まえがき
偉そうに読書術を語れるほどの経験には乏しいが、さりとてまったくないわけではない。あれこれ興味を持ちながら、新書や選書、小説やラノベ、文学、学術書、美術書(1)と手を出したものだ。多読、散読、遅読でも読書法はあるものだ。それをブログに書いても傲慢のそしりは避けられよう。
読書法の書はかなり前から様々な人々が多く出版してきた。いくつかを読んだが、参考になった部分、ならなかった部分など、それ一つで足りるようなものはなかった。書名は忘れたが、内容をいくつか紹介すると、本は後ろの3分の1あたりから読めというもの、ヘッドラインを中心に読めというもの、3色ボールペンで線を引きながら読めというものなどだ。
また、読書そのものの方法論として、同じ作家の者を複数冊読めというもの、〇〇文学等、同一のカテゴリーのものをまとめて読むなど体系的に読むという方法もあった。私はこれに、「新書」の「分散読み」を提唱したい。
3分野、分散読み
これは実際に私がしていた方法で、原則その月に発売された、あるいは、書店の目に付くところに並んでいる新書を3冊以上買うものだ。買い方は、人文、理系、社会の3分野から最低1冊を選ぶ。
なぜ、3分野それぞれから選ぶのか。人は苦痛を避ける。内容が難しいもの、興味がないものは、とかく苦痛だ。そういった本は避ける対象となり、素通りされる。目に入ることすらないかもしれない。それでは、見たいものしか見ない「幽霊」(2)のようになってしまう。意識して触れようとしなかれば、知らないままの領域は多く、そのために職業人生、社会生活を劣化させ、人生の質(幸福)を引き下げてしまうおそれがある。
手っ取り早く、ある程度の深さの知識を得るには新書がうってつけだ。新書は専門書ではない。一般に分かりやすく、ちょっと知的な刺激を与える書物だ。もちろん中には優れたものがあり、何年たっても読め、役にも立ち、座右の書となるものもある。大学等でのレポート資料に使うこともある。けしてバカにできない。
具体的な選択を示せば、理系なら講談ブルーバックスあたりを買う。人文と社会は、岩波、中公、講談現代、ちくま新書などから選ぶだろうか。表題を見たとき、内容がよく分からなくともいい。興味が湧いたものを読む。
表題は本全体の要約
表題は、実は重要な手掛かりだ。たいていその本のコアが最も要約されている。例を挙げよう。手直に『ヒンドゥー教の〈人間学〉』(講談メチエ)がある。この表題から、この本には、インド思想(ヒンドゥー教)とそれに基づく人間観が記載しているとわかる。むしろ、書いていなかったら困る。表題詐欺だ(3)。
『絵画を読む イコノロジー入門』(NHKブックス)には、仏像についてのイコノロジーは書いていないし、『テミストクレス』(中公叢書)にテミストクレスにほぼ触れずに、ペルシア戦争が淡々と書かれていることはない。表題は最も要約されたその本の内容となっている。
だから、表題を見るだけで、何かわかる。少なくとも何について書かれているかはわかるものだ。もちろんある程度の知識がなければ、分からないこともある。それが歴史の本とか、異世界転生ものの小説とか、ミステリーとか、恋愛小説とか、生物学の本とか、最低限それが分かる程度の知識は必要だ。そういった「分類」の知識のほか、「言葉」(概念)の知識も重要だ。
言葉(概念)で区別できる
「法曹」という言葉がある。法律に従事する人の意で、一般的には裁判官、弁護士、検察官を指す。似たような語感に「法相」がある。法相宗は仏教の一派だ。「法」という語も、法学関係でも使い、仏法でも使う。仏教の法はダルマ(Dharma)の訳だが、法学の法はたいてい、Lex、jus、Lawの訳だ。前者は主に宗教的な善・正義(Dharmaには世俗の規範の意味もあるが)、後者は世俗社会の規範について意味している。だから、書名に「法」とあっても、何の法か気を付ける必要がある。
より紛らわしいのは「南北朝」で、北条(鎌倉)幕府を打倒した後、足利尊氏と楠木正成らの争いに始まる日本の歴史もあるが、中国の北魏、宋の話もある。ちなみに、南北戦争は米国の話だ。
余談だが、外国語でも同様で、先の南北戦争はThe Civil War。civil war(内戦の意)という表題だけでは、何の内戦か分からない(通常、Theで区別する。)。また、The Civil Warでも、イギリスの内戦(1642-51)やスペイン内戦(1936-39)を指すこともある。
だから、本の題名から中身をうかがうには一応知識があった方がよい。本の「帯」や本の裏にある内容紹介などを見れば分かることも多いが、書店の棚に置かれたままでは読めないし、平棚に置いてあっても見逃すこともある。表題で興味を惹かれるくらいの知識を持っていた方がよい。
では、必要な程度の知識があるか危ぶまれるなら、「分散読み」はできないのか。そんなことはない。ボヤッとでもうかがえるからこそ、読む価値がある。
新書の賞味期限と適切な分量
ところで、新書には、期限がある。時季、旬といってもいい。大きな法改正などがあると、それを解説するような新書が出ることがある。条約や国際政治でも同じだ。ところが、こういうものは、一定の時間が過ぎ状況が変われば、あまり意味がない。社会分野の新書には、この旬のあるものが少なくない。人文や理系は比較的スパンが長いようだ。
そして、新書は200ページくらいがちょうどいい。この秋、講談現代で100ページの新書が誕生した。200ページでも本来薄いものだ。100ページでは物足りないものにならないだろうか。動画メディアなどの利用のため、現代の若者には読書時間がないというのが創刊の理由らしい(4)。確かに200ページを読む手間を惜しむとも考えられる。しかし、若者はラノベを何巻も読むではないか。新書の200ページは十分に読める分量のはずだ。職業生活、社会生活の十足のために得るべき知識が「ある程度の深さ」に達するようにするためには、相応なページ数も必要だろう。
あとがき
ちょっと知的で、ちょっと難しいものを、手軽に読み始められるのが新書だ。新書の3分野分散読みで、苦手で避けてしまう領域も手軽に触れてみる。表題を見てちょっと気になれば、手に取ってみる。苦手な分野では200ページは苦痛かもしれない。しかし、意味が不明でも理解が進まなくても、読み続ければなんとなくは分かるものだ。ざっと目を通すだけでも後々役立つことがある。それを試してみてほしい。
なお、記事中に示した書籍は選書になってしまった。本来なら新書を示すべきだったかもしれない。書き直すのも面倒なので、この記事ではそのままにした。
注:
1 もちろんマンガも読む。最近は多数を占めるが、ここでは活字媒体のみ、記述する。
2 映画Six Senceのセリフ。幽霊は見たいものしか見ない性質があるらしく、そのため、自分が死んだことも分からない。
3 実は、表題からかけ離れた内容の本もある。一部は、特殊な言い回しのため(その方がフィットするのか、センセーショナルなのか)だ。困ったことに、なかには表題と関係のないものがないわけでない。
4 青木 肇.「このまま新書は絶滅するのか…講談社現代新書が出した「一つの答え」」KODANSHA