34.1_白洲正子の名言『何でも良いから一つ、好きなことに集中して井戸を掘りなさいよ』 | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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心に響く名言

34.1_白洲正子の名言

『何でも良いから一つ、好きなことに集中して井戸を掘りなさいよ』

白洲正子は不思議な女性です。
夫の白洲次郎は、先の大戦の後に吉田茂の要請で「終戦連絡中央事務局」参与に就任し、GHQとの交渉や日本国憲法制定、通商産業省設立に尽力した人物として広く知られています。
しかし、正子はその白洲次郎の妻としてではなく、あくまで白洲正子という一人の人物として様々な分野で縦横無尽に動き回ります。
死去して二十年以上が経ちますが、いまだに異彩を放っています。

彼女は少女時代にアメリカに留学しますが、日本の古典や能に造詣が深く、さらに後年骨董の世界に頭を突っ込みます。両性具有にも興味を持ちますし、日本の古社寺の巡礼を行いながら多作のエッセイストとして活躍しました。

その正子が娘婿の牧山圭男に述べたのが、冒頭の名言です。
『何でも良いから一つ、好きなことに集中して井戸を掘りなさいよ
そうすればそのうち、
地下水脈に辿り着くの。
そうするといろんなことが見えてくるのよ』


正子の生き方そのものを述べた名言でしょう。特に解説の必要もないと思います。





[白洲正子]町田市HPより転載

 

 

白洲正子の前半生

白洲正子の生誕から、35歳までの人生を振り返ってみます。
1910年(明治43年)樺山愛輔、常子の次女として生まれます。
父の愛輔は実業家・貴族院議員でした。父方の祖父資紀(すけのり)は薩摩藩出身の伯爵で、海軍軍人、政治家です。警視総監、海軍大臣等を歴任しています。
母方の祖父・川村純義も薩摩藩の出身で、海軍大輔に任じられています。
正子はこの薩摩の血を引いていることを、生涯強く意識したといいます。

1913年(大正2年) 
正子は3歳で学習院女学部幼稚園に入園します。
「私は不機嫌な子供であった。今でいえば自閉症に近かったのではなかろうか。三歳になっても殆んど口を利かず、ひとりぼっちでいることを好んだ」と『白洲正子自伝』にあります。
翌年、4歳の時に終生関わることになる能の手ほどきを受けます。

1924年(大正13年) 
正子は14歳、学習院女学部初等科修了します。この晩夏に女性として、能の舞台に立ちます。
また、父のアメリカへ留学することの勧めを受けて、9月に渡米しニュージャージー州のハートリッジ・スクールに入学します。

1927年(昭和2年) 
正子17歳の時、4月に金融恐慌で父・愛輔が理事をしていた十五銀行が休業宣言をします。樺山家は永田町の屋敷を売却し大磯に移ります。
その翌年、正子はヴァッサー・カレッジに合格しますが、進学を断念して帰国します。そして、白洲次郎と知り合います。

1929年(昭和4年) 
白洲次郎27歳、正子19歳にて結婚します。
次郎は仲人を立てず、正子の父に直接結婚の申し込みをしました。
この年の12月、正子の母・常子が死去します。

1931年(昭和6年)長男の春正が生まれます。

1937年(昭和12年) 正子27歳
夫の次郎が日本食糧工業(後の日水)の取締役に就任します。鯨油の輸出に携わり、以後毎年イギリスに赴きます。ロンドンでは英国大使・吉田茂と親交を深めます。
この後、日本は急激に戦争へと進んでいきます。
この年の7月に盧溝橋事件が勃発し、日中戦争に突入します。

1938年には国家総動員法が公布されます。
この年に、次男の兼正が生まれます。また二年後の1940年(昭和15年)に
長女の桂子が生誕します。

1939年9月に、ドイツがオランダそしてフランスに侵攻し第二次世界大戦が始まります。
翌年日独伊三国同盟が成立します。

1941年(昭和16年)に東条英機内閣が発足し、この12月8日に日本軍の真珠湾攻撃により、太平洋戦争が開戦します。白洲正子31歳の時です。

1942年(昭和17年)
10月に東京府南多摩郡鶴川村(現在の東京都町田市能ヶ谷)に農家を購入します。
その数年前から二人は、戦況の悪化による空襲や食糧難を予測して農地の付いた郊外の家を探していました。当時の次郎は日本水産・帝国水産統制株式会社(後のニチレイの)役員でしたが、
職を全て抛ち、退職金を注ぎ込んで購入したそうです。


[武相荘 茅葺の家]武相荘HPより転載

 

武蔵と相模の国境いに位置することから、無愛想をもじって「武相荘」と名付け、自給自足の農民生活を始めます。ここには水田と畑があり、以後の次郎は終戦まで専ら農作業に勤しみました。
英国に留学経験のある次郎は「カントリージェントルマン」を自称していました。敢えて中央の政争や喧噪から距離を置き、地方に在住しつつ中央の情勢に目を光らせるという英国貴族の考え方を自ら実践したのです。

1945年(昭和20年) 
正子が35歳の時です。
5月23日の東京空襲での罹災を心配して次郎が、かねて懇意にしていた
河上徹太郎を訪ねます。翌夕、家を失った河上夫妻を伴って武相荘に戻ります。
以後2年間、河上夫妻は武相荘に寄寓することになります。
この年の8月に日本はポツダム宣言の無条件受諾を決定します。

そして12月に吉田茂外相の要請で、次郎が「終戦連絡中央事務局」参与に就任します。
同事務局はGHQと連絡調整する日本側唯一の機関でした。
以後、サンフランシスコ講和条約の発効まで、次郎はGHQとの折衝の矢面に立ちます。

この間、正子は河上徹太郎夫妻と同居し親交を深めますが、このことがきっかけとなって青山二郎小林秀雄と知り合うことになります。

まさに縁が縁を呼ぶということでしょうか。
青山は装丁家、美術評論家、骨董収集鑑定でも著名な人物です。その青山の信仰とは、知識に依らず、眼を頭から切り離して、純粋に眼に映ったものだけを信じるという「眼の哲学」でした。
焼き物から学んだ眼力によって、骨董はもちろん、人間の真贋から社会批評まで、ズバリとその本質を言い当てることから、正子をはじめ、河上徹太郎、中村光夫、宇野千代といった人々にも大きな影響を与えています。

一方の小林英雄も文芸評論家、編集者、作家として著名な人物です。。
1969年には文化勲章を授章します。
また、小林の長女明子は正子の次男兼正と結婚します。白洲家と小林家は姻戚関係になります。
この人たちとの交流、交遊が白洲正子にどのような影響を与えるのでしょうか。
果たして、好きなことに集中して井戸を掘り、地下水脈に辿り着けるのか興味が尽きません。

以上、白洲正子の前半生をたどってみました。
良家の子女として生を受けるも、いわゆるお嬢さんという型にはまらない
自由奔放さと自我の強さを感じさせる生き方だったのではないでしょうか。

最後に白洲正子の命式を掲載します。

 

[白洲正子の命式]


次回はこの命式を読み解いて、正子の後半生を振り返ってみたいと思います。