35.2 瀬戸内寂聴の命式を読み解く | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

「正しく実行すれば、夢はかなう」をモットーに東洋易学、四柱推命(神機推命)、風水などの秘伝を公開し、自分の夢を実現するとか、悩みの解消に役立つ運命好転化技法を紹介します。

心に響く名言

35.2_瀬戸内寂聴の命式を読み解く

寂聴の命式の下表をご覧ください。

 


[瀬戸内寂]]の命式
 

年柱干支が壬戌
月柱干支が乙巳
日柱干支が癸未
となります。

五行を集計しますと、木気が1、火気が1、土気が2、金気がなく、日主を含む水気が2という構成になります。
五行の配置からこの人の基本的な特性として、知恵があり機転が利きます。
温厚明朗で、多くの人から愛される社交家タイプの人です。

月令は休囚で身弱となります。
もう少し詳しく命式を読み解きます。


節入り日が浅いことから、蔵干は通常であれば中気を取ります。
年柱の蔵干は丁、月柱は庚、日柱は乙となります。しかし、この蔵干を日主からみて導き出す通変星はそれぞれ、宝財、印綬、食神となりすでにみてきたこの人の前半生と見比べてみますとしっくりしません。
地支の蔵干の正気を見ます。こういう事例はあまり多くはありませんが、この正気を採用したほうがしっくりいく場合もあります。日主から正気の蔵干と照らし合わせるとそれぞれ正官、正財、威官といった官星、財星が導かれます。官星は仕事星であると共に、女命にとっては男性を意味します。

瀬戸内寂聴の前半生から中年にかけて、小説家として多くの作品を上梓し多くの愛読者を得て活躍したことを考えると、この官星の存在を意識しないわけにはいきません。そして、正官が正夫とすれば威官は偏夫(愛人、不倫相手)を意味を持ちます。()内の通変の働きを有力と考えると、まさに彼女の男性遍歴を象徴する命式になります。

こうして見ますと彼女の本質は、月支蔵干から導かれる印綬で母のように慈愛に満ちた星ですが、まるで仮面をかぶって他の人間を演じるかのように正財のふるまいを行います。
ここに彼女の心の葛藤や、一貫性のない行動に走る複雑さの要因があります。

彼女の仕事は、鋭く斬れるカミソリのような天才的な技の冴えはなくとも、のように木を削り出し作品を完成させる力強さがあります。気が付けば膨大な作品を生み出し、社会から高い評価を得る仕事の虫、努力の虫といった命式といえます。
月柱天干から導き出される食神は、自分の才能を発出させる表現力でもあり、旅行やグルメや恋愛といった人生を楽しむ遊びの星でもあります。

このように地支の、余気、中気、正気の蔵干のどれから大きく影響を受けているかを推察することが、正しい看命をする秘訣になります。たんに機械的に蔵干や通変を配置すれば良いものではないということを強く認識する必要があります。瀬戸内の命式は良い事例だと思います。

そして、彼女の人生はわたし達にもう一つ大切なことを教えてくれます。
それは「運命というものはその人の体験や考え方の変化で、変わりうる」

ということです。
世の中には、その人の人生は先天的に予め決まっていて、本人がどう努力しようが変わるものではないという宿命論みたいなものがあります。
しかし瀬戸内寂聴の人生を詳細に観察してみると、少なくても人間という生き物は、そんなことはないということを実証してくれる生涯だと思います。
本人の意思や努力、文字や映像などの記録を見たり、自分自身の体験から学ぶことや、人との出会いや別れで、その人の人生は変わりますし、変えることができるのです。

彼女が二回目に大きく変化をするのは、51歳の時に出家をして尼僧となること、
そして、比叡山で修行に励んだことが挙げられると思います。

 

 



43歳の時に井上光晴と高松へ講演旅行へ行き恋愛関係になります。この不倫関係は7年間続きますが、1973年に井上との関係を絶つために出家をしたのです。
瀬戸内はその時の心境を次のように語っています。
「私が出家を決意した当時、作家としては売れっ子で仕事もお金もあり、贅沢もできました。だけど、そういうものでは補えない、何か漠とした不安を感じるようになり、こういう生き方は違うんじゃないかと思っていました。」
彼女は51歳までに尽くした悪行を、出家して懺悔したい、罪滅ぼしに社会に対する奉仕活動をしたいと本気で考え、かつてから親交のあった今東光大僧正を師僧として中尊寺において天台宗で得度、法名を寂聴とします。
 

この今東光という人物も相当に怪しい、昭和の怪僧といってもよい人ですが、本章では彼に関する解説は割愛します。

瀬戸内寂聴の後半生

以降の瀬戸内寂聴の活躍は、皆さんも良くご存知のことと思います。
彼女の中年からの主な足取りを年譜風に簡単にまとめてみます。


年譜

1962年7月   瀬戸内晴美40歳の時に 『かの子繚乱』を婦人画報に連載します。
(昭和37年)  岡本一平の妻、画家の岡本太郎の母の数奇な運命、運命に負けずに力強く生                    きた岡本かの子を描いた力作です。瀬戸内は田村俊子や岡本かの子、伊藤野       

