41.3 マルクス・アウレリウスの後半生 | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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「正しく実行すれば、夢はかなう」をモットーに東洋易学、四柱推命(神機推命)、風水などの秘伝を公開し、自分の夢を実現するとか、悩みの解消に役立つ運命好転化技法を紹介します。

41.3 マルクス・アウレリウスの青年時代から後半生

アウレリウスは西暦140年、19歳の時に一度目の執政官(ローマの形式上の元首)に就きます。執政官として二つの元老院議長の一人として議会を統制する役割を担います。

145年 二度目の執政官を勤めました。この時は体調を崩すこともありました。
彼の秘書から「貴方が良い顔色で元老院に入って力強く演説できるように、十分な睡眠を取るべきです」と助言を受けています。

同じこの年、アウレリウス24歳の時です。7年前に結んだ婚約に従って
従姉妹の小ファウスティナと結婚します。



[マルクス・アウレリウスの肖像]

 

147年11月30日、妻の小ファウスティナは最初の子供を生みます。
小ファウスティナはこの後の23年間に、アウレリウスとの間に少なくても13人の
子宝に恵まれます。
この二人は仲睦ましい夫婦ともいえそうですが、妻の小ファウスティナには競合者を暗殺したとか、剣闘士と不倫をしたとかいった噂も多く、あまり評判の良くない女性でした。
妬みややっかみからたてられた悪口だった可能性もあり、本当のところはよくわかりませんが、「火のないところに煙は立たず」です。
アウレリウスはそのような妻を弁明することが多かったようです。

アウレリウスの命式の日柱の通変星は「比肩」が入っています。
この日柱地支は配偶者の場所です。
「比肩」ですから、本人と同等とか並べ立つという意味を持ちます。
彼女は名門の出でアウレリウスと同等の家格で、母が姉妹の従妹になります。
しかし、その性格や人格は必ずしも同等ではなかったようです。
小ファウスティナの運勢や性格は、やはり彼女の命式を立て、それに基づいて推命をしなければいけないということでしょう。


ローマ皇帝としての活動

161年、アウレリウスが40歳の時、ローマ帝国の皇帝を継承します。
必ずしも本人が望んだ地位でなかったことは、前述したとおりです。しかし、彼は自分の職責に見合う仕事をするべく全力で立ち向かいます。

即位してすぐに貧民階級の子供に対する慈善政策を進めます。アウレリウスはその質素な生活と、貴族的でない謙虚な振る舞いから民衆の人気を集めていました。
彼の皇帝就任時はローマ帝国にとってもその人民にとっても最も自由と繁栄を享受した時代でした。
さらに人事政策にも着手します。帝国の要職に自分のよく知る人物を就けるなどして
体制を固めていきます。

この161年に外交関係で大きな問題が発生します。
帝国の庇護下にあったアルメニア王国にパルティア軍が侵攻、王を追放して新たに親パルティア派の君主を立てる暴挙に出たのです。

パルティア国は、紀元前3世紀にイラン系遊牧民がセレウコス朝シリアから自立し、
イラン高原に建国した国家です。
東洋の中国では後漢の時代にあたり、パルティアは安息国として知られています。
この国はカスピ海南岸のイラン高原からメソポタミアに進出し、後にクテシフォンに遷都をし、東西交易路を抑えて繁栄をします。やがてローマ帝国と対峙します。

中国の匈奴と同様の遊牧民で騎馬民族であったパルティアは、その弓騎兵の独特の戦法でローマ兵を苦戦させます。
彼らは騎馬で弓矢をかまえて近づくと一転して後ろ向きの姿勢のまま、矢を放って逃げ去ります。後ろ向きになって矢を放つパルティア騎兵を見てローマ兵は驚嘆します。
後を追っても追いつけない。諦めるとまた襲ってくるという繰り返しでした。



[ローマの兵士]

 

重装備に身を包み密集団形での戦いを得意としたローマ軍は当時世界最強とうたわれていました。
実戦の経験も多く積み、高度に訓練された百戦錬磨のローマ軍もパルティアの軍隊とは五分五分の戦いをしています。

紀元前53年のカルラエの戦いで、パルティア軍はクラッスス将軍率いる4倍以上の大軍を破ります。
逆に紀元117年のローマ皇帝トラヤヌスの東方遠征では、ローマ軍に都クテシフォンを占領されています。
その後パルティアは割譲した地を奪回します。

このパルティアが再びローマに反抗するようになり、アルメニアに侵攻してきたわけです。当初、アルメニア地方をも統治していたカッパドキア総督の勇将セウェリアヌスが軍を率いて鎮圧に向かいますが、アルメニア領内に入ったところでパルティア軍の伏兵に攻撃を受け大敗します。

アウレリウス帝はこうした状況に有効な対処ができませんでした。
彼は政務に関する経験は豊富でしたが軍事的な知識や才覚は乏しく、国境地帯の属州総督を経験したこともなかったからです。




[紀元前2~2世紀のローマ帝国]

(世界史年表・地図 吉川弘文館編 一部改変)

 

状況は悪化を続け、パルティア軍はカッパドキアに続いてシリア総督の軍勢も撃破します。
翌年にようやくパルティアに対抗するべくローマ軍を編成したアウレリウスは、同僚皇帝のルキウスに軍を率いさせてアルメニアに向けて進軍を始めます。

この戦いも苦戦が続くローマ軍でしたが、騎下の将軍たちの奮戦により163年になってアルメニア王国の首都アルカタを奪還します。
そして、西暦165年再びクテシフォンを占領、ローマの勝利に終わりました。

疫病の流行

翌166年、ローマに凱旋した軍隊は多くの戦利品をもたらしましたが、帰還した兵士が東方から疫病を持ち帰り、これが急速に広がってローマは恐慌に陥いります。
いわゆるパンデミックですね。

