アナタが幸せであれば何もいらない -3ページ目

アナタが幸せであれば何もいらない

大切なひとを想う・・・

宮川軍曹





宮川 三郎 昭和元年6月5日生まれ 昭和20年6月6日散華
大日本帝国陸軍 第104振武隊 二階級特進、少尉任官

映画や舞台、文庫本などで数え切れないほど紹介されてきた宮川軍曹のエピソードに絡めて日記を書きたいと思います。

赤羽礼子 石井宏 著書「ホタル帰る」より抜粋、加筆修正しました。

大東亜戦争末期、敗戦の色濃くなった日本軍が取った「と号作戦」いわゆる、「特別攻撃」と言われる「特攻」に参加した若い隊員が遺した、胸を打つ話のひとつをご紹介します。
ここでいう特攻とは、10代~20代の若い隊員たちが航空機に250キロ爆弾を抱えて連合国の艦船に突入する百死零生の攻撃方法です。

宮川三郎軍曹は昭和二十年五月半ば、特攻基地のある「知覧」の富屋食堂に姿を現した。生まれは雪国「新潟」で、色白のハンサムな男だった。
一度は万世飛行場から特攻出撃したものの、機体の調子が悪く帰還した経緯があった。
生き残りの烙印を押され、不忠の汚名を着せられた宮川軍曹といつも連れ立っていたのは滝本伍長であった。

彼もまた、同じく万世から出撃し帰還した一人であった・・・。


宮川軍曹は、富屋食堂で奇跡とも言える再会を果たす。

その相手は第五十振武隊所属の松崎義勝伍長である。

松崎伍長は、宮川の故郷雪国の街、新潟県小千谷高等小学校在籍当時の良きライバルであった。2年間ではあるが、机を並べた仲である。
卒業後それぞれの道に進んでおり、まさに奇跡と呼べる再会だった。
しかし再会のわずか二日後、松崎伍長は出撃し還らぬ人となった。

いよいよ、宮川軍曹にも出撃の命が下った。

運命の日は昭和二十年六月六日。出撃の前夜は宮川軍曹の満二十歳の誕生日であった。
出撃前夜、特攻の母と呼ばれた鳥濱トメさんは富屋食堂で心づくしの手料理で宮川軍曹の誕生祝いと出撃のはなむけとした。
トメさんの愛娘である礼子さんたちは、なでしこ隊として宮川軍曹ら特攻隊員への世話をしていた。そして、出撃前日、血染めの日の丸の鉢巻きを作り手渡していた。

宮川軍曹はお礼に、当時としては高価だった万年筆を「俺だと思ってくれ」と渡した。

出撃前夜は空襲警報が鳴り響き、宮川軍曹と滝本伍長、トメさんと愛娘ふたりは防空壕へ2,3回入った。
防空壕を出た5人はホタルに見入る。

そのとき、宮川軍曹は約束した。
「小母ちゃん、俺、心残りのことはなんにもないけど、死んだらまた小母ちゃんのところへ帰ってきたい。なぁ、滝本。」
滝本もうなずいた。
「そうだ、ホタルだ、俺、このホタルになって帰ってくるよ。」

トメさんは言った。
「ああ、帰っていらっしゃい。」
宮川軍曹は腕時計を見ながら伝えた。
「九時だ。じゃ、明日の晩の今頃に帰って来る事にするよ。俺たちが入れるように、店の正面の引き戸を少し開けておいてくれよ」

「わかった。そうしておくよ。」

宮川軍曹はさらに続けた。
「俺が帰ってきたら、みんなで<同期の桜>を歌ってくれよ」

「わかった、歌うからね・・・」


出撃の朝は雨だった。
夕刻、トメさんが店を片付けていると、出撃したはずの滝本伍長が入ってきた。
二人は出撃したものの、雨で視界が悪かったため、沖縄までたどり着くことができるかどうかも怪しいほどであった。
滝本伍長は二度、三度となく宮川軍曹に引き返すよう促すが、宮川軍曹は「おまえは帰れ、俺はいく」という身振りで一向に戻ろうとはしなかった。ついに、滝本伍長はひとり、引き返した。

夜になって、ラジオが九時を告げニュースが始まってすぐのことだった。
わずかに開いた表戸の隙間から、一匹の大きなホタルが入ってきた。

二人の娘さんたちはほぼ同時にその光景に気がつき、叫んだ。
「お母さーん、宮川さんよ、宮川さんが帰ってきたわよ!」
トメさんは息を呑んだ。

そこには、紛れもなく帰ってきた「宮川軍曹」がいたのだ。
気がつくと、店にいた兵士、滝本伍長、そしてトメさんと娘さんたちは
「同期の桜」を歌い始めていた。


貴様とおれとは
同期の桜
おなじ航空隊の
庭に咲く
咲いた花なら
散るのは覚悟
みごと散りましょ
国のため

貴様とおれとは
同期の桜
離れ離れに
散らうとも
花の都の
靖国神社
春の小枝で
咲いて逢ふよ


宮川軍曹はトメさんたちとの「約束」を果たしたのだ。

そして、現代を生きる私たちに日本の未来を託し、今もホタルとなって見守ってくれているはずだ。



もうひとつ、ホタルの奇跡がある。

鳥濱トメさんが亡くなった通夜の夜のことだ。
ひっきりなしに訪れる弔問客も落ち着いたころ、一段落したしお茶でも・・・ということになった。
どこから飛んできたのか、1匹のホタルが、光りを放ちながら尾を引いてトメさんの柩のある部屋をスーッと横断していったそうである。

