37.3 孤高の民俗学者 吉野裕子の後半生 | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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「正しく実行すれば、夢はかなう」をモットーに東洋易学、四柱推命(神機推命)、風水などの秘伝を公開し、自分の夢を実現するとか、悩みの解消に役立つ運命好転化技法を紹介します。

37.3 孤高の民俗学者 吉野裕子の後半生
 

英語教師として家計を支える

1945年10月に父親を列車事故でなくした吉野裕子ですが、いつまでも立ち止まっているわけにはいきません。
進駐軍が支配する戦後の大混乱期の中で、戦争に負けたから、誰々が亡くなったからと虚脱状態を続けることはできません。この時期の日本人の大多数がそうであったように、とに角生きるため、何とか命をつなぐことに皆が必死になっていた時です。

吉野夫妻は田無の農家の納屋を借りて、ここを拠点に新たな生活を始めました。
裕子はたまたま納屋にあった「古新聞の記事」に目をとめます。
「戦争中の学徒動員で勉強してない人たちのために、津田塾大学で
生徒を募集する」
という記事です。
これが吉野を学問、勉学の道に再び引き寄せることになります。
こうして1947年に、30歳の女子大生が誕生しました。

英文学を学んだ裕子は、1952年に津田塾大学を無事卒業します。
そして、家計を支えるため非常勤の講師を、次いで1954年(昭和29年)、37歳の時に母校学習院大女子部にて教師をつとめます。しかし、それほど教職が好きでもなく、夫の仕事が軌道に乗ってきたこともあり教師は3年程でやめてしまいます。

1950年代前半といえば、朝鮮戦争の勃発と停戦(1950ー53)、東西冷戦と軍備拡張が起きた頃です。また、西側諸国では経済が急速に復興します。

1952年にサンフランシスコ平和条約および日米安保条約が発効します。連合国軍による占領が終わり、日本の主権が回復します。

経済ではいわゆる朝鮮特需を契機として、1954年から57年まで神武景気といわれる好景気を迎えます。世界中からr戦後の奇跡と称えられた高度経済成長時代の始まりにあたります。

そのような時代に再び専業主婦に戻った裕子は、ひさしく平穏な時間をすごすようになります。

吉野裕子の転機


1963年に46歳を過ぎて、裕子は近所の人に誘われ日本舞踊を習い始めます。

これが彼女の人生の転機となります。

50歳頃のこと。裕子に妙な疑問を抱きます。
踊る時、扇を使うのはなぜなの?
扇の起原は一体何?


「考えてみると扇が日本人の生活の中にとけ込んでいるのは舞踊の世界ばかりではない。能、落語、声色、日本の芸能は達人であれば背景も道具立てもいらない。扇さえあればことたりる。」『扇』とも語っています。

師匠や扇の職人さんに尋ねても、扇を何故使うのか、その起原もまったく分かりません。こうして扇に対する興味を持った裕子に、本格的な研究を始めるきっかけが訪れます。

ある結婚の披露宴で、かつて授業を聴講したことのある柳田国男派の民俗学者・和歌森太郎に偶然出会うのです。
そこで、扇に関する先行研究について質問してみると、皆無だという返事が返ってきました。
裕子はこの返事を聞いて、即座に決心しました。
分からないのなら、自分の足で調べるしかない、というわけです。
民俗学の基礎知識を大学の一般人向けの講義や、図書館で自習して身につけると共に、
フィールドワークを始めます。
地方に出向く用事があるたびに、北は山形から南は鹿児島、沖縄まで、神事に扇を使う神社などを訪ねてまわります。

その旅路のなかで、出版の縁もできます。三重県の伊雑宮の禰宜であった桜井勝之進と出会い、彼に扇の構想を話したことがきっかけとなって、学生社からの出版が決まるのです。

そして、沖縄への数回の旅の中で、ようやく扇に関する起原の答えを探りあてます。

沖縄の神をまつる御獄(うたき)にはご神木の蒲葵(びろう)が植えてあるのです。
八つ手のような蒲葵の葉は、扇に似ています。

 

 


[ヤシ科の植物 蒲葵]

 

「扇の起原はこの葉に違いない」と、裕子は直観的にらめきます。
さらに、蒲葵の葉は男根の象徴で神を迎える役割を担う。
そこから扇が誕生し、神事に欠かせない存在となり、日本舞踊など
日本の文化に深く根付いて使われるようになったと仮説を組み立てていきます。

こうして、吉野裕子の処女作となる『扇』が1970年、53歳の時に上梓されます。

60歳の博士誕生

これ以降も吉野は身近な習俗や文化現象に対し、素朴な「なぜ?」から出発して、
その謎を、得意の性的比喩や陰陽五行論を駆使して、民俗学的事象を解釈していきます。

これらを定期的に、著作としてまとめ出版していきます。

1975年 『隠された神々』(講談社)
1979年 『蛇』(法政大学出版会)
1982年 『日本人の死生観』(講談社)
1987年 『大嘗祭』(弘文堂)
1990年 『神々の誕生』(岩波書店)などです。


