Bryan Ferry / Avonmore (2014) | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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 なんとブライアン・フェリーの新譜が輸入盤で出ているそうではないか。これはいかん、フェリーさんの今年のアルバムなら今年のうちに手に入れて、ヘナヘナ、クネクネしなければ、とタワレコに買いに走った。
 
 この新作『アヴォンモア』(Avonmore)が、かなり良いのである。オリジナル・アルバムとしてはもう4年前の作品になる『オリンピア』も充実していたが、あれ以上に気に入った。
 
 アルバム・タイトルのAvonmoreはアイルランドに同名の土地があるらしい。しかしこれはロンドンのケンジントン・オリンピアの、フェリーのプライベート・スタジオ(Studio One)が入っているAvonmore placeのことで、前作『オリンピア』と今作はおもにこのスタジオでレコーディングされている。
 もっとも、『オリンピア』もそうだったように、フェリーのようなアーティストの場合はとくに、実在の地名にとらわれる必要はない。私がこのタイトルの字面を見て真っ先に頭に浮かべたのは、やはりロキシー・ミュージックの『アヴァロン』だった。
 
 ブライアン・フェリーのキャリアを、個人的には82年に『アヴァロン』でロキシーを終結させてから95年の『マムーナ』まででひと区切りと見ている。
 『アヴァロン』は「レコーディング・アートとしてのロック」をきわめたアルバムだった。完全なソロ・キャリアのスタートとなった85年の傑作『ボーイズ・アンド・ガールズ』でさえ『アヴァロン』にはかなわない、という見かたをされるほどだ。
 ブライアン・フェリーの、スタジオで時間をかけて音のディテールをこねくりまわし、偏執狂的なまでに緻密に築き上げられたアルバムを作る人、というイメージはこの(言うなれば)「アヴァロネスク」な時期に定着したと言っていい。
 そうやって出来上がったものが、ゴージャスでありながら虚無的にも響く、独特の色気に満ちたスリリングな音であることも、もはや保証書つきとなった。私もこの時期にロキシー・ミュージック初期からその音楽にどっぷり浸り、フェリーさんは最愛のミュージシャンの一人となった。
 
 ブライアン・イーノと久々に邂逅した『マムーナ』の後、フェリーはもう少しリラックスした姿勢でアルバムを作るようになる。
 99年の『As Time Goes By』は彼が過去に放った「異説」とも言うべきユニークなカヴァー作品よりずっと直球のジャズ~スタンダード集だったし、2002年の『フランティック』は70年代の「ブライアン・フェリー・バンド」にふらりと立ちかえったようなバンド・サウンドを聞かせた。2007年の『ディラネスク』では、さらにそれをボブ・ディランのカヴァー・アルバムの形で展開してみせた。私にとって、これらは肩すかしな点もあったけれど、演奏はシャキシャキして気持ちがよく、「今はこういうことをやりたいのだな」と受けとめた。
 ただし、『As Time Goes By』ではまだ気にならなかった彼の歌声の加齢による変化には、『フランティック』『ディラネスク』と追うごとにネガティヴな気持ちを持ってしまった。
フェリーはもともと声量や音程にすぐれたシンガーではない。そこは不問なのだが、あのヌメっと気色の悪い個性的な粘り気が枯れていくのは寂しいものがあった。
 
 ところが、2010年の『オリンピア』では「アヴァロネスク」期のサウンドが復活する。いや、1曲めのイントロなんか、もろ『アヴァロン』だ。よもや65歳になってこれをやるとは思ってもみなかったので驚いた。自分のキャリアの結び目を固く結びなおす、そんなフェリーさんが嬉しくて私もこのアルバムを歓迎した。
 
 今作の『アヴォンモア』は、『ディラネスク』の頃の自然体と『オリンピア』での緊張感のバランスが絶妙で楽しめる。曲のイメージは『オリンピア』の流れを引き継ぎつつ、リズムの聞かせかたはもっとシンプルになっている。クールなファンクのOne Night Standなどにそれが顕著だ。
 
