そこに、大義はあるのか?

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戦国の世。
幾度となく繰り広げられた「合戦」。

合戦labでは、合戦にフォーカスして歴史を楽しみたいと思います。

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【小牧・長久手の戦い/犬山城の戦い】 そのとき、信雄・家康・秀吉は。


犬山城の戦いが行われた前後。
当事者の織田信雄、徳川家康、羽柴秀吉の3人はどこで何をしていたのでしょうか?
順番に見ていきます。



<家康方の動き>
トップバッターは、家康です。
3月3日は浜松にいます。
そして翌4日、秀吉と決裂した織田信雄を援助するため、ついに出陣します。
7日には岡崎に着陣。
13日には清洲に着陣します。
そうです。
13日の夜には犬山城の戦いがありますので、それよりも先に家康は清洲にいた事になります。

続いて、家康軍の動きです。
徳川家康の重臣、榊原康政もいえやすとほぼ同じ動きをしていたと考えられています。
酒井忠次とその傘下にいた松平家忠の動きは、家忠日記からより詳しく見ることができます。
7日には陣触れを出され、8日に岡崎を出陣し、岡崎城西側の矢作川まで。
9日には阿野(現、愛知県豊明市)、10日には鳴海(現、名古屋市緑区)、12日には山崎、13日には津島、14日には桑名に着陣します。
伊勢での戦闘に備えていたわけですが、13日夜に犬山城の戦いがあったことを14日に知ることになり、急遽引き返します。
15日に桑名より津島へ、16日には清洲近所の落合之郷(現、愛知県清須市春日町)に着陣します。

家忠日記はほぼ毎日記してあるので、とても参考になります。
おかげで家康方の動きがよくわかります。
家忠さん、ありがとう!




<信雄方の動き>
東軍の大将、織田信雄の動きです。
あまり史料がありませんでしたので、おおよその動きしかわかりません。
3月6日には居城の長島にいました。
で、13日に清洲城に着陣しています。
本人の文書によれば、家康と参会のために清洲にいるのだと。
つまり、13日に清洲で落ち合って軍議を開いていたということです。
これも犬山城の戦いの前ですから、予定通りの行動と言えます。

つぎに、信雄軍の動きを信雄が発出した文書から読み解いてみます。
13日の文書からおおよそ伊勢に集結させていることがわかりました。

刈谷城主・水野忠重の息子、水野勝成を13日より神戸へ進軍させます。
犬山城主・中川定成は犬山より亀山・関に参陣。
蟹江城主・佐久間正勝、神戸城の林与五郎、その他には池尻平左衛門、深井も亀山峯・関に参陣しています。

また、松ノ木城主・吉村又吉郎には、玉薬の加勢は申し込まれただけ兵糧とともに送ると伝えています。

つまり、居城の長島を中心に伊勢方面からの秀吉進軍に備えており、13日に清洲で家康と軍議を開いたということです。



これらのことから、信雄、家康ともに、信雄の居城・長島を攻撃されることを想定し、そこに全軍を集結させる作戦だったわけです。
まさか、犬山城が攻め落とされるなどとは考えていなかった。
だって、池田恒興は信雄側につくと思っていたし。

しかし、13日夜に犬山城の戦いでほぼもぬけの殻だった犬山城が攻め落とされたため、急遽北尾張の防衛をすることとなります。
でも、先ほどの家忠日記の内容からして、14日には信雄も家康も犬山城落城の知らせは耳にしていたでしょう。
そこから動きを加速させて、つまり、徳川方は北尾張方面を、織田方は伊勢方面の防衛を固めていったわけです。





<秀吉方の動き>
では、対する秀吉はどうだったのでしょうか?
秀吉自身は、3月1日には大坂にいます。
10日に京都、11日に近江の坂本(現、滋賀県大津市)に着陣します。
13日まで坂本にいた後に出陣し、17日には現在の甲賀市、土山に着きます。
また、21日には美濃池尻(現、岐阜県大垣市)に着く予定であると文書で記しています。
その後、24日に岐阜に着陣します。

