス』は公開前からその話題性が大いに先行した作品であり、パルム・ドール受賞を逃したカンヌ映画祭を経ての公開中も、あの印象深いテーマ曲の効果もあって注目されました。あれからもう三十五年以上もたちますが、今でもこの映画についてはテーマ曲と上記三人の共演が真っ先に語られます。こうした話題性は時がたてば副次的な事柄へと変わっていくものを、『戦メリ』に関してはその話題性の効力がいまだに衰えていません。

 大島渚という映画監督が83年の若者にとってどんな映画人であったか。
 ほとんどの若者には、映画監督と意識されたことはありませんでした。
 『戦メリ』の前に話題を呼んだ大島作品は阿部定事件を題材にした1976年の『愛のコリーダ』でした。しかし、83年の若者が『愛のコリーダ』を子供の頃に見ているはずもなく(レンタル・ビデオがないに等しかった時代です)、仮にタイトルに聞き覚えがあったとしても裁判沙汰になったエロいお騒がせ映画だとの認識を出ませんでした。続く1978年の『愛の亡霊』も素晴らしい作品ですが、センセーションという意味では『愛のコリーダ』に及びません。
 また、80年代の大島渚はワイドショーなどに頻繁に出演し、和服を着て笑みを浮かべながらコメンテーター役をつとめるその姿からは、『太陽の墓場』や『絞死刑』などの切っ先の鋭い告発は想像できませんでした。私は82年の中学三年のときに大島の『日本の夜と霧』に興味を持ったのですが、機会がなくてまだ作品自体を見ておらず、”60年安保をめぐるディスカッション劇”との解説を読んでワクワクするだけでした。すごく見たかったのだけど、『戦メリ』以前には大島作品を一本も見ていませんでした。
 要するに、大半の若者は大島渚の映画をよく知らなかったのです。ワイドショーで見かけるオジサンでしかなかった、と言ってもいいでしょう。
 大島渚の映画はタイトルが優れています。『愛のコリーダ』や『日本の夜と霧』『絞死刑』のほかにも、『青春残酷物語』『無理心中・日本の夏』『儀式』『新宿泥棒日記』『日本春歌考』・・・どれも知性と闘争心が一点に絞られて漲っています。私もとくに若い時分にはこれらのタイトルを眺めるだけで血がたぎるような衝動をおぼえました。
 そこに来ての新作が『戦場のメリークリスマス』。大丈夫かいな?と訝みました。
 この映画にはローレンス・ヴァン・デル・ポストの原作小説があって、そちらには『影の獄にて』というタイトルが付けられています。『影』の『獄』ですよ。ダンゼンこっちのほうが大島っぽいじゃないですか。なんでまた『戦場のメリークリスマス』なんてタイトルにしたんだろうと思いました。だって、『戦場のメリークリスマス』ですよ。敵同士が矛をおさめて、しばしの休戦を祝いあっている、図式的にヒューマニスティックな絵しか思い浮かびません。当時の日本の戦争映画だったら『南十字星』とか、ホントにそういうハナシを撮るのかと、私は大島作品をまったく見ていなかったにもかかわらず心配になりました。
 たぶん、私が危惧したような内容を逆に期待して劇場に足を運んだ人も多かったかと思います。
 そういう人は実際にこれを観て、どう感じたんだろう?