 ほぼ全曲で弾いているジョニー・マー(『ベイト・ノワール』以来の参加)を筆頭に、ナイル・ロジャース、ニール・ハバード、マーク・ノップラー、それにクリス・スペディングらを含むギタリスト9人の布陣は今回も豪華で、彼らの音をアブストラクトなまでに像をぼやかしてあちこちに「塗り含めて」いるのも、フェリーの変わらぬ絵画的な作風としてもはや伝統芸能的に味わえる。ちなみに、リズム・ギタリストとしてライヴにも参加しているスティーヴ・ジョーンズはセックス・ピストルズのあの人ではない。
 
 さらに、マーカス・ミラーをアルバム全編を通じての重心に据えつつ、レッド・ホット・チリ・ペパーズのフリーをはじめ複数のベーシストを起用している。マーカスにコントラバス奏者2人を加えて全編ベース音がプヨプヨと漂っているSend In The Clown(「悲しみのクラウン」のカヴァー!)みたいな曲もある。
 
 私が今作でもっとも気に入ったのは、三男のタラ・フェリーくんを中心に、アンディ・ニューマークらベテランが名を連ねたドラマーたちの叩きだす明快なリズム。とくにフェリーくんはDriving Me Wildなどでの直線的なビート感がみずみずしく、フェリーさんの歌もこころなし若返ったかのようだ。70前の父親が「きみは僕の心を狂わせるんだ」とかヘナヘナ歌っている後ろで息子が叩いている図もすごいものがあるが。
 ロバート・パーマーのJohnny And Maryの秀逸なカヴァーが最後に収められており、そういえばアルバムの何曲かはどこかパーマーを連想させる趣きもある。マーヴィン・ゲイふうの曲調を持つA Special Kind Of Guyなんかは90年頃のパーマーが歌っていそうなナンバーだ。このJohnny And Maryと前述したSend In The Clown、2つはさすがのソング・スタイリストぶりで、近年のフェリーのカヴァーでも出色の仕上がり。
 
 肝心のフェリーの歌は、往年の爬虫類的なエグ味はやはり今回も薄れてはいるものの、緊張感と自然体のバランスに無理なく溶け込み、その天然のエキセントリックさが、全開とまではいかずとも、自然とじみ出てくる。
 ただ、これは人によって、「まだまだこんなもんじゃないぞ」という意見もあるだろう。それもわかるけど、私は、こればっかりはどうしようもないんじゃないかなという心境だ。クネクネ度は足りなくとも、ヘナヘナ度はけっこう高い。
 
 それから、歌詞がやっぱり、最高だ。まさにブライアン・フェリーならではの、思索の迷路をさまようラヴ・ソング。タイトル曲のAvonmoreを訳すと、だいたいこんな具合。
 
 始まりの頃とおなじように
 暗闇と雨が降ってくる前に 
 ぼくはきみの鼓動の上に頭を横たえる
 魂の短剣を覆うように
 
 落雷と雨をくぐりぬけても
 終わらない恋を手に入れたい
 でもそんな素振りをしてみせてもしょうがない
 ぼくは二度と恋に落ちることはないだろう
 
 ある朝目をさまして 
 そこが目をそむけたくなるような世界だったとしたら?
 楽しい日々が悲しみ変わるとしたら?
 自分の場所を誰かに奪われてしまったら?
 
 二人、すがりついていよう いっしょに 月明かりの下で
 河を燃やして黄金に変えよう
 毎分を毎時間をすべて数えよう
 きみの心が冷たくなるまで
 
 いいでしょう?恋愛の絶望と希望をおなじ瞬間におなじ場所で呼吸して、それが現実から夢へ、夢から現実へずり落ちてゆく感覚。これだからフェリーさんから離れられないのだ。
 
 このアルバムは、あたかも『オリンピア』で一度締めなおしたキャリアの結び目を少しほどいて見せてくれるかのようで、そのわずかに緩めた隙間から零れるものが心地いい。最初に聴いてマンネリに感じる箇所もあったけど、私はいろんな部分がクセになってリピートしている。21世紀に入ってからのフェリーさんのアルバムでは、これがダントツに好きだ。
 
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