秀吉は書状をよく書いていたのか、よく残っているだけなのか、とにかく秀吉文書がたくさんあります。
これを少し読みとくと、伊勢方面に軍を集中させようとしていることがわかりました。
つまり、こういうことです。
3月8日には、堀尾吉晴宛、北伊勢への出陣準備を命じています。
9日には、津川義冬(信雄の家臣で、秀吉へ内通したとして殺される、この戦いの発端になった人物の一人です)の家中、神田氏、中村氏に対して、11日に伊勢・関地蔵近辺まで出陣するように求めています。
伊勢、特に交通の要所である関近辺での戦闘を想定していたと思われます。
11日は、木下半右衛門宛、近江州に対して美濃口への進軍を想定して近江永原へ陣を張るように命じています。三好孫七郎(のちの豊臣秀次)が大将です。当時17歳ぐらいです。

また、伊勢には関盛信、蒲生賦秀、長谷川秀一、堀秀政、日根野弘就・重之兄弟、滝川一益を派遣。関から近江甲賀にかけての通路上の城に、多賀常則、池田景雄、山崎片家、浅野長吉、一柳直末を。池田恒興、森長可、稲葉一鉄が守る美濃口方面の近江永原には三好秀次、近江守山には羽柴秀長、草津には羽柴秀勝、瀬田には細川恒興を。甲賀の中央には加藤光泰、堀尾吉晴、木村重茲を。紀州一揆対策として、岸和田の中村一氏、蜂須賀正勝、前野長康、生駒親正、黒田官兵衛を。
それぞれ、事細かに配置を命じています。

秀吉も伊勢方面に軍を集中させ、信雄の拠点・長島への圧迫を優先させていることがわかります。
しかしその後、主戦場を北尾張へと変えていきます。
犬山城を橋頭堡とすることができたからです。


ただ、この一連の動きを見ていると、池田恒興は秀吉に命令されて犬山城を攻め落としたわけではなく、単独行動だったと推測できます。
秀吉方についたことを信じさせたかったのと、実力をアピールする目的もあったのだろうと推測しています。
秀吉も思いがけず北尾張の犬山を手にすることができた、というような感じだったんでしょうね。
池田恒興様様ですね。



かくして、犬山城の戦いによって、信雄、家康、秀吉の思惑にズレが生じたことは間違いありません。
この後、羽黒の戦い、小牧でのにらみ合い、長久手の戦いへと進んでいくことになるのです。



犬山の戦い前後の信雄・家康・秀吉の動き





<参考文献>
●長久手町史 資料編6 中世 長久手合戦資料集、平成4年10月1日、長久手町役場
●「小牧・長久手の戦いの構造 戦場論上」、2006年4月、藤田達生編
●「羽柴秀吉と小牧・長久手の戦い」、愛知県史研究 第4号、平成12年3月31日、愛知県史研究編集委員会編
●「家忠日記」、増補 続史料大成 第19巻、昭和54年2月20日、竹内理三編、臨川書店
●新訂 徳川家康文書の研究(上巻)、昭和55年3月28日、中村孝也著、日本学術振興会
●「織田信雄分限帳」、愛知県史 資料編12 織豊2、平成19年3月31日、愛知県
●織豊期主要人物居所集成、2011年6月30日、藤井讓治編、思文閣出版
●「天正12年の東海戦役(小牧・長久手の戦い)における秀吉・信雄・家康の城郭戦略」、豊臣の城―戦争・政治と城郭―、2003年8月25日、白峰旬著
●平田町史 上巻、昭和39年12月1日 岐阜県海津郡平田町役場、昭和62年10月10日 復刻版発行、平田町役場
●海津町史 通史編上、昭和58年3月30日、海津町
●「小牧・長久手の戦いと羽柴政権」、愛知県史研究 第13号、平成21年3月31日、愛知県
●天下人の書状を読む 岡山藩池田家文書、2013年8月10日、岡山大学附属図書館 林原美術館、吉川弘文館






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【小牧・長久手の戦い/犬山城の戦い】 犬山城主はこんな城だった!


