38.2 劉秀と雲台二十八将、征南公岑彭 | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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心に響く名言 38.2 

劉秀と雲台二十八将、征南公岑彭(しんぽう)

 

雲台二十八将について

いくつかの優れた物や人物を集めて、それらを称える時に数字を使って、表現することがあります。
良く使われるのは、三羽烏とか、四天王、八大竜王、十哲といった具合に、3とか4とか8や10という数字でしょう。
 

ところで、後漢の初代皇帝劉秀を支えて、建国に功績があった人を雲台二十八将といいます。これは、二代皇帝の明帝が、洛陽南宮の雲台に二十八将の肖像画を描かせて「雲台二十八将」として称えたことが始まりです。
一つの国を建国するとか、大きな事業を成功させるとなると、何十人もの協力者が必要なことは理解できます。しかし、28人となると数も多く直接その事業に関わらなかった者が、その人達の事績なり氏名を覚えようとしてもなかなか覚えきれるものではありません。

仏教では千手観音菩薩の眷属が二十八部衆で、京都東山の無量院(三十三間堂)などで拝観することができます。

 

 


[京都 清水寺の二十八部衆(一部)]
 

この雲台二十八将を手本にした我が国の事例では、徳川家康の天下取りに力を尽くした
徳川二十八神将がいます。一般的には徳川四天王が有名ですが、安藤直次や伊奈忠政、大久保忠世、渡辺守綱といった功績のあった武将が名を連ねています。

また、幕末の侠客清水次郎長の子分の清水二十八人衆は、その名前をお聞きになった方もいらっしゃるでしょう。大政に小政、大瀬半五郎、増川仙右衛門といった面々です。
「清水港は鬼より恐い。大政、小政の声がする」と歌われた子分衆で、彼らのお陰で次郎長は海道一の親分と評判をとりました。。

ご存知遠州森の石松が、船の中で飲みねえ食いねえと、他の乗合いの客と掛け合うのが、広沢寅蔵演じる講談「石松と三十石船」です。
次郎長の子分の中に、なかなか自分の名前が出てこないのをもどかしく感じる石松が、面白く語られています。

この28という数字は月が新月から満月を経て新月に戻る数字に近く、中国の古代占星術にそのルーツがあるようです。28は4×7でもあります。
天界を東西南北の四つに区分し中国における二十八宿の星座は4つの方角の七宿ごとにまとめられ、その繋げられた形は4つの聖獣の姿に見たてられ、東方青龍・北方玄武・西方白虎・南方朱雀の四象(四神ともいう)に分けられます。
二十八宿は、それぞれの宿の西端の星を基準とし、その距星から東隣の宿の距星までがその宿の広度となります。
これを暦注としての二十八宿による日の吉凶を判断するわけです。

 


[二十八宿図]

中国の民間信仰で、雲台二十八将の前世は二十八宿だったという伝説があるため、彼らが廟で祀ることもあるようです。

閑話休題
話を中国の後漢建国時に戻します。

 

向かう所敵なし、岑彭将軍の活躍


前回も少し触れましたが、雲台二十八将の中の第六位、征南公 岑彭(しんぽう)のお話です。
光武帝の天下統一の最終段階、すでに隴(ろう)を平定し残す所は蜀(しょく)のみ
となった時です。

建武11年(西暦35年)、岑彭は同僚の大司馬・呉漢(ごかん)や驃騎将軍・劉隆らとともに南陽から兵士を徴発します。もちろん呉漢や劉隆も二十八将に挙げられています。
さらに桂陽や長沙の操舵兵を輸送し、凡そ六万人、騎馬五千匹を蜀への進入を図るべく、長江の中流の荊門(けいもん)周辺に終結します。光武帝は、この大軍の指揮を岑彭に一任しました。

一方、蜀の皇帝を称する公孫述(こうそんじゅつ)の軍は、すでに大軍で長江上流の三狭を出て、長江中流の水上に大要塞を築きます。
そして、南岸の荊門と北岸の虎牙山との間を浮橋でつなぎ、長江の中に何千本もの杭を立てます。さらに両岸の断崖上に楼をつらね弩(いしゆみ)を並べ、数万の松明を灯して夜空を照らします。
漢兵を一人として通さぬという鉄壁の布陣をしいて漢軍を待ち受けます。



[荊門山周辺図]

 

さしも常勝不敗を誇った岑彭もこの大要塞の状況を見て、一時は退却を考えます。
しかし、戦わずに退却は出来ないと意を決して、蜀軍の要塞に総攻撃をかけました。

岑彭は軍中に命じて浮橋を攻撃する人員を募り、先に到達した者に最上の褒賞を与えると約束しました。かくて副将軍の魯奇が進軍します。

この時の天候は風が猛り狂っておりました。漢軍の軍船数千隻が帆に風を受け、急流をさかのぼって蜀軍の要塞に迫ります。水中の杭が軍船の進路をさまたげ、左右両岸から矢の雨が降りそそぎます。
魯奇ら漢軍は死に物狂いで戦い、火矢を飛ばします。風にあおられて火の勢いが増し、橋も樓は炎につつまれ崩れていきました。
岑彭はふたたび全軍で風に順って、猛火の中を突進しました。蜀の兵は大いに乱れ、数千人の溺死者が出たといいます。

『後漢書』はこの状況を「向かう所前無し(むかうところてきなし)」と記しました。

その後も岑彭の快進撃は止まりません。一気に蜀に攻め込みます。江州に至り二手に兵を分け、自ら兵を率いて船で都江を遡上して侯丹を襲撃、これを大破します。
昼夜兼行で二千余里を駆け抜け、道中で武陽を抜き、精鋭騎兵を広都へ馳せさせ、成都から去る事数十里、勢いはまさに疾風の如くで、岑彭が至る所では誰もが逃げ散っていったといいます。
しかし猛将岑彭は、一瞬の隙をつかれ公孫述の放った刺客によって暗殺されてしまいます。
 

軍を引き継いだ呉漢は公孫述を降し、岑彭の仇を討ったのは翌年、建武十二年(西暦36年)のことです。
既に隴(ろう)を得て、復た蜀(しょく)を望む 」と記した親書を岑彭に授けた
劉秀の天下統一の偉業が、こうして達成されたわけです。

後漢建国の時代は、日本では項羽と劉邦が争った漢楚の攻防や、魏の曹操、呉の
孫権、蜀の劉備が活躍する三国志の時代と比べてもう一つ人気がありません。

小説家の田中芳樹は、ポピュラーな宣伝文書を欠いているからにすぎないと喝破していますが、確かに劉秀を主人公にした小説は、塚本青史の『光武帝』や宮城谷昌光の
『草原の風』があるくらいで、他の時代と比べて圧倒的に少ない感じを受けます。

漢楚争覇時代の項羽や韓信、張良、そして三国時代の関羽、張飛、諸葛孔明に勝とも劣らぬ英雄豪傑、知将が活躍した後漢草創の時代のお話が、日本でももっと知られても良いと思っています。

今回は主人公の劉秀のお話ではなく、部下の岑彭伝といった方が相応しい内容になってしまいました。
次回は、劉秀の命式を読み解きたいと思います。