33.4_運命の波を乗り越えた東坡居士 | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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「正しく実行すれば、夢はかなう」をモットーに東洋易学、四柱推命(神機推命)、風水などの秘伝を公開し、自分の夢を実現するとか、悩みの解消に役立つ運命好転化技法を紹介します。

心に響く名言
33.4_運命の波を超えた東坡居士
(1)杭州の賑わい
熙寧四年(西暦1071年)に東坡先生は杭州(こうしゅう)通判(副知事格)に命じられていた頃の話です。
この同時代に生きた、日本人の僧成尋(ジョウジン)が肥前国から宋商孫忠の船に乗って熙寧五年に渡宋します。

彼の記した『参天台五台山記』には、その当時の杭州の様子を生々しく伝えています。
五月に蘇州沖に到着し、杭州名物の大潮音も聞いたと言います。
杭州の賑わいは、成尋を驚かせたようです。
 

河の左右にすきまなく瓦葺きの家と楼門が並び、水路をゆき交うジャンクと物売り、そして街路からは
賑やかな弾琴の音が聞こえてきます。
多くの人が行きかう店々には、それぞれ金銀の細工や上質の織物、小麦粉や小豆や甘葛で作られた菓子が並べられています。
そして宋の銭貨が人々の間を飛び交っていました。

船員と市をひやかしに行った成尋は、次のように記しています。

「市を見る。百千の七宝を以って荘厳す。一処にあるひは二三百の燈、瑠璃の壺を以って懸け並べ、
内に火の玉を燃やす。・・・
女人琴をもてあそび笙を吹く。伎楽衆多にして不思議なり。
あるひは、種々の形像を作る。水を以って舞はしめ、鼓を打たしめ、水を出さしむ。・・・

市は東西三十余町、南北三十余町、一町ごとに大路。
小路は、百千。売買言いつくすべからず。・・・」

成尋は日本とまったく異なる、華やかな劇場空間を驚きの感情を交えて、うまく記録しています。



[清明上河図](部分)Wikipediaより転載

 

写真の図は、北宋末に描かれたという「晴明上河図」で首都開封東京府の街の賑わいの様子を巧みな筆致で描いています。首都ですから、杭州よりさらに賑わっていたでしょうがイメージ的にはこんな感じだったのでしょう。

この都市の発達が、宋代における諸学と技術の発達につながり、文学の革新と芸能の成熟をうながす土壌と
なりました。

さて、この後に僧成尋は、時の皇帝神宗に謁見します。熙寧五年(西暦1072年)10月のことです。
例の新法による国政改革の立役者王安石を登用した真宗帝です。

(2)中央官界への復帰
そしてそれから8年がたち、元豊三年(西暦1080年)、蘇東坡先生が43歳の時に左遷され、左遷先の黄州で
貧苦の生活に苦しんで甘んじていたことは前回述べたところです。

しかし人生万事塞翁が馬、そのような東坡先生の生活にまたしても大きな転機が訪れます。
元豊八年(1085年)に神宗が死去し、哲宗が即位します。
そして幼い哲宗に変わり、旧法派びいきの仁太后高氏の垂簾(すいれん)政治になります。

元豊八年(1085年)に東坡先生も名誉を回復され48歳で中央官界に復帰します。
この年末に礼部郎中として召喚されるや、翌年早々には中書舎人となり、九月には翰林学士にスピード出世します。翰林学士とは詔勅の起草を担当する役職で、皇帝に最も近い位置にある要職です。さらに礼部尚書(日本の文部科学大臣に相当)にまで昇進します。




   [西湖の蘇軾像]アジア写真帳より転載

 

この時に、東坡先生は新法を全て廃止する事に躍起になる師であり宰相の司馬光に対して、新法でも募役法のように理に適った法律は存続させるべきであると主張します。
司馬光と激しく論争し、旧法派の内部で分裂が見られるようになるのです。

司馬光の死後は対立が先鋭化します。特に蘇東坡・蘇轍兄弟は保守派に対し公平な批判的意見を述べたことにより、攻撃の的とされます。仁太后高氏の強い後ろ盾あるとはいえ、このままでは、身の危険も考えられます。やむ無く中央政界を離れ、地方に転出することを願い出ます。。