ネットなどで吉野裕子のこれらの著作の書評を拝見しますと、「吉野裕子という人は世の中のあらゆることを陰陽,男女で捉えてしまう非常に偏狭な見方」とか、「解釈が強引すぎる」、「陰陽五行の考え方に誤りがある」といった否定的な意見も多く見受けられます。

筆者にいわせれば、こういう人たちは、陰でこそこそと人の悪口をいう、ケツの穴の小さな輩です。

確かに彼女の著作を読んでみますと、直感に頼って先に結論を出す点がいくつもありますし、陰陽五行の解釈に少し無理がある点も見受けられます。

しかし全体の構想とか、切り口の斬新さ、切れ味は素晴らしい点が多く、欠点を補って余りあると感じます。なるほどそういう解釈ができるのかと、勉強になります。

 

彼女の推論、仮説に意見があるのあれば、堂々と論陣をはって反論をすればいいのであって、故意に無視したり陰で悪口を言うのは人間として、学者としての度量が問われると思うのですが、いかがでしょうか。

 

話を戻します。


これらの研究の間に、主に和歌森太郎が縁故となって風俗史学会に入会し、発表などの学会活動もこなしていきます。
そして、1977年、60歳で還暦を迎えた吉野は、『陰陽五行からみた日本の祭』を東京教育大学の博論として提出し、文学博士の学位を取得しています。
60歳の博士というのも、まさに遅咲きというか、名誉の勲章のような象徴という感じもしないでもありません。

 

 

[吉野裕子全集]


在野の研究者として活躍する裕子でしたが、民族学界では異端児扱いされ、他の民族学者から無視されることも多かったようです。
そのような立場の裕子を心配してか、しきりに学位を取得することを勧めたのは、風俗史学会の副会長をしていた三条西公正でした。

「・・・三条西先生は御家流香道御宗家、公卿の中でも高い家格を誇る名門の御当主である。「取っておいてけっして余計なものではない。早く今のうちに……」としきりにすすめて下さる。女で晩学で、師もなく弟子もなく学閥など皆無のいわば学界での天涯孤独、零の集積の私の前途を予測されてのことだったのか」と裕子は後にこの時のことを述回しています。

「人生とは邂逅である」とは、極めて含蓄に富んだドイツの格言です。
こうやって彼女の後半生を振り返ってみますと、彼女の功績を妬んでか冷笑したり、無視したりする多くの民俗学者がいる一方で、本当に親身になり彼女を支えてくれたり、助言してくれる人も少なからずいることがわかります。

「そうした出会いを重ねて今日に至ったことを今、心から幸せと思う。遅い出発、必ずしも遅くはなかったのである」(『吉野裕子全集』、第十二巻、人文書院)

人の価値とか、人格、力量、人間として尊敬に値するかということを考えてみますと、
他の民族学の先生諸氏と吉野裕子を励ました人々のどちらが優れているかは論じるまでもありません。

そして、そのような裕子の傍らにあって最も頼りになったのは、夫の英二の存在でした。

実は裕子は75歳の時に、東京から奈良に移り住んでいるのです。
東京よりも関西に住む方が、研究に都合が良いからでしょう。1992年に奈良市の新大宮にマンションを購入したのです。


(余談ながらこの場所は、現在の筆者の生活圏内でもあります。彼女の生前にこのことを知っていたら、お会いしてお話する機会があったかもしれないと悔やんでいます。)

二人は同じマンションの2階と8階に別々に暮していたそうです。
妻の裕子は2階で原稿を執筆していました。朝食は8階で英二がトーストを焼いて待ち、裕子がサラダを持参して一緒に食べます。昼食と夕食は裕子が準備をし、2階で食べたそうです。
裕子が講演で旅をするときには、必ず英二が付き添いました。
なんとも仲睦まじく、微笑ましい情景ではありませんか。

2005年、95歳で英二は死去します。裕子88歳の時でした。

2007年に、それまでの集大成として「吉野裕子全集」(人文書院 全12巻)の刊行が開始します。

2008年2月に、吉野は全集のあとがきを綴り終えます。その2日後に体調を崩し、奈良市内の病院に入院します。そして2カ月後の4月18日に「肩の荷をおろすように息を引き取りました」(全集の編集者、谷誠二さん)享年91歳。

在野の孤高の民族学者、吉野裕子の後半生は如何だったでしょうか。
最後にもう一度、吉野の名言を再掲してこの章を終わります。

「何かを始めるのに、遅すぎるということはないのよね」

※本稿を執筆するにあたり、吉野裕子の著作、また日本経済新聞「人生100年の羅針盤」2011年11月26日付、他ネット上のブログ記事など多くを参考にさせていただきました。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。