名盤と私 20: Yellow Magic Orchestra/ Solid State Sur | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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 1980年(昭和55年)は1月1日にリリースされた1枚のシングルで幕を開けました。
 日本中の誰もが知っているスーパースターが放ったヒット曲です。それまでも斬新なファッションとメイクで話題を呼んできた彼の新たな試みは、テクノポップ調のアレンジを施したロックンロールを、電飾で光るミリタリールックにパラシュートを背負って歌うという、きわめつけに歌舞いたド派手なもの。そう、日本の80年代は沢田研二の「TOKIO」に乗ってやって来たのです。
 作曲者の加瀬邦彦は、前年に発売されたイエロー・マジック・オーケストラの「Technopolis」に触発されてこの曲を書いたそうです。「TOKIO」を1曲めに収録した沢田研二の同名アルバムは79年の11月にリリースされています。ジュリーには歌謡界の先陣を切って新しい十年に乗り込む勢いと圧倒的な華がありました。

 当時の私は小学校の卒業を数か月後に控えた6年生でした。
 テレビの歌番組はしょっちゅう見ていたし、ラジオで洋楽のヒット曲にも夢中になっていたのですが、まだ意識的に音楽にのめりこむまでにはいたっていません。そんな小学生のアンテナには、沢田研二やゴダイゴやサザンオールスターズやCharくらいまでは入ってきたし、ナックにブロンディにチープ・トリックといったあたりも自然に引っかかってきたけれど、イエロー・マジック・オーケストラのことは全く知りませんでした。もちろん、細野晴臣、坂本龍一、高橋ユキヒロなんて名前すら聞いたことがありません。

 最初に「それ」をくらったのは、発売日から考えると、中学に入って少し経った6月だったようです。
 小学校からの友人の家に遊びに行ったとき、居間にあった古びたステレオ・セットでシングル盤を聴かされました。ジャケットには『大空魔竜ガイキング』のような、あるいはサイボーグのような顔が横を向いて描かれており、”ライディーン”とのタイトルが読めました。それを見た私は、(こいつ、まだ『勇者ライディーン』みたいなロボット・アニメの主題歌を聴いているのか…)と蔑む気持ちをおぼえました。いい加減に小学生から卒業しろよ、と。

 レコード盤に針が乗っかり、「それ」はロボットどころか誰も撃退方法を思いつかない怪獣のように暴れ、部屋の空気を乱しました。80年代が本当の意味で私の日常生活に到来した瞬間です。同時に私の子供時代はそこで終わりを告げました。
 「それ」が何なのか、聴いているあいだじゅう考えてもわからない。いちばん近いと感じたのは、下校途中に寄り道したゲームセンターでよく興じた「インベーダーゲーム」や「平安京エイリアン」や「ギャラクシアン」です。なぜか『スター・ウォーズ』を連想しなかったのは、あれが古典的なロマンの世界だからでしょう。

 自分が知っている音楽のイメージでは、イージー・リスニングや映画音楽やディスコ・ミュージック、それに漠然とフュージョンってこんなのかな?と結びつけそうにもなりました。けれど、どれとも違う。だいたい、「それ」がマジメにやっているのかフザケて作られたのかもわからない。どっちとも受け取れる。
 「これ、なに?」「イエローマジック」「もう一回かけて」「いいよ」「これ、貸して」「まだ、ダメ」。
 ダメと言われて初めて、私は「それ」を求めている自分に気づきました。でも、理由は不明。久保田早紀の「異邦人」のようにジャケットに綺麗なおねえさん(ホンットに綺麗だった!)が写っているわけでもなし、ナックのMy Sharonaのように景気のいいギター・リフがあるわけでもなし。
 理由がわからないまま、私にとって謎の物体だったイエロー・マジック・オーケストラは歌番組でもよく見かけるようになり、そこでは「海外でも人気!」と紹介され、スネークマン・ショーとのコラボによる『増殖』がクラスでも話題になりだしました。
 じつにもう、ワケがわからない。なんなんですか、この人たち?
 彼らの情報が少しずつ集まり、最初はどこの馬の骨とも知れない(!)と思っていた3人のオジサンたちが、意外と玄人には名前の通ったひとかどのミュージシャンだとわかって、これまたビックリ。そして件の友人からようやくレコードを貸してもらえたのは、たぶん夏休みも半ばを過ぎていた頃だと思います。

