この時、始原東洋医学の理論と実践である、医学・医療の源流と繋がった。
医学の医の漢字の変遷が端的に物語っている。
上記 → 医学・医療の源流 : 気滞病理学説
毉 → シャーマニズム : 魂・精霊
醫 → 伝統医学 : 体液(液体)病理学説
医 → 近代医学 : 細胞(固体)病理学説
文字文化発達以前、扁鵲や有川が実践していたように、いのちのハタラキとしての気の変化を診察し、治療を行っていた。
その遺産の一つとして、中国では気の流れるルートとして、経絡の走行を書き残してくれている。
しかし、それは健康体のルートであったのである。
(始原東洋医学では、健康の時に経絡は印知できないが、一定の刺激を生体に与えると、古典に記載されているルートとほとんど同じルートが発現することを確認している。
その研究成果の一端を、加藤淳・飯泉充長の二人が中心となって『経絡図譜』(高城書房)として、本に纏め出版している。)
毉の下の巫は、天と地を繋ぐ人としての意味である。中国では、天地人三才思想として受け継がれている。
古代の医療は、宗教と哲学と科学が混沌としており、密接不離の関係にあった。
しかし文化である、宗教ならびにシャーマニズムと先の気の医術は、扁鵲の六不治(巫覡の言葉を信じて、医者を信じない者は不治の病)の一つに挙げられているように、区別されていたのである。
さらに時代が下り、文字文化の発達、紙の発明などにより、文字として医学・医療を記述するようになった時、ギリシャのヒポクラテス(『ヒポクラテス集典』は、ヒポクラテスの弟子達が編集したとされている。)
同様に中国の『黄帝内経』などの古典医書が記述・編纂された時期には、気を印知する能力が衰退していたようで、宗教的な部分を排除すると同時に、文字で表現することができない、気の医術の領域も同時に削除されてしまったのである。
気は、血と津液(水)と同等に扱われるようになり、体液(液体)病理学説の醫へと変貌を遂げた。
同時に、経絡を印知する能力も衰退していることから、古典に記載されている経絡の走行を信じて、診断・治療を行うようになったと思われる。
病体の時には、古典に記載されているルートではなく、一人ひとり気の走行ルートが異なる事を認識(印知)せずに、診断・治療体系が作られていったのである。
(古典に記載されている経絡の走行は、生理状態の時を書き残してくれていたのであり、病理状態の時は病体に応じて、一人ひとり走行が異なることを忘れ去ってしまった事に問題がある。)
(つづく)