かたりましょうのたかしまりょうです。
ぼくはダラダラすることが多いです。
よだれをダラダラ垂らしているわけじゃありませんよ。
あ、でも座ったままウツラウツラしていると、
よだれが垂れちゃうこともあるな(ダラダラではないけどね)。
鱈ばっかり鱈鱈と食べているわけでもありませんよ。
鰤鰤怒っているわけでもありません(鱒鱒わけわからん)。
ちなみに、
明太子をダラダラと食べていると、
身体がだんだん透明になるとかならないとか。
透けそうだら。
アメリカのお金ばっかり数えているわけでもありませんよ。
ダラーダラーって。
いつまでも数え続けていくと、
日本のお金も混じってくるみたいですが。
えんえんと続く・・・
すでに元が何だったのか(つーか、中国のじゃありませんよ)、
元の話がわからなくなりつつありますが、
ダラダラです。
ぼくはダラダラしてしまうことが多いんです。
やらなきゃいけないことがあるのに、
ダラダラ(今も?)。
なかなか取りかからないで、
ダラダラ(今も?)。
意味もないことをやって、
ダラダラ(今も?)。
でも、そもそも、
ダラダラって、何がダラダラ?
やらなきゃいけないことをしていないのが、
ダラダラ?
すぐに取りかからないのが、
ダラダラ?
意味のないことをする(意味のあることをしない)のが、
ダラダラ?
ダラダラは、
自分が(その人が)ダラダラと思ったら、
ダラダラ。
それが(ダラダラに限らず)本質だと思います。
それに、ダラダラは、
悪い(と決まっている)わけじゃありません。
ダラダラは悪いことだと思ったときに、
良くないものになるんだろうと思います。
だから、
ダラダラしたっていいじゃん。
と言いたいわけでも、
開き直っているわけでも、
ないんです。
こんなことを書きながらも、
あー、またダラダラしちゃってるなー、
やらなきゃいけないことやらなきゃいかんだろー、
とも思っているんですよ。
これぞ、ダラダラですね。
タラタラとも言うかな。
でも、そういうぼくでも、
ダラダラじゃないこともあります。
やらなきゃいけないというよりも、
やりたいと思ってやっちゃう。
なかなか取りかからないどころか、
すぐに取りかかる。
意味があるかどうかも気にせず、
ノリノリでやる。
もう、ダラダラりょうとは別人30号(3◯GO)です。
いわゆる「スイッチが入る」という状態。
スイッチが入ると、
ほっといてもやるんです(今も?)。
スイッチが入ると、
すぐにやるんです(今も?)。
スイッチが入ると、
意味のあるなしに関係なくやるんです(今も?)。
自分の元(もと)とつながるからなんでしょうね。
自分の素(もと)と言ってもいいでしょう。
スイッチは、素一致。
素(す)の自分と一致すると、
スイッチが入る。
スイッチが入ると、
素の自分が出る。
素一致になって、
素を出せると、
楽に楽しくなります。
物事も、
スイット進みます。
するとそこには、
スイートな時間が訪れる・・・
かもしれません。
でも、考えてみると、
ノリノリだけでなく、
ダラダラもまた、
素の自分なんでしょうね。
ダラダラしているときは、
自分の素の中でそのときに一番適した素(ダラダラ)が出ている、
ということなのかもしれません。
ノリノリでもダラダラでもなく、
淡々とやるときもまた、
素の自分なんだろうと思います。
ダラダラも、
ノリノリも、
タンタンも、
そのときそのときの素の自分。
そう考えれば、
いつも素一致。
いろんな素一致を、
そのときそのときで切り替えているのかもしれませんね。
よく、「本当の自分」という言い方をしますが、
つまり、「素の自分」ということになるんでしょうけど、
それって、「今の(そのときの)自分」のことでしょうから。
そう考えたら、
ダラダラも、
ノリノリも、
タンタンも、
みなOK。
いつもスイッチオンで、
いつも素一致御の字。
楽しいね。