 「それ」は知らないあいだにドーナツ盤のシングルではなく、33回転のLPレコードへと形を変えていました。79年に出たアルバムを彼も手に入れたのです。で、ジャケットを見て、また混乱する。中国人みたいな恰好をしてマネキンと一緒にテーブルを囲んでいるヤツです。
 針を落とすと聴こえてきたのは「トキオ…トキオ…」の変な声です。機械にしゃべらせている!と思いこみました。それがアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』との出会い。はじめて「Rydeen」を聴いてから1~2か月しかたっていなかったのに、「Rydeen」や「Technopolis」の演奏を、前よりも「フュージョンっぽいな」と思いました。短期間でなにを吸収してきたのか、それだけ12歳の感性は急速に育っていたのでしょう。
 ただし、このときに親戚のおじさんがたまたま「Rydeen」を耳にして言った「ベンチャーズみたいだな」との感想を理解できなかったのは悔やまれます。そうだ、「それ」は日本人にとってベンチャーズ以来のインストゥルメンタル・ポップの襲来でもあり、イエロー・マジック・オーケストラの奏でるピコピコは私たちの世代にとってのテケテケでもあったのです。

 『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』は、まずA面頭の3曲が躁状態のにぎやかさで、しばらくはそればかり繰り返し聴きました。「Technopolis」「Absolute Ego Dance」「Rydeen」。このアッパー3連打が私に与えた新しい感覚、無機的な音の気持ちよさへの目覚めはそれまで歌謡曲や(もしかすると)洋楽ヒット曲でも味わったことのないものでした。
 逆にいうと、イエロー・マジック・オーケストラに慣れてからほかの音楽に耳を傾けると、自分がどれほど人肌あたたかい感触のサウンドで育ってきたかを思い知らされます。そのことは当時からすでにマスコミでテクノロジー崇拝への警鐘じみたニュアンスを持って指摘されたり批判されたりしました。そして、そういった声を聞くと、自分が「大人にはわからない」感性を持った側にいるのがむしろ誇らしくもあり、当時の言葉でいうところの「ほとんどビョーキ」もしくは「ヘンタイよいこ」の旗印を掲げたくもなりました。

 このアルバムの密やかな宝は、A面B面それぞれを疾走するアップテンポのナンバーに挟まれるように置かれた「Castalia」と「Insominia」の美しく静的な2曲の存在です。とくに「Castalia」は彼らのディスコグラフィー上でも最高のひとつと言える名曲で、あやしく捩じれたコード進行から湧き立つ重厚でミステリアスな匂いは際立っています。
 しかし、中1の私にはこの稀代の名曲も退屈な箸休めでしかありませんでした。私はもっと明瞭で調子のいいメロディーと軽快かつ問答無用で追い立てるビートに乗って、いわば彼らと一緒に世間を嘲笑っている気になりたかった中坊でしかなかったのです。彼らが放っていた、「アーティスティック」というより「アカデミック」な佇まいのポップな鋭さにも、まだ手が届かない塩梅でした。あれをちゃんと受け入れるだけのセンスが培われていれば、80年代初頭はそのお祭り気分をもっと身近なものとして謳歌できたのかもしれません。

 なんだか世の中が急激に明るくなり、いろんな物事が軽くなっていった1980年。あの気分を21世紀の現在に説明するのは難しい。
 私は70年代の空気なんか、缶蹴りや草野球の思い出しかないから、よく知らないはずです。それでも、なにかが楽しくそして病的なものに変わっていく鳴動をどこかで感じ取っていました。

 『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』は大ヒットしたアルバムです。イエロー・マジック・オーケストラは時代の寵児となり、とくに坂本龍一は女性の黄色い声援を一身に浴びるアイコン的な人気も集めました。じつに多くの人がこのアルバムを手に入れたのは、今でも私から上の世代が彼らの名前を聞くと「Rydeen」のイントロを口ずさめることが証明しています。
 その中の何割かは彼らとサブカルチャーとの関わりに強く惹かれ、大多数のいる場所からはぐれて、一人になっていきました。私が「Castalia」の響きに多少なりとも親しめるようになったのは、内省的な『BGM』や実験的な『テクノデリック』といったアルバムを経て、グループの散開も近づいた活動末期です。
 その頃には、もう「Rydeen」を聴いても無邪気に心を騒がせた「それ」は見当たらなくなりました。細野、坂本、高橋の3人はポピュラリティという点でも広い層から確固たる文化的な意味を持って認められるようになり、イエロー・マジック・オーケストラはYMOと略して呼ぶのがとっくに当たり前になっていました。