カルピスの三島海雲の名言『泣くな 怒るな あわてるな』 | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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心に響く名言42.1
カルピスの創業者 三島海雲の名言『泣くな 怒るな あわてるな
                 清く 正しく 根気よく 』


2023年、この年の日本の夏は近来記憶にないほどの異常な猛暑の連続でした。
この暑さの中で、いささかの涼しさを求めてよくお世話になったのが、清涼飲料です。
筆者のお気に入りの一つが、カルピスです。

カルピスといえば、大正、昭和生まれの日本人なら知らない人がいないのではないかと
いうくらいに国民的人気の高い清涼飲料でしょう。

 

 

[昭和時代のカルピス]

近頃はカルピスウォーターとかカルピスソーダなどの缶入り、PETボトル入りのそのまま飲むことが出来る商品も発売されていますが、元々は濃縮された原液の入った瓶で販売していました。
そのカルピスをグラスに入れて、冷水などで薄めてお好みの味にして飲むものでした。

『初恋の味』という抜群のキャッチフレーズとともに日本人に親しまれた飲み物ですが、このカルピスの知名度ほど、その発明者やカルピスの会社の創業者は知られていないようです。

今回の心に響く名言は、そのカルピスの発明家で実業家の三島海雲の言葉です。

この海雲の言葉は、昭和2年 正月に海雲が富士山に登頂した時に年賀状として記したものです。

一見すると何の変哲もない言葉の羅列です。少し陽気な人物が、今の高揚した気持ちを思いつくままに書いた文のように感じるかもしれません。

しかし、三島がカルピスで成功するまでの、失敗の連続、波乱万丈の人生をたどっていくと、その生き方の根本原理、行動の結果から得た人生哲学がつまっている金言、名言といえると思います。

ということで、この名言の解説の前に彼の前半生を振り返ってみたいと思います。

三島海雲の生い立ちと青年期

三島海雲は、明治11年(1878年)に大阪府萱野村(現・箕面市)で父法城、母雪枝の間の長男として生まれました。
生家は地元のお寺(浄土真宗)でしたが、檀家数が少なく貧乏でした。
そのため両親は生活を支えるためにお寺以外の仕事をしていました。

海雲がまだ十歳頃のことです。父親が副業に失敗し、雲隠れをしてしまいます。
海雲は、そのような父親がお祈りしていた仏像を、何のご利益もないと怒って、焼き捨ててしまったといいます。彼の激情家の一面を示すエピソードです。


母の雪枝は海雲を育てるため、借金をして当時あまりよい印象を持たれていなかった銭湯を開業します。
こうして三島家はどうにか生活を支えながら、海雲を小学校に通わせます。しかし、海雲はその小学校を卒業することなく中退してしまいます。卒業間際に尊敬する小学校の校長が不祥事を起こし、学校に行くのがいやになったとのでした。

そうした三島でしたが、13歳で得度を受け、明治26年(1893年)に京都西本願寺文学寮(現、竜谷大学)予科2年に入学します。
そこで、生涯の恩師となる杉村楚人冠の教えを受けます。
杉村楚人冠は、その後著名な朝日新聞のジャーナリスト、詩人となった人物です。

杉村は国語と英語の担任であり、さらに寄宿舎の舎監を兼務していました。杉村との師弟関係は、杉村が亡くなるまで50年間続きます。
「自然のような人間になれ」とは、杉村が海雲によく話した言葉です。
どのような場所で誰に見られても、決して恥ずかしくないような人間になれということです。

海雲は杉村以外の先生方にもことのほかかわいがられました。また多くの友人、先輩とも厚い親交を重ねます。
三島はこの文学寮時代を振り返り、「後の人生に多くの糧を与えてくれた多くの人を得た」と回想しています。

明治32年(1899年)20歳の時に文学寮を卒業し、 山口県開導中学に赴任、英語教師となります。
しかし、すぐに辞めてしまいます。
英語教師といっても正式な検定試験を通っていませんでしたので、給料は決して良くありませんでした。また、実際に教師をしてみると、英語のわからないところが出てくることもあったからです。
英語を本格的に勉強し、検定試験を受験するための辞任でした。

