後漢の光武帝の名言「隴を得て、復た蜀を望む 」 | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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心に響く名言 38.1 後漢の光武帝の名言

「人、足るを知らざるに苦しむ。

 既に隴(ろう)を得て、復た蜀(しょく)を望む 」
 
今回は、中国五千年の歴史の中で屈指の名君として名高い後漢の光武帝、劉秀の
名言を取り上げました。

劉秀の挙兵、皇帝までの道
劉秀(紀元前6~57年)、字は文淑(ぶんしゅく)は、前漢(紀元前231~紀元前23年)の第三代皇帝劉景の末裔といわれています。

前漢末に外戚の王莽は、幼少の皇帝を立てて実権を握り西暦8年自ら帝位につき、国号を「新」に改めます。儒教を重んじて人心を収めようとしますが、あまりにも現実性を欠いた政策のため、国民の離反を招きます。
失政の相次いだ王莽の「新」末期の西暦22年に、28歳の劉秀は兄の劉えん(糸偏に寅)とともに挙兵します。

西暦23年、王莽は反乱軍討伐のために、洛陽から100万と号する官軍(実質40万)を出発させます。
そして、官軍は劉秀が拠点としていた昆陽城を包囲・攻撃しました。
劉秀は夜陰に乗じ僅か13騎で昆陽城を脱出し、近県3千の兵を集め、昆陽包囲軍と対決します。
官軍は昆陽城を取り囲んでいた10万にも及ぼうという兵がこれを迎え撃ちます。
劉秀は自ら軍の先頭に立ち、飛矢を恐れず前進します。
その勇猛さは比類がなく、まるで敵陣の弱点が見えるかのような戦いぶりで、敵兵を縦横無尽に切り裂いていきます。
劉秀に続く将兵もそれをみて勇躍し、一気に官軍を圧倒し大勝利を収めたといいます。
さらに追い打ちの夜襲をかける等して、官軍を敗走させました。

この40万対8千の昆陽の戦いで、王莽軍に決定的な打撃を与えた劉秀は、緑林軍の中で一躍その名が知られることとなります。

以後、河北方面の制圧にあたる中で配下に有能な人材を集めて勢力を拡大し、西暦25年6月に自立して後漢の初代皇帝として即位し、元号を建武として洛陽を都とします。


[光武帝 劉秀の肖像]

名言誕生

もちろん建国後も、各地に光武帝に屈服しない勢力は数多く存在していました。
その中でも最も頑強に抵抗したのが、隴(ろう)の隗囂(かいごう)と蜀(しょく)の公孫述(こうそんじゅつ)でした。

建武八年(西暦32年)、光武帝傘下の武将の岑彭(しんぽう)は帝に従って、隗囂を攻めました。
この岑彭という人がこれまた劉秀に劣らぬ名将で、後漢建国に功があった28人、俗にいう雲台二十八将の一人に数えられます。
光武帝の傘下に加わったのは他の武将と比較して遅い時期でしたが、岑彭率いる軍は

常勝不敗、しかも軍規は厳正で、いささかも民衆に危害を加えることがありませんでした。

現在(2022年)、ロシアがウクライナに侵攻した時にロシア兵がウクライナの民間人に危害を加え、殺人、強姦、財産の強奪などを行ったことがニュースで何回も報じられています。
2000年後の現代でさえ、戦争にまつわる非人道的な行為はなくなりません。

こういった戦争の最中に気の荒い将兵が、民間人へ被害を及ぼす事例は枚挙にいとまがありません。
そういう中で軍律厳しい将兵が、民衆から歓迎されるのは自明の理です。
岑彭の前に多くの敵兵が自ら白旗を掲げ、その陣営に加わること望んだ兵士もいたといいます。

ロシアの将兵も、少しはこの古代中国の名将を見習ってほしいものです。

話が脱線しました。岑彭や二十八将のことは、後の回の中でもう少し詳しく述べたいと思います。

さて、苦戦する隴の隗囂に対して、蜀の公孫述は兵を出して隗囂を助けました。
光武帝はこれを攻撃しましたが攻略に至らず、自分は一たん洛陽(らくよう)に引き揚げることにしました。

