富山県射水市と忠臣蔵 | レキシストかつふみのブログ

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勝手に歴史について調べている「かつふみ」のブログです。

私も富山県に長く暮らしていますが、
忠臣蔵の物語が富山県と深く結び付いているとは、今まで知りませんでした。

忠臣蔵は、今さら説明するまでもない有名な物語。
江戸時代中期、赤穂藩の浪士たちが、主君の敵討ちをして切腹となった、切ないエピソード。

実は、この物語には後日談がありました。

赤穂藩が断絶したあと、藩の江戸詰め家老だった藤井宗茂という人物が、ひっそりと越中(現在の富山県)に移り住んでいたというのです。



藤井宗茂は、現在の射水市(旧小杉町)で所帯を持ち、地元の女性との間に子をもうけました。

その子が、のちに藤井右門(ふじい・うもん)と呼ばれた人物で、江戸時代中期から尊皇倒幕・大政奉還の必要性を訴えた、勤王の志士でした。




射水市には、今も、この藤井右門の墓が残されています。

右門は、勉学がよく出来たようで、
皇学所という教育機関の教授を勤め、公卿らを指導したようです。

しかし、
時はまだ、明治維新の100年以上前。
幕府の力はまだ強く、右門らは幕府に敵視され、捕らえられてしまいました。




右門は、処刑された、または、獄死した、と伝わっています。
しかし、そののち、
右門のひ孫の藤井多門が岩倉具視と親交があったため、右門の考えていたことが後世に評価され、
明治時代になってから、右門に正四位が贈られたそうです。




赤穂藩の断絶で、不遇の時を送ることになった、旧藩士たち。
江戸家老だった藤井宗茂は、子や孫たちに、どんな願いを託したんでしょうか。