         枝など、旧習にとらわれず自立した人生を歩んだ女性たちを次々と小説とし       

         て取り上げています。

1962年10月  彼女の代表作、2人の男の間で揺れる女の性と心理を綴った『夏の終わり』        

          を新潮に発表します。

1963年4月   40歳の時に、『夏の終わり』で女流文学賞を受賞します。翌64年には一か月かけて

(昭和37年)  ヨーロッパ旅行をしています。
          瀬戸内はよく住所を変えていますが、この時代の人としては珍しく海外旅に      

          もよく出かけています。

1965年     伊藤野枝と大杉栄の伝記小説『美は乱調にあり』を文芸春秋に連載。
(昭和40年)  瀬戸内の傑作とされていますが、筆者はこの評に少し疑問を抱いています。

1973年11月  51歳の時、人生最大の転機を迎えます。前述したように、すべての生活を捨      

(昭和48年)  てて出家をしました。

1974年4月  60日間、比叡山横川行院で四度加行を受ける。この時の修行が、彼女の二度目の大

        変身のきっかけになったようです。
        同年12月に右京区嵯峨鳥居本仏に雀庵を結びます。
        以降、この地が作家として仏教家としての活動の拠点となります。

1975年    持仏堂で読経中にクモ膜下出血の発作に見舞われます。
(昭和50年) 幼少時から身体の強くなかった寂聴は、この後も圧迫骨折や心臓病、胆嚢がん                   などの病気に罹ります。しかし、それらの病気に負けずに活動を続けてい く姿には、

         驚きと畏敬の念を抱きます。
               何が彼女を突き動かして、社会に対する奉仕活動を継続したのか興味をそそ      

        られる部分ですし、筆者も少しでも彼女の真似をしたいと考える部分です。

1978年   寂聴56歳で毎日新聞に『こころ』を連載します。

1981年11月 59歳の時に、寂聴塾を開きます。
(昭和56年)

1988年4月  65歳で敦賀女子短期大学学長に就任します。
(昭和63年)

1991年2月  寂聴68歳でイラク湾岸戦争での犠牲者をいたみ断食行を断行します
         戦争や暴力に反対する社会活動家としての行動や発信もするようになり

        ます。

1992年1月  一遍上人を題材にした『花に問え』で谷崎純一郎賞を授賞します。
(平成4年)

1995年1月  72歳の時に阪神大震災にあいます。救援バザーを開き義援物資を被災地へ

(平成6年)   届けます。
1996年3月  73歳。現代語訳 寂聴版『源氏物語』を刊行します。
         源氏物語に関する著述も彼女の代表的なフィールドワークとなり、 今でも多くの人に

         広く読まれています。

1997年11月  75歳 文化功労者に選ばれます。昭和平成を代表する作家の一人として
          名実ともにその活躍が認めらます。しかし、彼女にとっては名誉では
         あっても、あまりそういうことにとらわれない心境に至っていたかも
         しれません。

2000年3月   77歳 新作能「夢浮橋」を国立能楽堂で上演します。
(平成12年)   寂聴は、翌年には新作歌舞伎「源氏物語 須磨・明石・京」が歌舞伎座で上演も                     します。こういった新しいジャンルへの挑戦は、不安も大きかったようです。しかし、

          常に前向きに積極的にプラスイメージを持って取り組むところ

          が寂聴の真骨頂といえそうです。
        
 「何か物事を始める時は、「これは必ず成功する」というプラスイメージを持ってください。

  絶対に幸せになるぞっていう夢を描けば、本当にそうなるのよ。
 私が初めて歌舞伎の脚本を書いた時ね、もし失敗してしまったら、せっかく今まで80年もかけて築 

いてきたものがすべて崩れますからね、とても怖いことなんだけど、そうは考えないの。
必ずできると思ってね、歌舞伎座の三階席まで満員のお客様が、ワーって手を叩いてるところをイメージするんですよ。そうしたらその通りになったの。」
     
このプラスイメージを持って、必ず成功すると確信して新しいことにチャレンジするということは、とても大切な習慣です。是非皆さんも寂聴さんの真似をして、習慣化してください。

2000年11月  78歳 毎月雀庵で開いていた法話をやめます。人が集まりすぎたためです。
(平成12年)
2005年5月   82歳 天台寺住職を退任します。
2006年11月  寂聴84歳で文化勲章受賞
(平成18年)            
2014年5月     91歳    圧迫骨折で半年間の療養をします。

(平成26年)
2017年7月     94歳    心臓を手術
2021年11月    99歳    京都の病院にて心臓病で逝去します。
(令和3年) 

 

最後の数年は病気に悩まされた日々だったと思いますが、そのことにもめげることなく、常に前向きに生きていきました。
「もう〇〇歳だから、病気だからと、人生を諦めるのではなく、今の自分に与えられた環境で、好きなこと・楽しいことを見つけて「生き抜く」こと。」と寂聴は述べています。

瀬戸内寂聴の後半生は如何でしたか。
寂聴の生涯を振り返ってみると、ある意味自分の家族や不倫相手の同伴者などに多くの関係者に非常な迷惑をかけたわけです。自由奔放に生きた前半生です。

そして他者や弱者に寄り添い勇気づける救済者としての後半生の変転が対照的な人生でした。

今までの悪行を悔い改め、出家して懺悔したい、罪滅ぼしに社会に対する奉仕活動をしたいと考え、その通りに実行した人生でした。

こうして瀬戸内寂聴の生き様を振り返ると、筆者は一つのお経(仏教の経典)を思い出します。
それは、古い古いお経です。お釈迦様(ゴータマ・ブッダ)が生存していた今から2500年以上前のインドで実際にあった出来事を元に、経典として編纂されたものです。
次回は、この指鬘外道(しまんげどう)、アングリマーラとして知られている人物について記したいと思います。

今回も最後までお読みいただき有難うございました。