35.3 瀬戸内寂聴とアングリマーラ | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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心に響く名言

35.3 瀬戸内寂聴とアングリマーラ

                                 2022年1月18日
今日は本年の初めての満月の日です。
満月にふさわしいお話を紹介しようと思います。

「さきには放逸であったけれども
 後には放逸ならざる人は
 雲を離れた月のごとく
 この世を照らすであろう

 もし人よく善をもって
 そのなせる悪業を覆わば
 その人は、この世を照らすこと
 雲を離れた月のごとくであろう」


これはゴータマ・ブッダ(お釈迦さま)の弟子たちの歌った句を集めた『テーラ・ガーター』(長老たちの偈)に収められた偈の一節です。
この偈を述べたのはアングリマーラとよばれる長老です。

 

 

 



アングリマーラ」は、指鬘外道(しまんげどう)ともいわれ、『雑阿含経「賊」』や『鴦掘摩経』に登場するお釈迦さまの時代の殺人鬼です。

アングリマーラ(指鬘)というのは、指でつくった首飾りの意味です。
彼は、人を殺して集めた指で首飾りを作るという猟奇的な事件を起こした連続殺人犯でした。
その殺人鬼のアングリマーラと、ゴータマ・ブッダの出会いを
先にあげたお経は、次のように記しています。

ゴータマが祇園精舎にとどまっていた時のことです。
コーサラ国にはアングリマーラと呼ばれる盗賊が横行していました。

とある朝のことです。
ゴータマ・ブッダは、衣鉢をととのえて盗賊が住むという方向に向かって歩いていきました。

途中ですれ違う人が、
「ご出家よ、そっちは危ないですよ、人殺しがいますよ」
と呼びかけました。

しかし、ブッダはそれが聞こえたのか聞こえないのか、それまでと変わらずにその道を悠然とすすんで行かれました。

お経はそこで舞台を一転して、アングリマーラの側から描き始めます。
彼ははるか彼方に、一人の沙門が歩いてくる姿を見つけます。
アングリマーラは首をひねって考えます。

この頃は自分のことがこの地方でよく知られ、この道をたった一人で歩いてくるものはいなかったからです。
人々がやむを得ず商用などでこの道を通行する場合は、団体を組んで武器を携えて来るからです。それでもアングリマーラの餌食になったものも少なくありません。
それがこの沙門は、供も連れずにやってくるのです。

アングリマーラは不思議に思いましたが、このところ獲物もなかったので、
「その沙門の命を貰おうか」と決心します。
彼は、剣と楯(たて)、弓と矢をとって沙門をやりすごすと、その後ろから尾行をはじめました。

このあたりから、お経は不思議な光景を語ります。
悠然と歩いている沙門のあとをつけるアングリマーラが、どうしてもゴータマに近づくことができないのです。
速力をはやめ、全力をあげて追うけれども、二人の距離はいつまでたっても同じです。

「まったく不思議だ。こんなことってないぞ。わたしは駆ける馬を追って捉えたことがある。また、走る車においついたこともある。それなのに、あの沙門にどうしても追いつくことができない」
アングリマーラはたまらず、とうとう立ち止まって、大声で叫びました。
「止まれ、沙門。沙門よ、とまれ!」

すると、かの沙門は間髪いれずに応じました。
「わたしはとまっている。
 アングリマーラよ、汝もとまるがよい」

この奇妙な答えにアングリマーラは驚いて
「沙門よ、それはどういう意味だ?
 なんでお主はとまり、わたしはとまらずというのか」
と問いただします。

「アングリマーラよ、私はまことに止まっている。
 生きとし生ける者に害を与えることはない。
 しかるに、汝はいまだ生ける者に対して自制することがない。
 されば、私はとどまり、汝はいまだとどまらずという」


アングリマーラは歩行を止まることを求めたのに対し、ゴータマは殺傷を止めることを説いたのです。それは彼にとって、決定的な転機になりました。
彼はただちに、剣や弓矢を深き谷間に投じ、ひざまずいて
ゴータマ・ブッダの足を拝しました。その場において出家の許しを乞うたのです。

こうして、改心したアングリマーラはゴータマ・ブッダに従い祇園精舎に入りました。

髪をそりおとし、袈裟の衣をまとい出家としての修行をはじめたのです。

しかし、彼にとってはそれからは苦しい試練の日々が続きました。
アングリマーラが舎衛城を托鉢に歩いていると、みんな彼の犯した殺人を覚えていて、何のお布施もしないのはもちろん、口々に悪口を言います。
周りから石を投げられたり、棒で殴られたりもします。
多くの人を殺して血まみれになったアングリマーラは、今度は自分の血で血まみれになりました。それはまったくみじめな姿でした。
痛みに耐えて祇園精舎に帰ると、その姿を見たゴータマ・ブッダは、彼を励ましてこう言います。

「比丘よ、忍べ。忍んで受けるがよい。
汝は、汝の行為によって幾世も、幾世も他生にわたって受けねばならぬであろう業果(ごうか)を、いま現在において受けているのである」


彼は師の励ましを謝して、退いてひとり坐しました。
アングリマーラはくじけませんでした。師の励ましが彼を支えたのです。

そして、人の噂も七十五日。改心したアングリマーラの姿や言葉に接した舎衛城の人々も
悪口をいったり、暴力を振るうことも段々となくなっていきました。

やがてアングリマーラはニルヴァーナを体得し(悟りを開き)、長老として仏の道を歩んでいきます。

そして、彼がこの苦しい試練の時に、おのずからもれた言葉が冒頭に紹介したテーラ・ガータに採録された偈句です。

「さきには放逸であったけれども
 後には放逸ならざる人は
 雲を離れた月のごとく
 この世を照らすであろう

 もし人よく善をもって
 そのなせる悪業を覆わば
 その人は、この世を照らすこと
 雲を離れた月のごとくであろう」


昨年亡くなった瀬戸内寂聴の生涯を眺めたときに、このアングリマーラに関する説話を思い出し紹介しました。

瀬戸内も若い時に、小説家として歩むために夫を捨て、娘を捨てて、若い男性と駆け落ちをしたり、不倫を繰り返したことは前回述べた通りです。
まさに放逸な前半生でした。殺人者と同列に並べるのはちょっとレベルが違うかもしれませんが。

しかし、後に出家をして多くの弱者に寄り添い、悩んでいた人々を救ったのも同じ人間としての寂聴でした。
まさに、善をもってそのなせる悪業を覆った後半生でした。

どのような人でも失敗をしたり、悪いことをして他の人に迷惑をかけることはあります。
このアングリマーラの説話は、そのような人間でも真から改心して善業をすれば、救われるということを示していると思います。

今回も最後までお読みいただき有難うございます。
本年も当ブログのご愛読のほど、よろしくお願いいたします。