「複業」という働き方が広がりつつある。ここでいうのは、「副(サブ)」的な働き方ではなく、「複=複数」の仕事をかけ持つ働き方。
一つの企業に所属していた場合、もちろん自分の将来的なキャリアについて、上司との面談などの機会があれば、自分の希望を会社に伝えることはできる。しかし、最終決定を行うのは企業側だ。自分の意図しない転勤や異動の辞令があった際には、究極的には会社の決定に自分が従うか、会社側との相談や調整を重ねて妥協点を探すか、あるいはどうしても調整が上手くいかず会社の方針が自分の意に沿わない場合は、自分が会社を去らなければならない。
一方で、日頃から複数の仕事を並行して行うならば、万が一勤務先の倒産や人員削減 で自分が仕事を失っても、もう一つの柱を軸に生計を立て直せる。また、一方の仕事で キャリアを積みつつ、もう一方でまったく異なる分野にチャレンジすることもできる。 そうして仕事の幅を広げていくことで、一つだけの会社にいた際には経験できないよう なチャンスに恵まれることもある。
こうした働き方は、一見新しい働き方のように見える。
しかし、私はそれほど新しい働き方ではないと思う。
意外に思われるかもしれないが、私はシンガーソングライターの小椋佳さんの生き方をとても参考にしている。小椋佳さんは「シクラメンのかほり」「愛燦燦」「夢芝居」「泣かせて」「夢追い人」など数々のヒット曲を生み出した他、自らもシンガーとして活躍する。
それだけでも稀有なアーティストなのだが、小椋佳さんはシンガーソングライターで あると同時に、銀行家としても第一線で活躍していた。東京大学卒業後、銀行マンとして要職を歴任する傍らで音楽活動を行ってきた。今でこそ副業・複業が少しずつ認められてはきたが、小椋さんは 1970年代から、歌手と銀行マンとしての活動を20年あまりにわたって両立させている。銀行在職中に紅白歌合戦への初出場も果たしているのだ。
私は、40代になってミクシィを退社したときにはじめて「複業」をすることになった。 遅いくらいだと思う。週3日、NGO団体である世界の医療団で働き、残り週4日は企業の PRやマーケティングの仕事をした。でも、小椋さんの活躍に比べたら、まだまだひよっ子のようなものだ。
私は二足の草鞋を履こうという気はさらさらなかったが、東日本大震災を機に、結果としてそうなった。現在は東北芸術工科大学にて教員として教鞭を執りつつ、同大学の職員として広報部長の職にもある。また、個人事業主としてスタートした企業のPRやマーケティング分野での支援活動は、現在は株式会社(東京片岡英彦事務所)となり、 継続している。この他、講演や執筆活動、「東京ウーマン」という働く女性向けのネットマガジンの編集長も兼ねている。世間からは複数の草鞋を履いているように見えるだろう。
こうして、結果として「複業スタイル」になったが、結論をいえば、若いうちはムリな複業を勧めない。今打ち込める仕事をしているのなら、それに専念するのがいちばんいいと思う。
20代や30代の方に転職の相談を受けると、私は決まって「転職はしない方がいい」とアドバイスする。本当に転職すべき人は、私に相談するまでもなく、すでに自分自身の結論は決まっているのだ。私に相談するくらい、自分の意志がグラついているようであれば、転職など軽率にしないで、一つの仕事に絞るに限る。「複業」「副業」に関しても、そうなのだ。「複業」「副業」する人は、相談しなくても勝手に、あるいは必要に駆られて自らの意思ではじめていく。
どうしてもやりたいことがあり、それが今の部署では実現できないのであれば、まずは社内異動を希望したり、転職したりすることに貪欲にチャレンジしていけばいい。比較的キャリアを積んだ人であれば、週5日勤務に固執ぜずに可能性を探ってみるのもいい。
これからの働き方は、どんどん多様になって面白くなっていく。週休3日制だったり、週3日勤務、あるいは在宅勤務、テレワーク......。いずれ「複業スタイル」は、全然珍しいものではなくなるだろう。
※ 8/31日発売の"自叙伝"より一部を公開します。【日本テレビ・アップル・MTV・マクドナルド・ミクシィ・世界の医療団で学んだ、「超」仕事術】(方丈社)