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戸惑う子どもたち

母の愛はどこへ その2


元校長先生のブログ-母の愛はどこへ②

 一方、その対極のように「母子密着」がある。それを「母の愛」と呼ぶことはできないが、これもまた、子どもの成長や自立の阻害要因になっていると思われてならない。小学校1年、入学以来ずっと毎日、学校に来て授業参観している母親もいる。子どもが心配なのだそうだ。子どもが親に要望しているからだそうだ。子どもの自立はいつなされるのか。


 学校によっては、小学校5年生に移動教室という行事がある。減少しつつある大自然を実感したり、集団生活を通して社会性等を身につけさせたりする目的で、およそ2泊3日ぐらいで行われる。その際、メソメソシクシク始めるのはだいたい男の子であり、母親と離れて寝泊まりするのが不安になって眠れなくなってしまうのだ。


 5年生なら仕方ないのではないか、と考える人もいるかもしれない。だが、毎朝の洗顔は、母親が暖かい濡れタオルで息子の顔を拭いてやっているなどという話を聞けば、どうにもおかしいと納得できるだろう。


 中学校2年生にも移動教室はあり、私が校長として引率して長野県のアルプスの山麓に行ったときのことだ。これも男の子だが、「家に電話していいですか?」と許可を求めにきた。何か急用でも生じたのかと確かめてみると、「お母さんの声が聞きたい」と答える。そして何の恥じらいもなく、財布の片隅からお母さんの写真を取り出す。母親の写真はふだんの学校生活でも、毎日持ち歩いているそうだ。


 このような、小学生や中学生の例を、「母の愛」と言えるだろうか。自立しきれない子どもを生み出すのも、「親子という病」なのかもしれない。そして事態はいっそう進行し「親子という病」は小中学生に留まらず大学生にまで及んでしまう。


 「息子はどの教室で授業を受けたらいいんですか」大学の教務部に、新入生の母親から電話が入った。応対した職員が「時間割表に載っていますよ」と答えると、受話器の向こうで「○○ちゃん、時間割表に書いてあるって。」と母親が話している声が聞こえてきたという。(読売新聞「教育ルネサンス」より)


 「本人がいるなら、本人に電話させたらいいはず」と大学の職員はため息をつくのだが、少子化による学生減もあって、いわば保護者はお客様のようなものだから、母親をたしなめる言葉をためらってしまう。


 世の中が、子どもの自立を阻む方向に進んでいる。もはや死語となった「海よりも深い母の愛」は、かつてはそれこそもっと深いところで発揮されていたはずではなかったか。「あんたなんか産まなければよかった」と突き放す親と「息子はどの教室で授業を受けたらいいんですか」と本人のいる前で電話する大甘な親とは、相反するように見受けられるが、共に現代が生みだした母親の姿であり、現代の「病」と言っても過言ではあるまい。両者とも確実に増殖している。


 いま学校現場では、小中学生の学力や運動能力が「できる者」と「できない者」の2方向に二極化しているという。それに倣って言えば、冷たい親と子離れできない親と、子どもに対する親の態度の二極化も進んでいるのだろうか。


 

 次の文章は、新聞の投書欄に載っていた大学生からの意見である。


「私はファミレスでアルバイトをしている。接客する中で、とてもがっかりすることがある。それは母親が子どもに対して使う言葉や行動だ。子どもは無邪気で何にでも興味を持つのが当たり前。でも、その好奇心あふれる行動に対して母親が店内で大声で暴言を吐く。最悪な場合、席を離れて騒いだ子に『死ね!』と言った母親がいた。さらには、周囲を気遣ったのか、うるさい子どもの頬を平気で平手打ちする母親も目撃した。周りの客の方が驚いて白い目で見ていた。そんな母親が多い気がする。(中略)

私は暴言を吐く母親が信じられない。自分がおなかを痛めて産んだ子ども。平手打ちより、大切に愛を注いでいくべきではないだろうか。」


 まだ19歳の女子大学生からのものだ。私自身も似たような光景に出くわしてギョッとさせられたことがあるが、若い世代がこのように考えてくれていることに、ホッとさせられる。「母の愛」が、次世代に引き継がれていくことを信じたい。


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