そのとき岑彭に次のような勅語を送りました。
「二つの都市がもし落城したら、ただちに兵を率いて南へ進み蜀の賊どもを討て。
 人間というものは満足するということを知らないから困る。
 わたしは隴を平定したうえに、さらに蜀の地を望むのである。
 ただ戦をするたびに、髪の毛が白くなる


 [原文 (書き下し文)]

  両城若下、便可将兵南撃蜀虜。
  人苦不知足。
  既平隴、復望蜀。
  毎一発兵、頭鬚為白。


  両城若(も)し下らば、便(すなわ)ち兵を将(ひき)いて
  南のかた蜀虜(しょくりょ)を撃つべし。
  人、足るを知らざるに苦しむ。
  既に隴(ろう)を平らげ、復(ま)た蜀を望む。
  一たび兵を発する毎(ごと)に、

  頭鬚(とうしゅ)為(ため)に白し。

 こうして劉秀の名言「隴を得て、復た蜀を望む」が誕生するわけです。

 この句は劉秀より約200年後の三国志の魏の曹操の語としてもよく知られています。
当然、曹操はこの劉秀の故事を知って、この名言を引用しました。

この名言の「隴を得て蜀を望む」「蜀望」は日本人にも馴染みの深い言葉です。

一般的に「一つのことに満足しないで、さらにそれ以上のものを得ようとする。
人の欲や望みにはきりがないことを言っています」と解釈されていますし
その意味で使われています。

光武帝劉秀は、いささか自虐の意味も込めて岑彭にこの手紙(勅語)を送っているのですが、自らが苦労人で、人の気持ちや置かれている立場を良く理解している光武帝の言葉です。

帝は、隴を平らげてなおかつ蜀の賊を討つことが、岑彭やそれに従う将兵にとって如何に大変な事業であるか、そのことを十分に分かっています。
しかし、この中原(元々の前漢の版図)を平定し、民が安心して暮らすため国にするためには、この岑彭達の遠征が成功することが絶対に必要なことです。

単に個人的な欲から出た命令でないと考えて、この名言を読み解くことべきだと思います。
そうすると、もう少し積極的な、前向きな意味合いをもった言葉と考えることが出来るのではないでしょうか。

事実、光武帝は天下統一後に、治世の面で次々と革新的な政策を打ち出して、国の復興を図っていきます。戦ではなく、本来行いたかった平和な国造り、皆が少しでも幸せになる
ための政治を行っていくわけです。

次回はこの光武帝の守成の部分や、憧れの人であった陰麗華(いんれいか)とのエピソードも紹介したいと考えています。

最後になりましたが、劉秀の命式表(試案)を掲げます。

 

 


[劉秀の命式(試案)]

 

劉秀はその生年月日がわかっています。建平元年(紀元前六年)十二月甲小の夜です。
劉秀が生まれた時に、赤い光が室内を照らし、まるで昼のように明るくなった、と『後漢書』は述べています。

ところで、劉秀の命式表を作成するにあたっての困ったことです。
今まで筆者は西暦1900年より以前に誕生した、古い時代の人物の「命式表」は、インターネット上の「暦のページ」
http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/moonage.htm
を主に参考にして作成していました。
ところがこちらの暦は、593年(推古元年)始まりです。

あと、台湾の中央研究院数位文化中心の「両千年中西暦転換」(https://sinocal.sinica.edu.tw/)

も参考にしてきました。しかし、こちらの暦も始まりは西暦紀元からとなります。

ということで、上記の暦を元にして紀元前六年まで遡って、劉秀の生年月日の干支を
推定したのですが、いささか自信がなく(試案)の命式表とさせていただいております。

 

どなたか、紀元前の暦についてご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教授いただければと思います。宜しくお願いします。

今回も最後までブログをお読みいただきありがとうございました。

次回、劉秀の命式表を読み解くと同時に、劉秀を取り巻く人々のエピソードをまとめたいと思います。