現在、犬山城は国宝に指定されています。
でも、今の犬山城は江戸時代・成瀬氏の城郭と城下町として整備されたものです。

では、小牧・長久手の戦い当時の犬山城はどんな感じだったのでしょうか?

犬山城 東側


現在も当時のお城があり、しかも国宝のため発掘調査もほとんどされていません。
城郭全体も都市化されているため、発掘調査もままならないのです。
資料を色々と探してみたのですが、なかなか手がかりがありません。
が、数少ない文献から推測してみたいと思います。
まぁ、素人がやることなので間違っていても大目に見てくださいね。


◆城下の規模◆
まず、織田信雄分限帳から城下の規模を推測してみます。
犬山城主・中川定成の項を見てみると、「本知」・「当知」合わせて28,880貫の知行高です。
記載の知行地は7ヶ所で、合計7,879貫です。これが「当知」、すなわち知行替え後の替地のことです。
ということは、残りの15,000貫が「本知」、すなわち犬山だと考えられます。
分限帳に「犬山」との記載はなく空白地になっていますが、犬山城主・中川定成に一円的に与えられていたと考えられます。

貫高制を石高制に換算します。1貫=2石とすると、犬山一円は30,000石となります。
1石は、1年間に1人が食べるお米の量。
お米1石=1,000合=150キログラム。
今のお金に換算して、お米10キログラム=5,000円とすると、
1石=75,000円となります。

犬山30,000石=22.5億円が収入となります。
1万石の領地では、人口は1万人、武士は500人ほどと思われます。
ですので、犬山3万石では人口3万人、武士は1,500人程度かと。
現在の犬山市の人口74,800人、歳入400億円です。
現在の5分の2の人口だったということですね。
結構な大きさです。

犬山城の模型1



◆犬山のポジション◆
天正12年(1584年)当時、織田信雄の有力家臣が居城した尾張国内の城館として、犬山城を始め17ヶ所あったと考えられています。
戦国城下町の研究の結果、これらは領国内に6~10キロメートルの間隔で分布し、清須がその中心になっていました。
ちなみに、清須城は織田信雄の居城です。
すなわち、信雄時代には領国内のほぼ中心に位置する城下町清須を頂点として、中心集落網が形成されていたのです。

その中にあって、犬山はどのようなポジションにあったのでしょうか?
まずは地理的に見てみると、北側に木曽川が流れる天然の要害です。川を挟んで美濃国と接しているため、信雄領内でも重要な城だったと考えられます。
つぎに、信雄分限帳を見てみると、中川定成は22,880貫、そのうち犬山は15,000貫を与えられています。他の有力家臣で多くても天野雄光が15,690貫、水野忠重が13,000貫などです。
つまり、中川定成は筆頭家臣であり、犬山は最も大きい領土として与えられていたと考えられます。犬山は信雄にとって重要な城であり、最も信頼の置ける重臣・中川定成を配置していたのでしょう。

織田信雄分限帳 中川定成の項



◆犬山城の姿◆
残念ながら、当時の犬山城の姿を記述した資料はほとんど存在しません。
それでも、当時の姿を推測している文献があります。
それによると、当時は現在の犬山城の位置に曲輪が整備され、山腹の横堀、堀切によって曲輪群が一体化し、さらに、城下には一重の惣構えが設けられていました。
惣構えは、当時の信雄の支城である黒田城、松ノ木城、竹ヶ鼻城、蟹江城などでも見られているもので、犬山城も惣構えを持つ城下町が存在したことは間違いないでしょう。
そう考えると、江戸時代の城郭、城下町の基本的な部分は天正12年当時にほぼ出来ていたと考えても良いと考えます。