そしてようやく元祐4年(1089)3月、蘇東坡先生は地方転出が認められ、浙西路兵馬鈐轄、知杭州軍州事に命じらます。先生52歳の時のことです。

杭州はかつて、36歳から約三年間、通判(副知事)として赴任したことがありましたから、ほぼ16年ぶりの再赴任です。しかも今回は知事としてです。

この杭州で東坡先生がもっとも意を注いだのは土木工事でした。
運河を浚渫し、西湖を改修したのです。そして西湖の水と貯水池を有効に活用して大規模な水道網を築きました。
蘇堤といわれて今でも親しまれている堤防は、運河や西湖の浚渫泥土を用いて築いたものです。

 

 


[蘇堤と曲院風荷を結ぶ橋]アジア写真帳より転載

 

ここで東坡先生は中国初の公立病院も設立します。
当時の杭州の人口は50万人ともいわれましたが、銭塘江の河口に位置することで疫病が頻繁におこっていました。東坡先生は公立病院を作ることで、疫病の蔓延を抑えようとしたのです。
杭州知事時代の2年間は、彼の役人人生の中で、もっとも充実した時代といえましょう。

元祐6年(1091年)、蘇東坡先生は翰林学士として都に召喚されます。太后の強い意向に基づく人事でしたが、先生を待っていたのは政敵たちによる一斉攻撃でした。
政敵は、実力・人気とも高い蘇軾・蘇轍兄弟に自分たちが排除されることを恐れ、団結して対抗するわけです。これはもう政策を競うというより、低次元の権力闘争としかいえません。

こうして都にいることに耐えられなくなった先生は、再び外任を乞いました。
そして同年の8月に54歳で頴州の知事となって転出します。この後も政敵からの謀略もあり地方を転々とすることになります。

元祐八年(1093)蘇東坡先生56歳の時のことです。妻の閏之が8月1日に死去します。
さらに後ろ盾の仁太后が9月3日に亡くなります。陽に陰に先生を支えてくれた大切な女性を相次いで失うことになったのです。


(3)再び左遷
父に似て改革の志の強い哲宗が親政すると、風向きが再び変わって新法派の天下となります。新法党による旧法党の弾圧は、章敦が宰相の地位に就いた翌招聖元年(1094)4月以降に本格化します。旧法派の大物の蘇東坡先生は、広東の英州に流されます。官職を剥奪された後、さらに恵州に移されます。
最終的に、紹聖四年(1097)にはさらに遠方の異属の住む海南島に移されます。
すでに60歳となった東坡居士にとってもこの海南島での島暮しはこたえたに違いありません。

といいつつも、そのような厳しい環境の中でも、東坡居士は毎日を楽しんで暮しています。

七言律詩「江を汲んで茶を煎る」はそのような中で読んだ秀句です。
  
  活水還須活火煎    自臨釣石取深清  
  大瓢貯月歸春甕    小勺分江入夜瓶  
  雪乳已翻煎処脚    松風忽作写時声  
  枯腸未易禁三碗    坐聴荒城長短更  

活水は須らく活火で沸かすべきもの
折角岩から臨んで、深い所から汲み上げた水だ
大きな瓢に水に映った月もろとも甕のなかへ注ぎ、
小さな柄杓で川の水をくみ取って瓶に入れる

茶はかきまぜられて乳剤のよう、
沸騰した湯が松風のような音を立てる、
喉が渇きを禁じえず、たちまち三杯の茶を飲む、
坐して聴こえるのは、荒城の時を告げる鐘の音

こうして月日が過ぎていきます。
さしも強きの東坡先生も毎日海を眺めながら、望郷の念に駆られていました。生まれ故郷の四川や、みやこ開封東京府、知事をしていた杭州の地を再び踏むことができるのだろうか、と。