目の前で目撃した鳥濱義清さん、明久さんは世にも不思議な出来事に、何もしゃべれなかったそうだ・・・。


今日は、宮川軍曹の御命日である。



アナタが幸せであれば何もいらない
   アナタが幸せであれば何もいらない






第五十振武隊 松崎義勝少尉 新潟県 19歳

昭和二十年五月二十日 一六時三〇分 知覧基地より出撃散華













前略

いよいよ来ました。母上やりますよ。見てゝ下さい。

此の便の着く頃はもう敵空母と運命を共にし、木っ葉みじんに成ってることでしょう。

 それから山口県防府市三田尻鞠生町吉野三夫様在府中一方ならず御世話に成りました故よろしくお願い致します。

 今更言いのこすこともありません。くれぐれもお身体大切に。

それでは永遠にさようなら。           草々








実は、私が平成21年の知覧の慰霊祭に参加するための移動で鹿児島市内でバスを待っていたところ、待合のベンチで雑談をした女性が・・・なんと松崎少尉の妹さんでありました。




お話を聞かせていただくと、ホタルになって帰ってきたエピソードで知られる宮川少尉と同郷で同い年(宮川少尉は誕生日後に出撃のため20歳)ということで、赤羽礼子 石井宏著「ホタル帰る」にも登場しています。


 松崎少尉(伍長から2階級昇進)は、宮川少尉と同じ高等小学校で級長、副級長の座を争い、共に切磋琢磨した親友同士でした。松崎少尉は少年飛行兵第13期生としての道を選びました。

卒業後別々の道を歩み始めた二人でしたが、混乱の時代、互いが飛行兵としての道を新たに選んだことはうっすらと耳に入っていたそうです。

そして、二人はばったりと知覧の地で再会を果たしました。

宮川少尉は第一〇四振武隊、松崎少尉は第五十振武隊と共に肩を叩き合い、再会を喜びました。


-ホタル帰るより-




「隊はどこだ?」と宮川が聞くと、


「第五〇振武隊」と松崎が答えた。


「俺は一〇四だ。出撃は」


「あさってだ。おまえは・・・」


「うむ」と宮川。「実はおれは四月十二日に万世から一度出撃したんだが、飛行機の調子が悪くて戻らざるを得なかった。目下、機体の整備中で、次の出撃はまだ決まっていない」


「そうか、それじゃ、おれのほうが先だな」と松崎。


「残念だが、遅れをとった。今回はおれの負けだから、おまえが級長で、おれが副級長だ」


「ウワッハッハ」と二人は豪快に笑った。








その喜びもつかの間であることをお互いに分かっておられました。

松崎少尉は、5月20日出撃し散華されました。

宮川少尉はかつての親友の出撃を見送り、故郷へ手紙を書きました。


「・・・・・・・・・・


 偶然にも知覧にて小学校の同期


 松崎伍長に会ひました 彼も三郎と


 同じ立場。元気です。昔話にすっかり


 花が咲きました。


 まさかこんな処で会ふとは思はなかっ


 たですね」




そして宮川少尉も後に続き6月6日、出撃散華されたのです。






アナタが幸せであれば何もいらない



穴澤利夫 陸軍大尉


アナタが幸せであれば何もいらない-穴澤少尉





中央大学法学部を戦時特例法にて繰上げ卒業後、特操一期として熊谷陸軍飛行学校相模教育隊へ編入。


昭和二十年四月十二日、陸軍特別攻撃隊「第二十振武隊」隊員として一式戦闘機「隼」にて知覧を出撃、沖縄方面洋上にて散華。二階級特進、陸軍大尉。





「にっこり笑つて出撃した」


(当時、知覧高女学生、なでしこ隊として出撃を見送った永崎(旧姓・前田)笙子さんの日記より)


穴澤大尉は、白い飛行マフラーの下に婚約者の智恵子さんから贈られたマフラーを締めていた。


「神聖な帽手や剣にはなりたくないが、替われるものならあの白いマフラーのように、いつも離れない存在になりたい」

穴澤大尉は彼女のこの一途な思いに、贈られたマフラーを彼女の身替りとして肌身につけて
出撃した。







穴澤大尉から婚約者千恵子さんへの手紙(遺書)の中で


「今更何を言ふか、と自分でも考へるが、ちよつぴり慾を言つてみたい」と3つ、挙げている。

一、読みたい本 「万菓」「旬集」「道程」「一点鏡」「故郷」


二、観たい画 ラファエロ「聖母子像」 芳崖「悲母観音」




そして




三、智恵子 会ひ度い。.話し度い。無性に 


(会ひ度い=会いたい)




