33.3_東坡居士の後半生(1) | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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心に響く名言

33.3_東坡居士の後半生(1)
1.改革派の旗手、王安石登場


蘇東坡先生の後半生にふれる前に、11世紀半ばの当時の北宋の政治及び経済状況に触れておきましょう。
何故なら、このことが後の彼の人生に大きな影響を与えることになるからです。

さしもの経済大国であった宋も、英邁な皇帝と称された第四代仁宋の末期(西暦1050年ころ)には国家の歳出が増え、国の活力も衰えが見始めてきました。
これは、その体制が文治主義に偏重して官僚の俸給が増大したことや、西夏や遼といった外国と友好関係を維持するために膨大な銀や貢物を贈ることによるものです。

歳出の増加は増税によってまかないます。当然のことながら増税は庶民を苦しめ勤労意欲を減退させます。特に農本主義の宋の繁栄を支えたのは、健全な自作農民達でした。この人たちが税金が支払えなくなり、土地を手放し小作農に転落する例が激増してきたのです。

このしわ寄せは、仁宋帝の次の次の第六代皇帝の神宗(1067~)の時代になるとさらに顕著になってきました。19歳で即位した神宗は、父(第五代皇帝・英宗)の遺嘱でもある国政改革の意欲に燃え、その任に耐える人物を自ら見出します。それが、南京の長官をしていた王安石です。




  [王安石] wkipediaより引用

 

こうして神宗の熙寧元年(西暦1068年)、皇帝の強いバックアップを得、翰林学士として政権の中枢を担った王安石は、自分の政策を強力に推進します。時に47歳。これが史上名高い王安石の新法です。
この時中堅官僚だった東坡先生は、いまだ32歳で父の死のために服喪中でした。

王安石の改革の骨子健全な農民の層を厚くすることで、その最大の柱が「青苗法」でした。これは、国が農民に低利で資金を融資するものです。
この当時、田植えをするころにはたいていの農民は資金に欠乏していました。
田植え用のモミさえ売ったり食べたりしてなくなっているのが常態でした。
その困窮している農民の足元を見て、地主や豪族たちが高利で金を貸し、大儲けをしていました。
その利息は六割から十割といいますからまさに高利貸しです。


青苗法による政府の貸付の利息は、二割以下でした。
王安石は、どこかの国の野党と異なり口先だけの改革でなく、まさに改革を断行したわけです。
王安石の新法には、青苗法以外にも均輸法・市易法・募役法・農田水利法などの経済政策があります。
均輸法は商人の中間搾取を排し、政府の消費経済を合理化しようとしたもの。
市易法は商人に対する低利融資法。方田均税法は検地を行い、租税額を公平にする法。募役法 (役法) は職役の負担方法の改革といった具合です。

当然、この改革に対して、既得権益を持っていた人々、地主・豪族や御用商人、その出自の高級官僚の多くがこぞって反対しました。この新法に反対する朝廷に仕える官僚を旧法派といいます。

この時の旧法派の代表は司馬光です。
彼は儒学者としても当代一流で、さらに後に戦国時代から宋の建国前までを著した歴史書の『資治通鑑』の編纂者としても有名な人物です。

しかしながら、司馬光はこの王安石の新法をまったく理解しませんでした。
旧法派がその根拠として持ち出した理屈は、怠け者の農民を国が救済する必要はないというものでした。
彼らはどうせ金の返済をせずに逃散するだろう、すると金持ちが穴埋めをさせられる羽目になり、貧乏になるだろう、そのうち国中が貧乏人だらけになるのは目に見えているから、新法はけしからんという言い分です。

しかし、後世の第三者の目からすれば、この政策論争は新法に利があったと評価できます。
事実、宗国の財政はこの新法のおかげで立て直します。

但し、国を二分する大改革を性急に実施したことは、多くの禍根を残します。
さらに両者の対立は徐々に、政策をめぐるものというよりは単なる派閥どうしの政治権力争いに堕していきます。
結果としてこの国の力を弱めることになっていきますが、それは後のお話です。

