31.2 マハトマ・ガンディーの命式を読み解く | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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「正しく実行すれば、夢はかなう」をモットーに東洋易学、四柱推命(神機推命)、風水などの秘伝を公開し、自分の夢を実現するとか、悩みの解消に役立つ運命好転化技法を紹介します。

31.2. マハトマ・ガンディーの命式を読み解く

 

ガンディーの命式を読み解いていきます。
彼は、1869年(明治2年)10月2日、インドのグジャラート州で
生を受けています。下記の命式をご覧ください。


[マハトマ・ガンディーの命式]

 

年柱が 己巳
月柱が 癸酉
日柱が 丙寅 、

彼は、丙寅日生まれになります。

五行を集計します。
木気が1、日主を含む火気が2、土気が1、
金気が1、水気が1と、五行が欠けることなく
偏りがなく均一で、いわゆる五気が周流しています。

生日が丙寅で、この日に生まれた人は、他の干支の配置にも寄りますが、一般的に決断力があり進取の気性に富む人が多いようです。
小は自分の生活している家庭や職場を変える、大は世の中や社会の仕組みを変えるような革命的な仕事をこなす人材も少なくありません。

そして、通変星を見てみますと、
年柱が 肖綺 比肩
月柱が 正官 正財
日柱が    偏印

という組み合わせで、命式がとても綺麗で整っています。
このブログで、今までに三十人近い人を取り上げてきましたが、その中でも一、二を争うほどの好命な命式といえます。

特に月上に正官、月支元命に正財が並んだ財官双美格にあたります。
そして年柱に肖綺、日柱に偏印が入っているところがこの人の特徴で、たた単に人格や能力が優秀であるだけでなく、人の話をよく聞き、弁舌も上手く、人を惹きつける魅力にあふれ、またアイデアマンでもあります。

実行力にも優れたリーダー、人格者といえそうです。
大衆活動家や政治家としての資質に満ち溢れています。

全体の運勢として18歳ころまでは、色々な体験や失敗もし苦労がたえませんが、
多くのことを学ぶ修行の時代といえそうです。

19歳からは南方運に向かいますから、新たな場所で自分の能力を試す時期といえそうです。決して平たんな日々ではなさそうですが、自分の信念を曲げずに生きていけば、次第に協力者も増えて大きな仕事をなしとげることができるかもしれません。

そして、49歳頃からは運命の荒波が押し寄せてきますが、この東方木運にあたる三十年間も時代が味方をしてくれそうです。

思慮深くふるまえば、多くの人の上に立つリーダーとして社会の為に役立てる器量を有しています。
但し、69歳からの十年間大運に日柱と同じ干支の「丙寅」が巡ってきます。
この十年間は吉凶ともに激しい年回りといえそうです。

本来であれば、仕事もほどほどにして後進に道を譲ることが望ましいといえそうです。
自身の健康や急な事故などに格別の注意を払う必要があるでしょう。

以上、マハトマ・ガンディーの命式を概略ですが読み解いてみました。

非暴力・不服従運動を進める

1909年、ガンディーが40歳のときに、イギリスに陳情に行った帰りの船の上で、『ヒンドゥースワラージ(インド独立への道)』という本を書きあげます。
ガンディーはこの本の中で、西洋文明は疫病を広め、戦争や軍隊によって争いを大きくすると文明社会への批判を展開しています。

それと共になぜインドは植民地なのかという大きな命題にも触れます。

それは、イギリス人が帝国を維持できているのは、植民地になっている人たち(インド人自身)が協力しているからという結論に達しています。

インド人が協力しなければ、帝国の人たちは植民地を統治できなくなる、従って出ていくことになるというわけです。これが「サッティヤ-グラハ」-非協力運動・不服従運動-の根本ということです。

インド人が自分たちの誇りを取り戻す、そして自分たちの自治を取り戻すためには、自分たちのスワラージを、自分たちの王国・独立を作っていくためには、自分たちが独立した人間、独立した社会を作っていくべきだ、ということを主張しています。

この『ヒンドゥースワラージ』はベストセラーとなり、南アフリカでインド人の地位向上に取り組む活動家として、ガンディーは次第に名前が知られるようになっていきます。

1913年には、インド系移民の差別に対する権利の回復を求めて何千人もの同志と大行進を実施します。このストライキは一定の成果を手にいれます。多くの後継者や仲間も作ることができました。

この2年後の1915年ガンディー46歳の時に、インドのナショナリストで、彼の尊敬するインド国民会議派のリーダーであるクリシナ・ゴーカレーから帰ってきてリーダーシップを発揮してほしいと強い要請を受けます。

自分の死期が近くこのまま放っておけば、インドの民族主義的な過激派による武力闘争が起きかねず大変なことになるから、助けてほしいというわけです。

当時、ガンディーは南アフリカでやれることは全部やったと考えていました。
こうしてインドを離れて実に22年振りに母国に帰還することになりました。

インドではまだあまり知られていないガンディーでしたが、国民会議派が年に一回開催する大集会で演説をし、一躍脚光を浴びるようになります。

このガンディーが喋ったスピーチに感動した農民たちの代表の一人がガンディーを追いかけまわします。自分の住んでいるビハール州の農民が、イギリス人による搾取がひどく、今のままでは飢え死にしてします。何とか助けてくれと懇願するわけです。
当初ガンディーは彼から逃げまわっていましたが、しぶしぶ現地に行ってみたら本当に大変だということをわかりました。

そこは、インディゴという青い染料を作っているプランテーションでした。地主たちは、農民が自分たちが生きるための野菜などの作物さえ満足に作らせないようにしてインディゴの生産を強制して農民を苦しめていたのです。