天守閣については、築城年がはっきりしていないのが現状ですが、当時天守閣があったとしても現在の犬山城より小さかっただろうことは確かだと思います。
天守閣までいかないまでも、櫓や城館があったことは確かだとは思いますが。

犬山城の模型2



このように、織田信雄にとって犬山は非常に重要な位置づけだったのです。
なのに、秀吉方の池田恒興に攻め落とされてしまいました。
そのショックといったら計り知れなかったでしょうね。


<参考文献>
●犬山市史 通史編上、平成9年11月25日、犬山市
●愛知県史 資料編12 織豊2、平成19年3月31日、愛知県
●図説 犬山城、平成26年3月31日、公益財団法人 犬山城白帝文庫
●郷土文化 第49巻第1号、平成6年8月15日、名古屋郷土文化会
●「尾張国における織豊期城下町網の構造 ―織田信雄期の支城を中心にしてー」、中世城郭研究論集、1990年5月25日、村田修三編、新人物往来社
●「天正12年の東海戦役(小牧・長久手の戦い)における秀吉・信雄・家康の城郭戦略」、豊臣の城―戦争・政治と城郭―、2003年8月25日、白峰旬著
●国宝犬山城 ―三度の戦争を生き抜いた城―、2011年(平成23年)、犬山教育委員会 歴史まちづくり課
●「戦国期城下町の構造」、日本史研究 257巻、1984年1月20日、日本史研究会
●「織豊系城郭の構造 ―虎口プランによる縄張編年の試みー」、史林 第70巻第2号、1987年3月1日、史学研究会
●日本城郭大系 第9巻 静岡・愛知・岐阜、昭和54年6月15日、新人物往来社
●戦国城下町の研究、昭和60年9月27日、小林健太郎著、大明堂
●「犬山城天守の評価をめぐって ー過去の天守をめぐる評価と課題―」、高田徹著、愛城研報告 第13号、2009年8月、愛知中世城郭研究会
●「犬山城の瓦について ―特に桐紋瓦を中心としてー」、高田徹著、愛城研報告 第2号、1995年3月31日、愛知中世城郭研究会





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小牧・長久手の戦いゆかりの地(3) 【楽田城】



言わずと知れた(?)北尾張での戦いの秀吉の陣城です。


楽田城1



小牧城には家康がいて、にらみ合いになります。

今は楽田小学校になっていて、遺構などはほとんど残っていませんし、犬山市も愛知県もさほどアピールもしていないので、秀吉の居城だったということはあまり知られていません。

その面影もないのが非常に残念です。

楽田城2




ここを拠点に、様々な城や砦の普請をしています。

かつてないほどの城郭争奪戦が繰り広げられる事になる、重要な拠点が楽田城だったのです。

さらには、ここから岡崎へ進軍する「中入り作戦」が決行されます。

結果はご存知の通り、長久手の戦いでの敗北。

楽田城3




楽田城は、小牧・長久手の戦いにとっては非常に重要な城だったのです。





【位置情報】
〒484ー0858 愛知県犬山市字城山97番地

Googlemap
https://www.google.co.jp/maps/place/35%C2%B019'41.4%22N+136%C2%B057'01.9%22E/@35.3280315,136.9511229,15z/data=!4m6!1m3!3m2!1s0x0:0x44d8bd119656bea4!2z5qW955Sw5bCP5a2m5qCh!3m1!1s0x60030d054ee7efbb:0xade3bfd35d1ac5ac