2.東坡先生の政界復帰と地方官としての活躍

熙寧元年(1068)父蘇洵の喪が明けると、東坡先生32歳の時に、亡妻王弗の従妹である閏之を後妻として娶ります。
十二月には家族および弟の蘇轍らとともに都の開封に向かいます。
そんな東坡先生を待っていたのは、前述したように王安石が始めた新法と、それに反対する旧法派の抗争でした。彼が父の喪に服している間に、中央政界の様相はまったく変わっていたわけです。

東坡先生は、司馬光らとともにこの新法に反対の立場をとります。
しかし、彼の場合はほかの旧法派の人物とは多少スタンスが異なっていたようです。
それは政府が人民の暮らしに細かく介入することを非とする立場でした。

いずれにしましても東坡先生は王安石と意見が衝突し、中央にいては身の危険が及ぶことを恐れ、地方転出を自ら申し出ることになります。

こうして熙寧四年(西暦1071年)に東坡先生は杭州(こうしゅう)通判(副知事格)に命じられました。
杭州は、銭塘江の河口近くの北岸に位置しています。20万戸を数える江南地区最大の都市です。後に南宋の首都となるこの都市は、美しい街でした。
銭塘江は、河口から上流にかけて急激に川幅が狭まることから、満潮時には川の流れが逆流することで知られています。また街の西側にある西湖は風光明媚なことでも有名です。
この街を東坡先生は非常に気に入って、第二の故郷として愛すます。

この時代に東坡先生が作られた詩が「春夜」で、彼の最も有名な作品の一つでしょう。
それは芸妓たちとの遊びをテーマにしたものだったようです。
  
    春宵一刻値千金  
  花有淸香月有陰  
  歌管樓臺聲細細  
  鞦韆院落夜沈沈


  春の宵の一刻は、千金に価するほど素晴らしい
  花は清らかに香り、月はおぼろかにかすむ
  にぎやかだった歌や管弦も、いまはひっそりと静まり、
  中庭ではぶらんこが揺れ、夜は静かに更けて行く

熙寧七年(西暦1074年)杭州での任期が終わった蘇東坡先生は38歳で、再び自ら志願して密州の知事になります。密州は現在の青島のあたりで、貧しい地方であったといいます。
その後、熙寧十年(西暦1077年)に密州から徐州の知事に転じます。
徐州は江蘇省北部の交通の要衝です。この地に東坡先生は二年間在職しますが、
都市計画の専門家として治水対策などで功績をあげたほか、
この時期に詩人、書画に名手としての名声も飛躍的に高まります。


  [蘇東坡 墨竹図]

 

元豊二年(西暦1079年)、東坡先生43歳の時の事です。
蘇東坡は、徐州の知事から湖州の知事に転任します。この時、先生は皇帝に奉る感謝状「湖州謝表」を作りました。
その中で、新法派の役人たちを批判しました。これが新法派の役人を怒らせ、東坡先生を弾劾させたのでした。
詩文によって朝政を誹謗したとして、7月28日に逮捕され、8月18日に御史台(司法機関)の獄に投ぜられます。これ以降過酷な取り調べが数週間続きます。これは、中国では初の筆禍事件として知られています。

東坡先生は、新法派の高官たちをガアガアなく蛙、ジイジイなくセミなどにたとえました。これは政府の高官に対する許しがたい攻撃であることは無論、朝廷への反逆でもある。だから蘇軾(蘇東坡)には、死刑にするほかふさわしい処分はない、こう御史台は皇帝に対して上奏しました。

幸い皇帝は蘇軾に私心がないことを評価していましたので、どうにか死を免れ、黄州への流罪で決着しました。蘇東坡先生は4か月余りに及ぶ拘禁の末、この年の大晦日に釈放されて出獄します。

その一生涯、いつも強きで強情で、人に弱み見せなかった東坡先生はこの出所に及んでも意気軒昂たる姿勢を崩さなかったと伝えられています。
ただこの後に、釈放された自分は塞翁が馬の心境だという一篇の詩を書き上げた時に
「本当に自分は性懲りのない人間だ」とつぶやいたとも言われています。

3.苦難の黄州時代

出獄後、蘇東坡先生は、黄州に(今の湖北省黄岡県)につきます。
黄州の東坡先生の周りには様々な人が集まってきましたが、そのなかには旧知の馬夢得という人もいました。その馬が一肌脱いで、黄州郊外にささやかな土地を借りてくれました。