(4)青山一髪
このような過酷な左遷生活でしたが、再び転機が訪れます。
元符三年(1100)正月、哲宗が25歳という若さで亡くなります。
哲宗の後は弟の徽宗が継ぐことになるのですが、権力交代の移行期間は、神宗皇后の向氏が垂簾政治をします。
この期間は、旧法党のメンバーにとってわずかな間ながらも、幸運な時期となります。
というのも、向氏は章敦ら新法等の指導者のやり方を日頃から嫌っていたからです。
摂政になるや否や、彼らを追放してしまうのです。

五月になると、海南島の東坡先生のところに、赦免されて雷州半島の西にある廉州に移されるという最初の知らせが届きます。

東坡先生は使者に何度も念を押し、赦免の通知を読み返したといいます。

こうして東坡先生は、末子の過、呉復古、飼犬の烏觜を連れて澹州海南島を出発し、船で雷州に渡ります。その時に、対岸を眺めながら作った詩が残っています。

  澄邁駅の通潮閣
 ・・・・
 余生欲老海南村   帝遣巫陽招我魂  
 杳杳天低鶻沒処   青山一髮是中原 

余生を海南の村で終えようと思っていたところ、
皇帝が巫陽を遣わして我が魂をお招きになった、
はるか彼方まで天空が低く垂れて隼が没するあたり、
青山が一筋の髪の毛にようだ、これが中原だ

注:巫陽は「楚辞」に登場する巫女の名前。

青山一髪とは、青い山が遠くかすかに見えるさまを一本の髪の毛にたとえた熟語ですが、この時の東坡
先生の心境を見事に表していると思います。

こうして先生一行は、五月に廉州、八月に永州と都に近い場所に移され、十一月には朝奉郎に復します。
翌年の建中靖国元年(西暦1101年)五月に江南にたどりつきますが、江蘇の常州に向かう船の中で重い病に罹ってしまいます。

やっとの思いで常州に着きますが、七月下旬にここで臨終を迎えます。
  ・・・
  大患縁有身   無身則無疾  
  平生笑羅什   神咒真浪出

大患も身があることに縁る
身がなければ病もなくなる
平生鳩摩羅什を笑っていた
臨終に臨みやたらと呪文を唱えたから

これが蘇東坡先生の辞世の詩となりました。
享年66歳(満64歳)

人生のジェットコースターのように変転を繰り返しながらも、常に自分の人生を楽しんだ蘇東坡先生の生き方はいかがでしたか。

こうして東坡居士の人生を振り返ってみると、人は自分の努力で運命の波を越えて、
たくましく生きていくことが可能であると思えてなりません。

推命学はその人の年令、年代ごとの好不調、吉凶をかなり正確に予言することができます。
しかし吉を手放しで喜んで、自ら何の努力をしないでいては、平穏無事に過ごすだけの人生になります。

逆に凶の時代でも、自ら運命の扉を開くべく精励努力を重ねれば、東坡先生のように日々の生活は厳しくても、その苦労が血や肉となり、書や画、詩作の世界で独自の境地にたどり着き、数々の傑作と共に

後世に名を残すことも可能となります。

最後に肉親をこよなく愛し、しかし多くの愛する肉親を亡くした、蘇東坡先生の名言を再掲します。

「人生離別無くんば 誰か恩愛の重さを知らん」

余談ですが、この先生の死去のあと、北宋最後の皇帝徽宗が親政し再び新法派の天下となります。

そして、その徽宗といえば中国四大奇書の一つ、『水滸伝』に登場する道君皇帝のことです。

蘇東坡先生の死去した年が、後に梁山泊に百八人の英雄好漢が集い大活躍をする小説の幕開けとなるわけです。(小説は北宋末という時代背景の設定であって、この小説には実在の人物も登場しますが、史実とは異なります)

この「宋」という国は、中国歴代王朝の中でも色々と興味深い歴史を持っています。
よく「歴史に学べ」といいますが、現代日本のこれからの進路を考える上でも、「宋」の時代は参考になる時代ではないでしょうか。

興味のおありの方は、下記の書籍などでさらに宋のことを調べてみては如何でしょうか。

中国の歴史(唐・宋)

 

 

本日も最後まで、ブログをお読みいただきありがとうございました。