これは天然痘ともペストとも言われています。ローマ帝国衰退の一因になったともいわれています。このようにパルティア戦争は勝利したとはいえ、新たな領土を得られたわけではなく、疫病がもたらされたと言うことで益の少ない戦争でした。

さらにアウレリウスにとって、好ましくない事態が続きます。
時を同じくして北のゲルマン人のローマ帝国領への侵攻が始まったのです。
どうやらパンデミックの疫病によりローマが衰退し始めたと考え、これを好機と先住のケルト人の住む地方へ進出をしたのです。

このゲルマン人はヨーロッパの北部、スカンジナヴィア半島南部からバルト海・北海の沿岸で多くの部族に別れて牧畜と農耕を営んでいた人々の総称です。必ずしも国王のような絶対君主の元で一つの国家として侵攻を開始したわけではありません。

166年末頃、ゲルマン人の諸部族がドナウ川を越えてローマ領属州パンノニア(現在のハンガリー)に侵攻します。
その中心となっていた部族が現在のチェコのあたりにいたマルコマンニ人であったので
ローマではこの戦争をマルコマンニ戦争と呼んでいます。
侵入は撃退され一時的な講和となりますが、翌年には属州ダキアの金鉱地帯が襲われます。

このゲルマン人もローマ帝国軍にとって侮りがたい強敵でした。
彼らは好戦的で、日頃から鎗や刀剣の戦闘技術を磨き馬術にも優れていました。帝国の国境地帯に住んでいたため、草原や森林での戦いに長けローマ軍に対して先制攻撃や奇襲を仕掛けることができたからです。

168年、アウレリウスはルキウス帝とともにマルコマンニの戦いに出発し、北イタリアのアクィレイアに総司令部を置きます。

この戦いは、ゲルマンの諸民族の各地の戦線で攻勢を強めローマ軍は各所で敗北します。やむなく皇帝二人はローマに帰還しますが、途中の169年1月にルキウス帝が卒中のため38歳の若さで亡くなるという不幸に見舞われます。

アウレリウスは軍隊を補充して。再び出征しパンノニアで北方部族と激しい戦闘を繰り返します。
ゲルマン部族の動きは最高潮に達し、アルプスを突破してイタリア本土になだれ込み、
さらにバルカン半島を南下したゲルマン軍はアテネを脅かしました。
このローマ帝国始まって以来の異民族の大襲来にローマの民衆は大パニックに陥いります。

このようにアウレリウスは各方面から侵攻するゲルマン部族軍に苦しめられましたが、
個別の講和を働きかけて彼ら諸部族を分断することに努めました。

172年からは形勢を逆転させます。なおも戦争は続きましたがゲルマン諸部族の同盟が強固でなかったこともあってローマ軍が各個撃破をはかり、175年には、ゲルマン人を国境近くまで押し戻し、講和の交渉も行われます。

この175年には、長引く戦乱に対する不満を背景にしたガイウス・アウィディウス・カッシウスの反乱も起きるなどアウレリウスは内外の問題の処理で厳しい対応に追われ続けます。
アウレリウスもすでに53歳になっています。『自省録』の書かれた時期は、本当に戦争にあけくれた時期でした。

同じ年に30年間連れ添った妻の小ファウスティナが亡くなります
彼女はゲルマン軍との戦争に、夫と共に出向いて兵士たちを激励する労を惜しまない活動をしています。。
宿営地での閲兵に向かう最中の事故に巻き込まれ、その傷が元で亡くなったといわれています。

177年、ゲルマン部族の反乱が再燃します。第二次マルコマンニ戦争の勃発です。
アウレリウスは後継者に指名した息子のコンモドゥスを引き連れてドナウを越え、ゲルマン人の地に深く侵攻します。

しかし無常迅速、アウレリウスは180年3月17日、戦場のウィンドボナ(ウィーン)で病没します。
彼は永年肝臓の疾患に苦しんでいたとされていますが、この戦場での死因は
腸チフスによるものといわれています。

享年58歳。途方も無い困難と苦難の中で彼は広大なローマ帝国の守護者として、その職責を全うしました。

このローマの五賢帝、最後の皇帝のマルクス・アウレリウスの死によってパックスロマーナの時代は終わりを遂げました.

マルクス・アウレリウスの後半生は如何でしたか。

それにしても歴史は繰り返すと言いますが、彼の統治の時代(160~180年)と現代、2023年の世界も多くの点で共通点を数えることができそうです。

20世紀後半から経済面、軍事面で圧倒的な存在感を誇って世界をリードしてきたアメリカ。その優位性が衰えています。
政治、経済、軍事のあらゆる面で顕在化した中国の台頭、

2001年アルカイダによるNY同時多発テロに端を発した、米英のアフガニスタンからイラクへ攻撃開始。
アラブの春とシリアの内戦。
そしてタリバンが実効支配したアフガニシタンからの米軍撤退、
新型コロナウイルスによるパンデミックの発生、
そして私たちの記憶に新しいロシアによるウクライナ侵攻と世界を震撼させる出来事が続きます。

まさに私たちは古代ローマの人々が体験したような、パックスロマーナならぬパックスアメリカーナの終焉の時代を生きているといえそうです。

もちろん共通点ばかりでなく、異なる点も多々あるとは言えますが、時代の大きな流れは、安定・秩序から混乱・混迷へと移っていると感じざるえません。

このような時代だからこそ、かつて同じような混乱期を必死に生きた先人の
言葉に耳を傾け、自分自身が生きていく上での指針としたいものです。

最後にマルクス・アウレリウスの名言を再掲します。
本日も最後までお読みいただき、有難うございました。

『自分の内を見よ。内にこそ善の泉がある』