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小牧・長久手の戦いゆかりの地(2) 【犬山城】


国宝 犬山城です。




北尾張での戦いは、この犬山城が池田恒興によって落とされるところから始まります。

当時、池田恒興は大垣城主だったのですが、以前に犬山城主だったこともあってよく知っている城、ということだったんです。

また、当時の犬山城主は織田信雄の家臣・中川定成。

この中川定成が伊勢へ出陣していたところを、池田恒興が攻めます。

手薄になっていた犬山城は、一晩のうちに落ちることとなります。

いわゆる、【犬山城の戦い】です。

これにより、秀吉方は尾張に橋頭堡を置くことができ、八幡林の戦い、小牧でのにらみ合い、長久手の戦いへと進んでいきます。

おそらく、この犬山城の戦いのときに、先日ご紹介した伊木山城を拠点にしていたのでしょう。

写真の1枚目は、現在の犬山城天守閣です。

それほど大きくないですが、木曽川沿いにある後堅固な城郭で、とてもカッコいいですね。

まぁ、その堅固な後ろ側から攻められて落ちるんですけどね。


犬山城



木曽川を挟んで岐阜県側(美濃側)からみた犬山城です。しかも夕暮れどき。


犬山城の戦いは夜陰に乗じて攻めたとされていますかが、そのときの雰囲気を感じられるかなぁと思って撮ってみました。

犬山城は現存する天守で、国宝です。



【位置情報】
〒484-0082 愛知県犬山市犬山北古券65-2

Googlemap
https://www.google.co.jp/maps/place/%E7%8A%AC%E5%B1%B1%E5%9F%8E/@35.3883547,136.9391775,15z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0x285afa434603f635



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小牧・長久手の戦いゆかりの地(1) 【伊木山城】


伊木山城

木曽川を挟んで愛知県側からの伊木山。


山頂には伊木山城があったと言われていて、発掘調査でも見つかっています。

伊木山城跡 本丸

伊木山城 本丸跡です。
素人ではちょっとわかりにくいです。
木々を切るとか、案内板を作るとかしてもっと整備して欲しいですね。
せっかくの遺構なんですから。


伊木山城主・伊木清兵衛忠次は池田恒興の家臣で、のちの姫路藩主・池田輝政(恒興の子)の筆頭家老になる男です。


伊木山案内板

現在は 国営木曽三川公園となっていて、登山道がいくつかあります。




伊木山城からの眺め

伊木山城からの犬山城(川の右手)と鵜沼城(川の左手)です。
とっても良い眺めです。
北を向けば岐阜城も見えます。
が、木々に阻まれてよく見えません。
残念です。

重要な拠点だったことが伺えます。
私は、伊木山城は犬山城の戦いの拠点になったり、秀吉も行き来していたのではないかと考えています。


【位置情報】
〒509-0111 岐阜県各務原市鵜沼

Googlemap
https://www.google.com/maps/place/35%C2%B023'03.6%22N+136%C2%B055'21.2%22E/@35.384332,136.922556,17z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x0:0x0



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今日は、岐阜お城シンポジウムというのに参加しています。



https://www.facebook.com/events/1544396035840374/


名古屋城や岐阜城の面白い話をかぶりついて聞いてます。

小牧・長久手の戦いとはあまり関係ないですけどね。


ただ、調べものしてたら小牧・長久手の戦いに関する新たな発見がありました。
あまり知られていないことかもしれません。


そのあたりもまたいつか。


僕、犬山に住んでまして。
犬山が絡む合戦ってなにかなぁって、真っ先に思い浮かんだのが 『小牧・長久手の戦い』。

信長の美濃攻め、関ヶ原の戦いも大いに関係してますけどね。



いろいろ調べてくと面白いことがわかってきましたよ。
ネットでみるといろんな方が書いてるんですけど、この辺りのことは詳しく書かれないので、僕が調べられる範囲で調べた結果をまとめたいと思います。


ボチボチやるつもりなので、気長にお楽しみ頂ければと思います。




伊木山城から見る犬山城と鵜沼城。
見にくいですが(-.-)


池田恒興が鵜沼城から犬山城を攻めたとされていますが、伊木山城からじゃないかと思うんですね。


まぁ、その辺り詳しくは次回にします!