何か昔どっかの本で読んで、
あーそうかーと妙に思わされた言葉がある。

自分ができていないことだからだ。

「そうそう!」「共感できる!」系の言葉が心に残りやすい中で、
自分ってダメね、って思える言葉のわりに心に残っているのは意外にめずらしいもの。


で、それは、

「一番手に入れたいものを手に入れなさい」

って言葉だ。


たいていの人は2番目、3番目で「手を打つ」から幸せを逃していくって話。



こういう話題においては、
「たいていの人」に含まれることが少ない私であるが、
これは見事に「たいていの人」にのみこまれていたなー。


一番ほしいものを手に入れることに必死になってるかなー?
一番したいことをするためにただただ準備をすることができているかなー?
一番好きな人をあきらめないで想い通すことができているかなー?


なーんか、久々に脳天をハンマーで殴られた感覚。
しかも、思い出しハンマーって珍しい。


ここは敢えて「妥協」とかそういう言葉で一般化するのはよすわ。


「手を打つ」自分って何か卑しいよな。
それなりの「充足感」で満たされることに慣れてしまうと、
本当に大切なものが少しずつ少しずつ欠けていく気がするわ。


一番手に入れたいものを手に入れたいなー。


しばらくこれを金言として、頭の中でループさせてみよか。
最も怖いものは何かと聞かれれば、
それは「あきらめること」なんだろうと最近思う。


自分の人生から何かが取り除かれ、
そして、
その喪失感さえも味わうことができない。

あきらめるっていうのは、そういうことじゃないかしら。



生のエネルギーに満ちた、
キラキラしたものが自分の世界から
あらかじめ欠落してしまう。

とりわけ、それが無自覚であることが「あきらめる」ことの本質的な恐ろしさなんだろうなあ。



昔読んだ漫画でこんなセリフがあった。

「誰かに会いたくても会えないことは辛い。

 でも、誰かに会いたくて、会いたくて、いくら会いたいと願っても会えなくて、
 いつしか、会いたいと願うこと自体に疲れてしまって、
 そう願うことさえできなくなってしまうことのほうが俺は辛い。」

たしか、先立たれた兄への思いを綴った言葉だったと思う。



「あきらめない」で生きるのは「痛い」。
「届かない」思いを何度も何度も味わうということだから。



でも、
その「痛み」こそが「生きている」ことの味なんじゃないかな。
いつか、
その「痛み」をも飲み込んでしまうような「喜び」が待っていて、
「痛み」という闇は「喜び」という光の序章でしかないようにさえ思える。


そこまで前向きなのもある種の「病」なのかもしれない(笑)。



どんな状況でも
ふりおとされずに、しがみついて生きていけば、
何も失わないで生きていけるよ、と子供たちにはそっと伝えたい。



結局、
「手に入れられない」ことよりも、
「失う」ことの方がずっとずっと痛いんだよ、って。
精一杯自分を追い詰めて生きている人間には、
それ相応の安心感が必要ではないのか。



家のふとんにくるまって寝るときのような感覚。

やわらかい。
あったかい。



そういうものに甘えずに、自分を追い詰められる人間には、
そういうものが与えてられてもいいんじゃないか。



結局、
自分自身の中には「形にしないと自覚できない」っていう不安がある。

そういうモチベーションは「アヤウイ」。



「これが俺の強み」だと、
言ってもらって、嬉しくて、
自分で気づいて、楽しくて。
それを最大化しようと続けるのが「がんばる」ってことじゃないか。



そういう「安心感」こそが、
実はその人の生きてきた価値だし、
それだけは、自分じゃ生み出せないんだよな。



たくさんの人ではないけれど、
いくらかの人たちに僕はそれを与えてもらっている。

そして、
不思議なもので、
おこがましくも、
それを与えてもらっている人に、僕はそれを与えている。


不思議なものだが、
これは「交換」することでしか、与えられないもののようだ。



ありがとう。