鎌倉幕府の「十三人の合議制」の

メンバーとなった

権威ある御家人たちも、

棟梁である源氏嫡流含めて、

戦国期まで残ったのは

武家からは八田=小田家のみで、

その小田氏治も

江戸時代までは家名を残せず、

公家層出身の家から発展した

毛利家が大名に、

大友家が高家旗本で残ったのみでした。

 

 

 

さて、

本日の記事の主役は「伊東」家です。

 

戦国史における伊東家と言えば

日向(宮崎県)を治める

名門大名家として有名ですが、

「伊東」と書くように、

元来は静岡県伊東市を

拠点にしていた一族です。

 

「日本三大仇討」と

呼ばれるものがあり、

赤穂浪士討ち入り、

伊賀越えの仇討と共に

「曾我兄弟の仇討」があり、

能、浄瑠璃、歌舞伎、映画などの

作品化もされています。

 

鎌倉幕府成立直後の1193年、

若き曽我兄弟が親の仇として

一族である工藤祐経を討ちます。

 

この背景に関しては、

単なる仇討では無く

頼朝までも討つつもりだった

政治クーデター説もあり、

未だに論争が続きますが、

兄弟は仇討は成功させるものの、

二人もまた討ち死にと斬首となり

命を落とします。

 

そんな頼朝側近だった

工藤祐経の子は伊東を名乗り、

関東から日向に下向し

地頭となっていきます。

 

戦国時代にかけて力を付け、

鎌倉から続く名門家の大名と

なっていきます。

 

しかし、

島津家の日向侵攻を許し、

同じく鎌倉から続く名門、

豊後の大友氏を頼り亡命。

 

その後伊予に移りますが

生活に困る程の困窮に陥ります。

 

伊東裕兵は鎌倉から続く

名門大名家のプライドを捨て、

百姓出身の秀吉に接近し

家臣に取り立てられ、

直後に発生した

本能寺の変から続く戦乱の中、

賤ケ岳の戦いの恩賞で

500石を得ます。

 

鎌倉からの名門、

日向一国を領有した

数年前までの栄光から500石へ。

 

 

ここで妙なプライドを捨てられたことが

伊東家を再興に導きました。

 

 

その後も秀吉の九州侵攻などで活躍し、

日向5万7千石に回復、

江戸時代も日向飫肥藩として生き抜き、

明治を迎えます。

 

なお、

遣欧少年使節団で有名な

伊東マンショは、

この伊東一族で本名は伊東祐益です。

 

また、

日清戦争時の連合艦隊司令長官

伊東祐亨もまた

「祐」の字で分かる通り、

この伊東一族です。

 

 

そしてもう一家、

大名伊東家は存在し、

代々尾張に住んでいた伊東一族で、

姉川の合戦の頃には

秀吉の組下だったようです。

 

こちらの伊東家もまた、

鎌倉からの名門ながら、

織田家の家臣となり

まだまだ初期の秀吉の組下になります。

 

関ケ原は西軍に付き、

大坂冬の陣、夏の陣共に

豊臣方で大阪城に籠りますが、

岡山県の備中岡田藩1万石として

幕末まで残る大名家となります。

 

関ケ原を描くドラマなどで登場する、

石田三成挙兵を家康に知らせたのが

この伊東氏のようで、

どうやら一貫して

家康への内通者だったようです。

 

 

鎌倉幕府を成立させた名門たちも、

室町時代さえも

迎えられなかった家が多数。

 

戦国期を迎えても

「戦国最弱」と呼ばれたり、

現世での栄光なんて、

本当に夢のまた夢なんですよね。

 

その中で、

秀吉の家臣で数百石となりながらも

一族2家を大名として

明治まで存続させた伊東氏。

 

曾我兄弟の仇討の

敵役としての方が有名ですが、

そこで滅亡もせず、

戦国乱世も生き抜き、

サバイバル術に長けた

一族とも言えます。

 

 

 

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