手紙(遺書)は最後に


「今後は明るく朗らかに。自分も負けずに朗らかに笑つて征く」


と締めくくられていた。


穴澤大尉は、桜を打ち振り見送る前田笙子さんらなでしこ隊に、最後の敬礼と笑みを返して飛び立って征った。写真の左側に、鳥濱トメさんの次女礼子さんがいる。




アナタが幸せであれば何もいらない-なでしこ隊





なでしこ隊に見送られ出撃する穴澤少尉の隼






戦後の長き年月、婚約者智恵子さんの生きる支えになったのは、穴澤大尉の日記に記された次の言葉である。



「智恵子よ、幸福であれ。真に他人を愛し得た人間ほど幸福なものはない」




アナタが幸せであれば何もいらない-悲母観音





狩野芳崖(1828 - 1888 )の描いた悲母観音







ラファエロ【Raffaello Sanzio】(1483-1520)の描いた聖母子像




アナタが幸せであれば何もいらない





第二十振武隊 一番手前が穴澤大尉








「ひとりとぶも ひとりにあらず ふところに きみをいだきて そらゆくわれは」




 穴澤利夫







今日は建国記念の日、紀元節です。

【紀元節】
日本書紀で初代神武天皇が橿原の地で御即位したとされる日
即位したその年の元日を、維新後の明治6年に太陽暦に換算して2月11日に定めました。
(本来は1月29日との計算でしたが、孝明天皇崩御の日1月30日と近いこともあり再考)
かつての四大節のひとつ。
四方節(元旦)・紀元節(建国記念日)・天長節(天皇誕生日)・明治節(明治天皇誕日)

要約して説明します。

神武天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)は天下を統べるにふさわしい土地を求め、兄の五瀬命(いつせのみこと)と東征を行ないます。九州、高千穂の宮を出発し、海路、宇佐、筑紫、安芸、吉備、と滞在しながら、河内に上陸します。
神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衛坂(くさえのさか)で長髄彦(ながすねひこ)が迎え撃ち、このときの戦いで兄の五瀬命は矢に当たって負傷し、海路南へ回る途中に息絶えてしまいます。
その後、神武天皇は三重の熊野に上陸し、荒ぶる神々と討伐し、吉野にたどり着きます。さらに宇陀、大室と進み、宿敵であった長髄彦を倒し、大和で天下を治めることになりました。
その即位の日とされる日が紀元節となります。

紀元節は、戦後GHQによって廃止され、宮中行事の紀元節祭も中止となりました。しかし、昭和天皇におかせられましては臨時御拝という形で御親拝を続けられておられました。
昭和27年にサンフランシスコ講和条約が発効したのち、国民の間では「紀元節」を復活させようという国民運動が起こりました。しかし共産主義者などの反対も根強く、建国記念日と名称を変えることで甦りました。

全国の神社で、2月11日には紀元節祭が執り行われるようになりました。しかし、復活を切望する声が途絶えませんが、宮中行事の紀元節祭は復活せず、今でも宮内庁は紀元節祭は執り行わず臨時御拝という形のままで昭和天皇から今上天皇へ引き継がれています。
明治神宮では、紀元祭が、靖國神社では建国記念祭が執り行われます。

日本という国家の繁栄を日本人全員でお祝いする日であると思います!
大切な方が、10月下旬に鬼籍に入られました。

東京府北多摩郡(現在の武蔵村山市)に置かれた、東京陸軍航空学校を出られた方でした。
東京陸軍航空学校は昭和18年4月に東京陸軍少年飛行兵学校と改称し、通称「東航(とうこう)」と呼ばれていたそうです。そこの生徒だったOさんは、改称後少年飛行兵第9期生と呼ばれることになったんだ、そして、私の5つも6つも年下の後輩たちが特攻隊として散華していったのだ、とよく話されました。

初めてOさんに出会ったのは、靖國神社での少年飛行兵の慰霊祭(少飛会主催)でした。
Oさんの同期のNさんも同席し、遊就館の喫茶「結-ゆい-」で珈琲を飲みながら、お話しました。
その後何度かの交流ののち、よく電話で話したりお会いしに行ったりして親睦を深めました。
頂いたお手紙や数々の資料、お写真などはこれからも大切にしていきたいと思います。

私はOさんとの約束を果たせずに時間ばかりが過ぎていく中で、ついにOさんは鬼籍へと入られました。Oさんは沢山の戦友や鳥濱トメさんなどと談笑しながら、こちらを見てくれているだろうと思いますが、必ず果たせなかった約束は実現しようと考えています。

Oさん、今迄本当にありがとうございました。
先にいかれた戦友の方々と再会し、ゆっくりとお過ごしください。
いつになるかはわかりませんが、私がそちらへ伺ったときはまた仲良くして頂けたらと思います。

勝也 拝