ガンディーは、これは何とかしなければ本当に大変なことになる、上手くいくかどうかわからないけど、彼らを救うために何かを始めようと決意します。
こうしてガンディーは初めてインドでの「サッティヤ-グラハ」をしていくことになります。

彼は最初に調査チームを作ります。自分のようにイギリスで勉強して戻ってきて暇をもてあましている若者を都会から呼び寄せて、
「これはボランティアだよ。お金も全然払わない。だけど君たちは法律のプロとしていろんなことを知っている。農民たちの実態の調査を手伝ってほしい」
というわけです。
若者たちは背広は脱いで、農民たちの話を聞きました。
そこで、6,000人以上の農民にインタビューします。

調査の項目は、誰がどこに住んでいるのか、
どのような土地を持っていて、又は借りたりしていて、
どのような収入がどれくらいあって、
いくら借金があり、地主にどのように搾取されているのか、
どのように困っているのか、というようなことを調べ、
それを文書にまとめました。これをたった2か月で作り上げたのです。

この文書をイギリス人の農園主協会や、この地域の役所、それからインド政府のトップにも送り付けました。

メディアにも送りつけ、新聞にも出します。
この小さな田舎の農村でやっていたことを、全インドに、イギリスにそして全世界のメディアで公開したのです。
このある意味ではデータに基づく科学的な、NGO的な運動を展開したのです。

相手はこちらが絶対にかなわないと思っていたイギリスの農園主とイギリス人の政府です。
しかし、このガンディーの「サッティヤ-グラハ」は奇跡を起こします。

イギリス政府は「こんなことは恥ずかしいので、お前たち早く何とかしろ」と農園主に言いました。
こうして農民たちの主張が通って、地代などが切り下げられ、あるい
は懲罰をされないで財産を取り上げられないというようなことが起こったのです。

こうしてインド各地で現地の人の困っていることや、地主や官警との紛争を解決するための「サッティヤ-グラハ」が広がっていきました。



[チャルカを使うガンディー]

 

「ガンディーが来てくれればミラクルが起こる」
それは実際にガンディーやガンディーが率いるインド国民会議派が来れば、
イギリス人の政府も役人も警察もそう簡単には手を出せない。
地主も一目置いてくれるし、年貢も負けてくれるといったこともあります。
農民たちは、ガンディーが来れば、ガンディーの王国になれば、
つまり独立が来れば、自分たちの暮らしが良くなると心底思うようになりました。

こうして1920年~21年にかけて、全インド的な非協力によってイギリスを追いつめますが、
その際ガンディーが運動の象徴として取り上げたのが、手紡ぎ車(チャルカ)によって綿糸を紡ぎ、手織りで綿布をおりあげることによって国産品愛用(スワデージ)、自国産業の育成を進めようというものでした。

粗末な手織り綿布(カーディ)を着た素足のガンディーが手紡ぎ車を回す姿は、民衆に広く運動の本質を教える方法ともなりました。
しかし、1922年にチョウリ=チョウラという村で農民暴動が起こって警察官を殺害するという事件が起きてしまいます。
非暴力の原則が守られなかったことから、ガンディーは一方的に運動の停止を宣言したのでした。。
この事件によってガンディーの指導力も急激に低下してしまいます。
ガンディーが53歳の時のことです。

この後も、数々の困難な出来事や難題がガンディーに降りかかります。
彼が試みた「壮大な実験」も成功ばかりとは限らず、何回も大きな失敗を経験しますが、その都度マハトマ・ガンディーは不死鳥のようによみがえり、インドの独立にむけてインド人が自分たちの誇りを取り戻す運動の先頭にたって活躍を続けていきます。

1945年、ガンディが76歳の時に第二次世界大戦が終結します。
イギリスは戦勝国となりましたが、日独との戦いで国力は衰退し、本国から遠く離れている上に独立運動が根強く続けられてきたインドを植民地として支配し続けることはもはや困難になっていました。

イギリスのアトリー内閣は、インド問題の最終的解決を掲げ、1947年7月にイギリス議会がインド独立法を可決します。8月15日には、デリーにてジャワハルラール・ネルーがヒンドゥー教徒多数派地域の独立を宣言し、英連邦王国であるインド連邦が成立しました。

しかし、ガンディーの「ヒンドゥーとイスラームが融合したインド」との思い通りにはいかず、最終的にイスラーム教国家のパキスタンとの分離独立となってしまいました。

それでも、ムスリムとの融和を求め活動を続けるガンディーでしたが、ヒンドゥー教急進派にとってはムスリムに妥協しすぎると写り、1948年1月に、狂信的なヒンドゥー教徒の青年によって暗殺されます。
78歳の生涯を閉じることになります。

マハトマ・ガンディーの生涯を振り返ってみますと、困難な状況の中でも常に希望を失わず、自分の目標に向かって歩み続ける姿勢には頭が下がります。
 

最後は凶弾に倒れるという悲惨なことになりましたが、非暴力主義を貫いて、権力に立ち向かっていく姿は多くの人に尊敬され敬愛を受けています。
その平和的手法は、世界中の奴隷解放運動や人権運動においてキング牧師やネルソン・マンデラ氏の運動に多大な影響を与えたことでも有名です。

最後までお読みいただき、有難うございます。
最後に、マハトマ・ガンディーの名言をもう一度掲載します。

「非暴力は人間に与えられた最も偉大な力である。
 それは、人間が発明した最強の破壊兵器よりも強い力を持つ」