 それっぽい雰囲気が味わえるのは映画の途中とラストのみですし、それも非常に苦く、厳しさをもって描かれています。ラストのたけしのクロース・アップは涙を誘いますが、それは直後に流れるテーマ曲の力でもあります。あの曲がなかったら、もしくはテーマ曲がああいう旋律と和音じゃなかったら、最後のたけしの笑顔は全然ちがう後味を観客の心に残し、きっと多くの人は割り切れない気持ちを抱えたまま劇場を出て行ったでしょう。たけしは音楽の入っていないラッシュの段階で全編を鑑賞した際に、ラストの自分の演技に落胆し、「フィルムに火をつけようかと思った」と述べています(さらに、「役者のいちばん見られたくない部分を引き出すのが映画監督なんだと痛感した」とも)。
 いちおう断っておきますが、私は『戦メリ』をケナしてるんじゃないんです。大好きな映画なんです。
 けれど、大島渚のフィルモグラフィーには、これより凄い作品はほかにあるとも思っています。少なくとも、『戦メリ』は突出した傑作ではない。
 それどころか、困惑させられる箇所も散見されます。国籍の異なる男たちが反目しあったりトキメいたりしながら、その軋轢が集束してゆくドラマ性に乏しい。『戦場にかける橋』の鉄橋爆破とまでは言わずとも、作劇上のクライマックスに欠いていて、ボウイ演じるセリアズの回想みたいなシークエンスが間延びして描かれていたりする。
 いや、なによりも、日本のインテリジェントな監督が作ったのが信じがたいほどに、日本人の描写が変です。途中で何度も、頬っぺたを蟻ん子が這っているような気恥ずかしさをおぼえたりしました。
 でも、それを上回るくらいに異様な迫力と魅力を放つ意欲作であるのも確かなのです。
 その源は、やはり主要三役にローレンス役のトム・コンティを加えたキャスティングの妙にあります。
 この作品を先ほど見直して、相変わらずダレる部分はあったけれども、映画が始まると最後までこの四人をじっと見てしまう自分もいました。
 デヴィッド・ボウイはこれ以前にすでに映画に出演していましたが、もちろん本職の俳優ではありません。『地球に落ちて来た男』にしても『ジャスト・ア・ジゴロ』にしても、演技というよりは彼自身のアーティスティックで特異な存在感に語らせる度合いが高い映画でした。
 ビートたけしも主演映画(『すっかり・・・その気で!』1981年)や『刑事ヨロシク』などのドラマ主演作があったとはいえ、軸足はあくまで漫才とテレビのバラエティ。じつは、たけしと映画の縁は意外に古くて、1970年前後の若松孝二監督のピンク映画にエキストラ的な出演歴があります。これは若き日の彼がどういう時代の波を受けていたかという点で興味深いことです。
 坂本龍一はまったくの演技初体験。なんと撮影でセリフをおぼえなければならないという事も知らなかったそうです。そんな教授が出演のオファーを引き受けたのは、サウンドトラックの作曲を申し出て快諾されたことと、彼が青春時代に大島の『日本春歌考』を見て感激したからで、確かにあの作品は凄いし、ここにも坂本龍一のアートとの関りの由縁を見ることができます。
 つまり、この三人は演技に関しては本業でなくとも、それぞれの表現にどこか大島渚の映画と共振するものを持っていたんですね。とくに、超売れっ子漫才師だったビートたけしがこれに当てはまったというのは、彼の映画監督としてのキャリアにも繋がっていくだけでなく、日本人のお笑い芸人に対するイメージを変えてしまうほどの出来事でもありました。そして、テレビで(現在とは比較にならないほどの)速射砲の語り口で毒づいていた彼のそんな資質を大島渚が見抜いていたのも、とんでもない慧眼だったと言えます。
 これら三人を受けるのがトム・コンティです。主演の三人の役はどれも何を考えているのかよくわからない人物でして、とりわけボウイのセリアズと教授のヨノイ大尉は微細な感情をあきらかにしないままにイチャイチャしてます。「もう、YOUたち、つきあっちゃいなよ!」と言いたくなる。たけしの演じるハラ軍曹は日本人のダメなところを体現していて、我々には理解しやすいキャラクターのはずなんですが、大島はそれをも突き離して西洋的な視点に近づき、これも掴みにくい人間像です。
 スコットランドの演劇学校で正式に学んだトム・コンティの演技は、こうしたよくわからない三人のよくわからない言動をリアクションで解きほぐして観客に提示します。浮世離れした男たちの物語を、地に足のついた”The 演技”で受け止めているのです。
 大島渚は本作のキャスティングに当初はべつの構想を描いていたそうです。
