日本辺境論 Part4 内田樹著(2009年発行) | ウインのワクワク「LIFE」

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            琴線に触れるものを探して

 

 

気にかかった文章】

 

Ⅱ 辺境人の「学び」は効率がいい

「ネゴシエーションできない人」というのは、自説に確信を持っているから「譲らない」のではありません。自説を形成するに至った経緯を言うことができないので「譲れない」のです。「自分がどうしてこのような意見を持つに至ったか」、その自己指摘閲歴を言えない。自説が今あるようなかたちになるまでの経時的変化を言うことができない。

 

私たち(日本人)はつねに他に規範を求めなければ、おのれの立つべき位置を決めることができない。

 

努力と報酬の間に相関があることが確実に予見せらるることは武士道に反する~。

 

Ⅲ 「機」の思想

「浄土往生は手段で、悟りが目的なのである。そうしてその浄土へ往くことのできるのは、弥陀の他力によるものなので、業に囚われている身ではそれができぬ。絶対他力で超因果の世界を体認しなければならぬ。『浄土』教と言うので、何もかも浄土で終わりを告げるように思うが、そのじつ浄土はそんなところではなく、一時通過すべき仮の停車場の待合みたいなものである。(……)純粋の他力教では、次の世は極楽でも地獄でもよいのである。親鸞聖人は『歎異抄』でそう言っている。これが本当の宗教である。」(鈴木大拙) 

 

「間髪」というのは、情報の入力があって、変換装置で解釈し、適切な対応を出力するという継時的な過程のことです。しかし、武道では、入力ー出力がリニアに継起することを「先をとられる」と解して嫌います。~「相手がこう来たら」という初期条件の設定がすでに「後手に回っている」からです。

 

「学ぶ力」というのは~「これを勉強すると、こういう『いいこと』がある」という報酬の約束によってかたちづくられるものではありません。

 

「学ぶ力」とは「先駆的に知る力」のことです。自分にとってそれが死活的に重要であることをいかなる論拠によっても証明できないにもかかわらず確信できる力のことです。

 

「値札のついていないものは商品ではない」と教えられてきた子どもたちが「今はその意味や有用性が表示されていないものの意味や有用性を先駆的に知る力」を発達させられるはずがない。

 

現代日本人の危機は「学ぶ」力の喪失、つまり辺境の伝統の喪失なのだと私は考えます。