三島海雲の命式を読み解く | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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心に響く名言

42.2 三島海雲の命式を読み解く


 1.三島海雲の看命

それでは、三島海雲の命式を読み解いていきましょう。

海雲は明治18年(1878年)7月2日生まれです。
 
年の干支は戊寅
月の干支は戊午
日の干支は辛巳
となります。

下の命式表をご参照ください。



[三島海雲の命式]
 

節入り日から26日ですので、それぞれ蔵干は




となります。
月令は休囚で身弱の命となります。

五行を集計します。
木気は1、火気は2、土気は2、日主を含む金気は1、水気は0です。

次に命式表の通変の組み合わせを確認すると、
年干は 印綬ー正財
月干は 印綬ー威官
日官は    正官
です。
威官格の人です。


五行の構成と配置から海雲の大まかな性状を診ますと、キラリと光る才能はあり、早くから世に出て頭角をあらわす可能性があります。
但し常に物事が滞りがちで、成功するまでに非常な困難を伴う人生を歩む人のようです。
頑張りぬいて成功するか、挫折して失意の人生を送るかは、本人の努力次第といえそうです。

健康面はどちらかというと身体が弱く、なおかつ財を散じやすい人です。
性格は悪くなく、有徳の人物であります。

命式表のその他の部分もみていきましょう。

十干の丙辛が化水の干合、さらに十二支の寅午が半合(戌が入って三合火局)、寅と巳が刑・害に当たります。何とも複雑でにぎやかな命式です。

生家は必ずしも裕福とはいえず、両親の援助は期待できそうにありません。
しかし、祖先の霊というかご先祖さまの目にみえない力に加護されていて、人生の厳しく苦しい時期も、誰かが救いの手を差し伸べてくれる象意があります。

そして、月柱の 印綬ー威官の組み合わせは、他の通変星の配置にもよりますが
なかなか良い星の組み合わせです。自らの力で道を拓く、剛毅で気概に満ちた性状の持ち主です。一代の英雄となることも可能かもしれません。

性格は真っ正直で、曲がったことが大嫌い、陰謀を企てることは苦手です。
正直かつ率直な人で表裏のない性格でしょう。
あまり計画性はなく、その時の時流に乗って見ようとしたり、行き当たりばったりの人生になりそうです。

職業も何回か変わっていきそうです。

地頭が良いので、どのような仕事もそれなりにこなせそうです。
教師にも向いていますし、実業家としてもいけそうですが、お役所の役人、官僚とか大企業の社員にはあまり向いていないかもしれません。

配偶者も本人に似て正義感の強い人で、気量も良いでしょう。
ただし、家族関係はどちらかというと縁が薄そうです。
優秀な子供に恵まれるでしょうが、その親子関係は疎遠になりそうです。

ところで、この人の月支元命の「威官」は殺(さつ)とも呼ばれます。
そして日柱の蔵干から正官、略して「官(かん)」があります。
このような命式を官殺混雑といいます。推命学では命式に官殺が同時に現れることを大変嫌います。官も殺も日主の自分を統制する通変星です。
命令するものが二つもあり、違うことを言えば本人が混乱するのは目に見えています。これと同じ考え方ですね。

こういう場合、どちらかの星を抑えるか、命式から去らす必要があります。
幸いにこの人の命式は「官」が日主と干合して化水となり、その悪い影響を
減らしていると考えます。好命といえるでしょう。
この部分が海雲の命式を診る時の要諦となります。

最後に吉凶星もみておきましょう。

この人の吉凶星は数が多く命式表からあふれるばかりです。多くの貴人に囲まれています。
非常に人徳が高く、多くの優秀な友人に恵まれます。大極貴人と天乙貴人が揃うと大金持ちに
なるといわれていますが、他の貴人が多すぎる点が短所になり、金の出入りが激しい人
見ることができそうです。男性にも女性にも人気があります。少し不良ぽいイケ面で若いときは女性にもてそうです。

さらに詳細に人生の好不調をみる時は、大運、年運も調べますがここでは省略します。

以上、三島海雲の命式を大まかに読み解いた内容です。


2.帰国後の三島海雲

大正4年(1915年)に、海雲が36歳の時、中国での全ての事業を手放し、ほとんど無一文で帰国します。
病気の妻を入院させますが、すぐに入院費と生活費に困窮します。親戚や友人に頭を下げ、お金を
借りてどうにかこの危機を乗り切ります。