 ボウイの役はロバート・レッドフォード。教授の役は沢田研二。たけしの役は緒形拳。実現していたら『戦メリ』はまるでべつの作品に仕上がったことでしょう。
 レッドフォードは1980年の『ブルベイカー』で刑務所内の待遇改善に挑む男を演じており、またアメリカン・ニューシネマでのキャリアを考えると、真っ当に反体制を主張するヒーロー的なセリアズとなった可能性があります。
 沢田研二は『魔界転生』で天草四郎を演じた後で、これはまあヨノイ大尉のキャラクターとの齟齬は比較的少ないですね。でも、ジュリーだと悲愴感が出ちゃうかなと思います。
 緒形拳のハラ軍曹は、かなり微に入り細を穿って演じたんだろうなと想像できます。生活感のある人間臭さはビートたけしをはるかに凌いでいたことでしょう。しかし、日本人のどうしようもない不確かな感じは出ませんね。
 レッドフォードは脚本を読んで、「大島からのオファーは嬉しいし、こういう映画づくりに臨む姿勢には敬意を表するが、この作品はアメリカの観客には難しすぎる」といった理由で丁重に断ったそうです。このとき、大島渚の中で「ハリウッド・スターやプロの役者ではダメだ」との考えが固まったのではないでしょうか。荒木一郎や横尾忠則や本物のフーテン娘を主演に据えた作品を撮ってきた大島です。キャスティングはそこから大転換をとげ、ほかに候補があったなんて考えられないくらいの、現行の形になりました。
 公開前から話題と注目が高まる中で出品したカンヌ映画祭では、パルム・ドールを同じ日本の『楢山節考』に持っていかれました。さらにその『楢山節考』には受賞直後の主演の坂本スミ子にスキャンダルが降りかかるという二重のオチまでついて。
 カンヌでの下馬評は『戦場のメリークリスマス』が有力で、山本寛斎デザインのOHSHIMA GANGシャツを着て意気揚々とカンヌに乗り込んだ『戦メリ』組でしたが、当時高校生だった私の感覚でもそれはちょっとハシャギすぎじゃないのかと不安になりました。
 83年にラジオ番組『おすぎとピーコのスキャンダル・ナイト』に出演した坂本龍一は、受賞を逃した瞬間について、このようなことを語っていました。
 ”(受賞の発表を)みんなでレストランで待機していた。ラジオが会場から中継していて、いよいよという段になって「ジャポネ!」という声が聞こえて、レストランじゅうのお客さんがワーッとなって。「オーシマ!」とか握手を求めてくるし。そしたら、向こうのほうから、なにやらヒソヒソと黒いささやきが伝わってきて。その中に「ナラヤマ、ナラヤマ」の声が聞こえてきて、だんだん大きくなった。もう、みんな泣いちゃうし。ぼくはわりと冷静で、大島さんは気丈に振る舞っていたけど。”
 よくよく考えると、封切はカンヌで逃した後だったんですよね。でも、それが感想に影響した覚えはありません。非常に特殊な人間ドラマで、また出来栄えにギクシャクした面もあって、それでもなお惹きつけられる映画、というのが当時の私の感想でした。基本的には今もそれに変化はないです。
 付け加えるなら、なにかを確認したくて観に行ったという気がします。それがなんだったのかは、上手く言い表せない。あの曲をスクリーンで聴きたかったのもあるだろうし、ボウイ、教授、たけしが並ぶ大島渚の作品が発する強い磁力も大きかった。
 大島渚の映画ではこの後に作られた『マックス、モナ・ムール』のほうが面白いです。けれど、その面白さと『戦メリ』の魅力はまた別のものなんです。強いていえば、お祭りの高揚感。

 『戦場のメリークリスマス』が1983年に公開されたことは、さまざまな波長が非常に幸福な形で重なっての、ある種のイベントでもあったのです。じつに1983年らしい映画だったし、当時を知る者には時代の空気とともに記憶を呼び起こされる作品です。
 封切の初日だったか、東京の映画館で舞台挨拶がおこなわれたときに、詰めかけた若者たちが大喝采で大島をロック・スターばりに迎えたと聞きます。最初に書いたように、83年の大島渚は決して一般の若者に好まれる映画監督ではなかったんです。同じ舞台に立っていた坂本龍一によると、大島は若者たちの熱い歓迎に狂喜の態で応えたそうです。
 大島はこの作品によって『キネマ旬報』での「読者選出監督賞」を受賞しました。批評家ではなく映画ファンに選ばれたことに、大島は「私が受けた最高の栄誉である」とコメントを寄せていました。彼がタイトルを『戦場のメリークリスマス』にして届けたかったのは、もしかしたら普段は大島渚の映画からは遠い人たちだったのかもしれません。となると、この映画は大島にとっての『レッツ・ダンス』だったのか。読者に選出された監督賞を手にして、大島は本当に嬉しかったんだと思います。