時に元豊4年、蘇東坡先生45歳の時のことでした。

この土地は東の坡(さか)にあたるので、自身を東坡(とうば)居士と号するようになります。
冒頭にも述べましたが蘇東坡という号は、本来この時より使うべきですが、このブログでは混乱をさける意味もあって幼少の時から「蘇東坡」で統一しています。

ここで経済的にも困窮を極めていた東坡先生は、自ら鋤を執って荒地の開墾を始めます。

黄州での生活は丸四年にも及びます。
かつて、旧法派を代表する官僚として、行政的手腕も評価され、詩文や書画でも名声を得、食通としても知られた東坡先生でしたから、この黄州での生活は本当に厳しかったと思います。
 

時に弱音も見せますが、この挫折の体験を現実のものとして受け入れ、より内省的に思索を深めると共に、現状を前向きに乗り越えようと努めます。

この時代に東坡先生が作った詩の一節です。

  荒田雖浪莽  
  高卑各有適  
  下隰種亢余  
  東原蒔棗栗  
  江南有蜀士  
  桑果已許乞 
 
  ・・・

荒れた田んぼが広がっているが、
それぞれの適性によって使い道はある、
湿地帯には亢余を植え、
東原には棗栗をまけばよい

江南に蜀の人が住んでいて、
我が願いを入れて桑果の苗を分けてくれた・・・

率直に今の心境を述べながらも、卑屈さは少しも感じられません。

この時期に読んだ詩句で、彼の詩作でも最も有名なものの一つが「赤壁賦」です。
三国志の時代に、魏の曹操が大軍を率いて呉の孫権、蜀の劉備の軍勢とこの赤壁の地で戦います。

「レッドクリフ」ですね。

東坡先生は、同郷の人とこの長江に船を浮かべて、赤壁に遊びます。

以下は赤壁賦の一節です。

・・・
月明星稀  烏鵲南飛      
此非曹孟德之詩乎 
西望夏口  東望武昌 
山川相繆  鬱乎蒼蒼     
此非孟德之 困於周郎者乎   
方其破荊州 下江陵
順流而東也    
舳艫千里  旌旗蔽空      
醸酒臨江  橫槊賦詩      
固一世之雄也 而今安在哉   
 
・・・

・・・
月明らかに星稀に、烏鵲南に飛ぶとは
曹孟德の詩ではなかったか、
西のかた夏口を望み、東のかた武昌を望めば、
山川相ひ繆はり、鬱乎として蒼蒼たりとは、
孟德が周郎に苦しめられたところではなかったか、
その孟德は荊州を破り、江陵を下り、
そこから長江を東に下って、
勢い千里、艦隊の旗が空を覆うほどであった、
孟德は戦いに臨み酒を用意して、槊を橫たへて詩を賦した、
まさに一世の雄と云うべき男であったのに、
今はどこにいってしまっただろうか
・・・

注:曹孟徳:三国時代に魏を建国した曹操のこと。孟徳は字(あざな)。
  周郎:三国時代の呉の軍師、周瑜のこと。赤壁の戦いで魏軍に勝利する。
  周郎は渾名


蘇東坡先生の後半生がなかなか終わりません。本日は、2021年7月31日。
東京オリンピックも佳境に入り、男子野球はメキシコに快勝しました。

男子サッカーはPK戦で辛勝し、ベスト4。どうにか準決勝に駒をすすめます。

柔道混合団体は、フランスに破れて銀メダル。
これらの名勝負を横目で見ながら、本ブログを執筆しています。
 

東坡居士の項が今までよりかなりの分量になるのは、二つ理由があるからです。
一つ目は、筆者がこの人物が好きで、ついつい愛着を持ってその人生を記そうとするからでしょう。
もう一つは、この蘇軾が生きた北宋中期の政治社会状況の背景が、なぜか現代の日本に似ていると感じるからです。かつての経済大国が、様々な事情で衰退に向かっていきます。
その歴史を振り返りながら、他山の石として復活するヒントがどこかにないか探っていることも関係あるのかもしれません。

いずれにしましても、今回も最後までお読みいただきありがとうございます。
次回、もう少し蘇東坡先生の後半生にお付き合いいただければと思います。