英語教師の検定試験合格を目指し上京し、斎藤英語学校に通い始めた海雲でしたが、体調を崩し半年で帰郷することになってしまいました。幼少期から青年期まで、身体が弱くあまり健康的でなかったと本人も述懐しています。

養生に励みどうにか体調を回復した海雲は、明治34年(1901年)に再び上京します。西本願寺文学寮卒業の特権を活かして、東京仏教大学3年に編入学します。
やがて日露戦争の直前という時代背景のなか、青雲の志をいだいて中国大陸へと渡ります。
明治35年(1902)23歳の時のことです。

中国大陸での生活

中国では北京東文学社(主宰 中島裁之)の教師となりました。そしてここで海雲は、土倉五郎に出会います。
海雲は学舎で同室の土倉に中国語を教え、寝食を共にするとともに親しくなっていきます。
そして土倉と協同で北京に「日華洋行」という貿易店を設立します。
実は土倉は大富豪の息子で、当時の金額で一万円(現在の一億円を超える価値)という大金を出資する
ことができたのです。
そして、37年にモンゴルまで軍馬を調達するために内モンゴルに運命の旅をします。
当時日露戦争が勃発し、軍馬の需給がひっ迫していました。
満州の馬も買いつくしてしまったため、内モンゴルまで軍馬を調達しに行ったわけです。


[海雲28歳頃の写真]三島海雲記念財団HPより転送
 

ところが海雲は、慣れないモンゴルの地を旅する中で体調を崩してしまいます。
頭痛が止まらず、胃腸の調子も悪くなり寝ても疲れがとれませんでした。

医者もおらず病院もない場所です。この海雲の苦境を救ったのが、後のカルピスの元になる「酸乳」でした。
「酸乳」は馬の乳を発酵させた現地の遊牧民が飲んでいる少し酸っぱい乳製品です。
三島はすすめられるままに「酸乳」を飲み、その美味しさに驚きました。
この「霊薬」は健康効果も抜群でした。
胃腸の調子が整い不眠症も治し、すっかり体調を回復したのです。

戦争の後も海雲はモンゴルに残ります。明治38年(1905年)27歳の時に牧場経営を始めます。海雲は牛肉を蒙古から日本へ輸出する事業を行いますが、牧場経営はうまくいきませんでした。

明治42年(1909)には起死回生を図るべく、大隈重信の助言をヒントに内モンゴルで綿羊の改良に着手します。
当時日本では軍服にオーストラリア産の羊毛を使用していましたが、それを蒙古で代替するという事業の計画です。
これならば事業としても成り立つし、国策にもかなうとの考えでした。

海雲は綿羊の改良に懸命に取り組みますが、またしても大きな障害に突き当ります。
1911年の辛亥革命の勃発です。綿羊事業をするための許可を清朝と交渉していたのですが、その清朝が消滅してしまったのです。事業はできなくなってしまいました。

綿羊事業の頓挫のあと、海雲は中国に残り粉炭やコーヒー豆の買い付け、金貸しなどを行い、ましたが、いずれもうまくいきませんでした。
海雲にさらに悪い知らせが届きます。
日本に残した妻が心労で倒れてしまったのです。

海雲は23歳で中国に渡り、15年間がむしゃらに働いてきました。
母の死に目にも会えず、結婚しても、家族を日本に残し会うこともままならない大陸での生活でした。

こうして三島海雲は、青春時代の注ぎ込んだ中国での全ての事業を手放し、大正4年(1915年)に無一文で帰国します。三島36歳の時のことです。

三島海雲の生い立ちと青年期は如何でしたか。
失敗を繰り返し倒れても、常に起き上がって新しい事業に取り組む姿は七転八起、まさに大勇猛心の発情ですが、どうして三島はそれを行うことが出来たのでしょうか。

次回は、三島海雲のこうした心情の推理や、名言の背景を探ると共に、彼の命式を読み解いてみたいと思います。


[三島海雲の命式]

 

最後に命式表を載せておきます。彼の命式表を眺めて、その波乱万丈の人生に思いをはせてください。

今回もブログを最後までお読みいただき、有難うございました。