翌年、海雲は再び立ち上がります。事業で身を立てようと考え、思いついたのが内モンゴルで
飲んだ「酸乳」でした。

当時、日本でヨーグルトがはやり始めていましたが、あまり美味しいとは言えませんでした。
ヨーグルトよりも美味しくて、健康で体に良いものを提供しようと考えたのです。
こうして、内モンゴルでの体験をもとに、東京帝国大学衛生学教室で乳酸菌の研究を始めます。

この年に知人らの出資を得て「醍醐味合資会社」を設立します。
乳酸菌で発酵させたクリームを商品化した「醍醐味」、さらに「醍醐味」の製造過程で残った
脱脂乳を乳酸菌で発酵させた「醍醐素」を発売しましたが、うまくいきませんでした。
「醍醐味」は味は美味しかったのですが、まだ酪農が未発達だったため牛乳の調達がボトルネックとなり、大量生産ができず、販売を中止せざるえなかったのです。

それでも海雲は諦めず、今度は生きた乳酸菌の入ったキャラメルを開発しました。
海雲と一緒に乳酸菌の研究をしていた大学院生がその研究を引き継ぎ、海雲と連名で「生きた乳酸菌入りのキャラメル製法の特許」を取得することに成功したのです。



[三島海雲]

 

海雲は知人の伝手を頼り、大物実業家の津下(つげ)紋太郎に出資を仰ぐと25万円という大金を出資してくれました。大正6年(1917年)海雲38歳の時です。こうしてラクトー株式会社(カルピス株式会社の前身)を設立することができ、「ラクトーキャラメル」の生産、販売にこぎつけます。
この商品については「うまい」と好評価を得ましたが、夏場になって気温が上がると溶けてしまうという問題が発生し、またもやうまくいきませんでした。
資本金も食いつぶしてしまいます。

3.海雲の人徳と名言

海雲は中国での事業に何回も失敗しています。日本帰国後も前述のように事業に何回も失敗し、多くの知人、友人から融資を受けた大金を失っています。

通常であれば、いくら友人とはいえ、これだけ失敗を重ねる貧乏神の海雲に再びお金を用立てることはしないでしょう。
筆者であれば、彼にお金を渡せば絶対に戻ってこないものと考え、お金は貸さず体よくお帰りいただいたこととと思います。

この一見、不可能に思える事業資金の工面を、三島はどうやって行ったのでしょうか。
その秘密を解き明かすヒントについて、海財団法人『三島海雲記念財団』の名誉理事である中道健太郎は次のように語っています。

『国利民福』のために働くことを人生のモットーとし、強く正しく生き抜いた、 私利私欲のない人間、それが三島海雲である」
国利民福とは、事業を行うことで国家を利し、日本国民に幸福をもたらすという海雲の事業の綱領です。家族を養うことにも窮する海雲でしたが、その志は高く本当に根からそのように信じていたのでしょう。彼の師である杉村素人冠や、もっというと彼が学んだ仏教の根本に根ざした考えだと思います。

また、当時海雲と関わった人物で、後に日本石油(株)社長となった栗田淳一はこう語っています。
「三島さんは何事によらず、こうしようと思ったことには熱心だ。それが人の心を打つ。それからすこぶる正直である。それでは人は三島さんを応援したくなる。一言でいえば三島さんの人徳ということです。」

正直で心正しく、自分の思いを率直に伝え相手を魅了するところが三島の真骨頂と言えそうです。

こうして、三島海雲の前半生をたどってくると、彼の名言にこめられた思いを汲み取ることが
できると思います。

『泣くな 怒るな あわてるな
 清く 正しく 根気よく 』


人生で、新しいことに取り組めば、失敗はつきものというか、成功することの方が少ないものです。
でもうまくいかない時に、泣いても、怒っても、わめいても何も事態は改善しません。

失敗の原因を探り、その対策を練る。それも小手先の対応ではなく、原理・原則にのっとった清く、正しい方法で上手くいくまで何回も、正攻法で当たっていく。そういう自分の生き方を述べたものがこの名言です。
清く(浄く)という語句が入っているところが、青年期に仏教を学んだ彼らしいと思います。
嘘をついたり、法を犯すとか、人の道に反するような行為(汚れ)をして、人生の目標を達成したり、成功を収めても本当の幸福感や満足を得ることができないということでしょう。

次回は、三島海雲の後半生を追いかけてみたいと思います。

今回も最後までお読みいただき、有難うございました。