心に響く名言
38.3 光武帝劉秀の命式を読み解く
久しぶりのブログです(-_-;)
ここのところ、むちゃくちゃ本業の仕事や副業のネット販売、そして趣味の延長で始めた無農薬野菜の販売が忙しい日が続いています。
この一か月は文字通り休日がなく、働きずくめでした。
前のお話を思い出しながら、今回は後漢の光武帝の命式を読み解きたいと思います。
劉秀は、武勇も並外れていましたが、名文家としても知られております。
現在も使われている諺や格言の成立にも関わっています。
例えば、
若い時に、将来の希望を訪ねられ、次のような句を作りました。
官に就くなら執金吾、(しつきんご)
妻を娶らば陰麗華(いんれいか)
執金吾というのは、都で盗賊などの討伐にあたった皇帝直属の武官です。華やかな衣装を纏っていたので、若者たちの憧れでもあったようです。
陰麗華は、劉秀が生まれ育った土地の豪族の娘で、美人として誉が高かった令嬢でした。
後に、劉秀は若い時の希望通りに、陰麗華と結ばれます。陰麗華は皇后となり、一男三女をもうけます。もう一つの執金吾の方は、はるかに上の皇帝となったため、実現しませんでした。
また、後漢建国後の建武23年に、ベトナム地方で反乱が起きます。この時に、反乱の鎮圧の将軍に派遣します。
伏波将軍の馬援という人が、62歳という当時としては高齢にもかかわらず、正装をして光武帝にアピールします。
「矍鑠たる、この翁」と光武帝は馬援に声をかけ、出陣を許可するのです。今でも年配の方ですこぶる健康な人を矍鑠(かくしゃく)と言いますが、このエピソードに由来しているわけです。
今回の名言の「蜀望(しょくぼう)」もその一つですね。
[光武帝 劉秀の肖像画]ウキペディアより引用
このように超人のような存在の劉秀です。
この人は建平元年十二月甲子日(BC5年1月15日)の生まれです。
表の命式表をご覧ください。
[劉秀の命式表]
年の干支が丙辰
月の干支が辛丑
日の干支が甲子
です。
月令は旺相です。
五行を集計すると、
生日を含む木気が1、火気が1、土気が2、金気が1、水気が1になります。
五行が全て揃っています。
この人は冬月の生まれで、半合ですが水局を形成しています。
冬月の木で、水はそれほど要らない命式ですが水気過多といえます。
これが蔵干に壬が多くあれば浮木(ふぼく)の命になりますが、蔵干の多くが癸ですのでかろうじて浮木の命を逃れています。
以上からこの人は非常に頭が良く、極めて慎重な性格であると読み取れます。
甲日生まれですのでリーダーシップもあり、皆から慕われる人間的な優しさをもった人ともいえそうです。
通変星や十二運をみてみましょう。年干に食神があります。
祖先をたどれば名門の出で、親兄弟とも大変仲が良い家庭環境ですが、財産面で家からの支援を受けることは難しいようです。
月の柱の通変は正官と印綬の組合せです。推命上で最も理想的な組合せの一つで
「正官、印綬を帯びる」とか官印格といわれる組合せです。
官印格の日本人には、戦国武将の豊臣秀吉、政治家田中角栄、陸軍軍人の阿南惟幾、
作家の井伏鱒二、作曲家のいずみたく、といった人々がいます。
劉秀の治世
西暦25年6月、劉秀は漢の帝位につき、10月には都を洛陽に置きます。
皇帝としての権力を手にしてからも毎朝早くから仕事に精を出し、深夜まで睡眠を削って政策を議論することもしばしばであったと伝えられています。
自らの精励ぶりの反面、部下には寛容で天下平定後は数多くの文官を登用します。
武官として活躍した建国の功臣たちは、注意深く権力の中枢から外していきますが高い身分や待遇を保証しその功に報いています。
光武帝は功臣たちの中からただの一人も粛清者を出していないことは特筆に値します。
前漢の劉邦や、明の洪武帝・朱元璋が功臣を次々と粛清したのと好対照です。
光武帝の治世の特徴はあらゆる面で無理をせず、何よりもまず民の生活の回復に努めたことでしょう。これはその当時の情勢に極めて合っていたといえます。
なぜなら当時は相次ぐ戦乱で民の生活は困窮の極に達していたからです。
王莽時代に厳しく定められた法にふれて奴婢とされた者を次々と赦免して、奴婢を農村に帰しています。奴隷の解放です。
また田にかかる租税を軽減して、前漢と同じ税率を復活させました。
加えて、広く農民から軍兵を徴兵することをやめて、世襲的な皇帝直属軍を設置するなど、農民が農業に安心して専念できる体制も整えています。
光武帝は教育制度の整備にも熱心でした。学問を振興し、地方にも学校を次々と作っていったことで、この国は当時として世界的にも高い識字率を誇っていました。
仕事熱心なお堅いだけでなく、よく夜には部下と共に城下町へ遊びに出かけるほどの気さくな人物であったとも伝えられています。占い好きで冗談もよく言ったそうですが、妻の陰麗華は、夫の冗談には眉をひそめたそうです。
このように光武帝劉秀は人間的にも魅力あふれ、為政者としても欠点がありませんでした。逆にあまりにも欠点のない優秀な人物だったために、大衆が好む演劇や講談などに取り上げられることが少なかったのかもしれません。
日本では、中国の項羽と劉邦による漢楚争覇の時代や魏、呉、蜀の三国時代、
隋唐演義の時代に比べて人気がないのは残念です。
まだまだ、光武帝について語りたいところはありますが、ここらで一息つかせて
いただきたいと思います。
最後に劉秀の名言を再掲します。
「人、足るを知らざるに苦しむ。
既に隴を得て、復た蜀を望む 」
今回も最後までお読みいただき有難うございました。