今日はニコ生で、歌の練習しながら雑談するという週末恒例の放送をしていたのですが、前回記事(『『ツァラトゥストラはかく語りき』レビュー②~ナチズムと超人思想~』)の内容に関してツッコミのコメントを書いていただいたので、今回は訂正と補足の説明をします。

 

 で、まず前回記事の内容の訂正はオルテガに関してで、前回記事ではオルテガはナチスが誕生する前に没したと書いていますが、間違いですね。調べると死没1955年10月18日とありますので、第二次世界大戦が終わって後も生きていたようです。

 

 また、Wikipediaを見ると、

 

20世紀に台頭したボリシェヴィズム(マルクス・レーニン主義)とファシズムを「野蛮状態への後退」、「原始主義」として批判した。特にボリシェヴィズム、ロシア革命に対しては、「人間的な生のはじまりとは逆なのである」と述べている。

(Wikipedia『ホセ・オルテガ・イ・ガセット』項)

 

とありますので、間違いなくナチスを批判しています。というワケで、前回記事の内容は全面的に間違っていますね・・・申し訳ありません(。-人-。)

 

 また、私は今現在冨田 恭彦という京都大学の教授が書いた『ローティ: 連帯と自己超克の思想』という本を読んでいるのですが、ローティはハイデガーのナチス支持に関して、「政治問題について関心が薄かったためではないか?」と考えていたようです。

 

 ローティは、ハイデッガーの重要性を繰り返し認めながら、政治に対する彼の姿勢については極めて厳しい対応をしています。それが最もよくわかるのは、論文「科学としての哲学・メタファーとしての哲学・政治としての哲学」に付された注の、次の部分です。

 

 ハイデッガーは民主主義と、ヴェーバーの言う「脱魔術化された」世界に対して、早くから疑念を持っていたと私は思う。彼の考えは、確かに、本質的に反民主主義的であった。しかし、民主主義と近代に疑問を持ちながらナチ党員にならなかったドイツ人はたくさんいる。ハイデッガーがナチ党員になったのは、同じ疑念を共有していたドイツの知識人の中で、彼が際立って冷酷な日和見主義者(御都合主義者)で、しかも政治に関して無知だったからである。ハイデッガーの哲学が特に全体主義的な含みを持つとは私には思えないが、彼の哲学は、飢えた人々に食べ物を与えたり労働時間を短縮したりするなどの試みは哲学とはあまり関係がないと、決めてかかっている。

 

 ただし、この点に関して、ハイデッガーの哲学とナチス式の全体主義とは思想的に深い親和性を持つと指摘する論者も存在しますので、慎重に判断する必要があるでしょう。一応、たまたま目にした一つの解釈を紹介しただけです。

 

 ちなみにローティによると、多くのプラグマティスト哲学者が思想家の新たな思想や着想を社会のために生かすべきであると考えていたのに対して、ハイデガーはむしろ逆に社会こそが思想家や詩人や哲学者に奉仕すべき存在であると考えていたようです。

 

 詩人と思索者(いずれもハイデッガーの特殊な「エリート主義的」意味における)は、公認されてはいないものの、社会の立法者であるということに、プラグマティストもハイデッガーも同意することができる。しかし、社会は詩人と思索者のために存在しているとハイデッガーが見るのに対して、プラグマティストはそれを逆に考える。(ローティ「科学としての哲学・メタファーとしての哲学・政治としての哲学」より)

 

 つまりローティもハイデッガーも、メタファーによって「新たな道を切り開く」ことの重要性を認めるものの、ローティはそれを社会に生かすべきだと考えているのに対して、ハイデッガーはそれを「陳腐化の過程」としか見ないと、ローティは考えているのです。

 ローティによれば、ハイデッガーにとって社会の他の人々に自らの哲学が生かされるかどうかはどうでもよかったのですが、ローティ自身は「社会は詩人と思索者のために存在している」のではないと言うわけですね。(中略)ローティはまたこのことを、デューイとの比較において、「ハイデッガーは偶然ナチ党員になったにすぎないが、デューイは本質的に社会民主主義者であった」という言い方で表現しています。「偶然ナチ党員になった」。これはつまり、ハイデッガーにとって本当は社会などどうでもよかったということなのです。

 

 で、まあ再度オルテガの話に戻るのですが、確かにオルテガは間違いなくナチスとヒトラーを批判していたものの、オルテガの理想とする世界は、ヨーロッパ統一の大志のために人生を捧げる支配者とその偉大な支配者に服従する者とに分かれた世界ですので、正直言ってコレでナチスを否定しているというのが良く感覚として分かりません。ナチスは、目標が間違っていたのか?ヒトラーの能力が足りなかったのか?目標は正しかったが手段が間違っていたのか?『大衆の反逆』だけを読んでもよく分からないところです。

 

 もちろん、ヨーロッパ統一の手段には、EUのような緩やかな連合や統合といったカタチもあり得るのですが、当時の社会状況ではEUのような手段は想定されていなかったでしょうし、また現実には、各国の自主性に任せた緩やかな社会的経済的統合に関しても、様々な解決困難な経済的政治的問題を引き起こしています。

 

 ですので、今回オルテガのナチスとヒトラーへの評価に関しては訂正しましたが、しかし、オルテガの分析は優れていたものの解決策として提示した答えは微妙・・・というか、普通に間違っていたと解釈するのが妥当なのではないかという点に関しては私の意見に変わりはありません。

 

 また、支配する者と支配される者が厳然と区別された世界というのも、現在のように、専門家と一般人に間に知識量や体系的な技術体系や知識体系の有無の差はあれど、少なくともある程度平等に情報にアクセス可能となっている時代に置いて、専門家の特権性や無条件の優越が保持されることは基本的にはありえないでしょう。つまり、現代における専門家の優越とは絶えざる不断の勉学や技術体系の取得への努力によって保持される性質のモノであり、その優越の正当性は常に外部からの攻撃に晒され続けることになります。

 

 もちろん、オルテガの分析に一定の理があることは認めますが、そのような時代に置いて、この世界が支配する者とされる者の二つに厳然として分かれており、同時にそれがあるべき世界の姿であるという世界観を現代人が受け入れることはあり得ないように思います。

 

 

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